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党員用討論欄

殺人未遂事件(4) 道理が通らない

2001/3/10 しんさん(辛酸)

★ ウソで言いくるめる!

 前述したように、転居した現住所にはアカハタ読者ゼロ、党員ゼロと空白地でした。大型住宅団地ができて急速に世帯が増えて典型的なベッドタウンとなりました。
 1971年、地元地区委員会は支部をつくるため、「O」を支部長に任命(選挙ではない)しました。第一回の支部会議で友人が「○○の事件はどうなっているのか。支部長はどんな見解を持っているのか。○○が意見書を県委員会に出しているが未だ回答がこない。支部長が県委員会から回答を貰ってきて貰いたい」と発言しました。この要請に対して「ワイはそんなことは知らん。県党に言うことはワイにはできない」と拒絶しました。
 「O」に言っても埒があかないと、友人は県委員会事務所に行き「タクシ-代を私が払うから、今から○○の所に行こう」と言って県委員長(県会議員)「T」を連れてきました。「T」はシブシブながらついてきました。
 「T」は「Aの女房が婦人団体の県本部長をしている。我が党が政権についた時、あんたの事件の資料が残っていたら不味いことになる。党のために堪(こら)えのう」と頭を幾度も下げるばかりです。事件のことを「許せ」なのか「我慢せよ」なのか。意見書は握り潰したので「許せ」なのか。「我慢せよ」なのか。随分と曖昧で、いい加減な言い分です。
 私は「我慢せよ」と解釈しました。しかし、そんな稚拙な言い訳、ウソで言いくるめようとした県党の最高指導者(中央委員)の本質を見た思いです。私が提出した「意見書」を「Tが握り潰した」事実は、後年の中央委員会訴願委員会の調査で明らかになります。(後述)
 党幹部の殺人未遂という「共産党であってはならない」(元県委員長N)党史にも希有な重大問題を隠蔽しようとした指導者の責任を決して免れることはできません。県常任委員会、地区常任委員会は勿論、いかなる会議においても事件が報告され公正な審議がなされたことは一度もなかったと、歴代の県委員長「L」「N」が明確に報告しています。県党が規約を踏みにじり、著しく公正を欠いた指導に血道をあげた事実は組織犯罪にあたると思います。

★ 道理が歪められて、地域の民主主義が衰退した例

(例1) 1972年、この地において住民の強い要求で保育所運動が高揚した時期があります。私は友人と連帯して保護者の会結成そして保育所の定員増の課題と取り組みました。定員30人であったところを五年がかりで200人の定員まで引き上げることに成功しました。保護者の会会長に私が、副会長に友人が選出されました。
 ところが党支部長(町会議員)Oは、右翼的労組の幹部と噂されていた人物と野合して、三年目の総会で突然に「会長などが経営者や利権議員と結託して保育所運動と保護者の会を変質させようとしている」という根も葉もない執行部批判を展開し、会長、副会長を落選させました。大勢の住民の面前で、共産党が共産党員を住民運動の場から引きずり降ろすという醜態を晒しました。「O」の力量を持ってして、機関の指導支援なしで、このような暴挙はできなかったと思います。 
 「O」たちは計画どおりに会長と副会長を占めましたが、翌年の総会で惨敗しました。住民はシッカリと彼らの本質を見抜いたと思います。

 

(例2) 1979年、町行政当局が「住民調査票」なるものを自治会を通じて戸別配布し、記入した用紙を回収しようとしました。住民や保守層の議員からも「出身地を記入するようになっているが、これはおかしいと思わないか」という疑問が寄せられました。
 私たちは保育所運動の中心であったメンバ-に相談して、速やかに立ち上がり、回収を阻止し、行政と交渉して調査票の保管を止めさせることに成功しました。
 ところが「O」は「お前たちのやっていることは間違いだ。我が党が政権を獲った時に、この資料が役に立つのだ。お前たちのやっていることは、全て地区委員会に報告してある」と非難しました。他区の自治会から回収した住民票の扱いについて「焼却処分をするように」という住民の要求を、共産党議員は黙殺しました。行政に残された住民調査票は後年、暴力的団体に利用されます。住民に背を向けた共産党の姿勢は住民の不信を買うことになりました。
 この問題を重視した新聞社とテレビ局は取材のため、共産党議員にコメントを求めましたが、道理あるコメントができずに一時姿を消したという話を記者から聞きました。

(例3) 1975年、全盲の夫妻に赤ちゃんが産まれました。しかし、不幸なことに赤ちゃんの片方の目に、悪性の腫瘍が発見され、夫妻は精神的、経済的に絶望し、自殺寸前まで追いつめられていました。
 本人から、この話を聞いた私たちは「○○ちゃんを守る会」「今日と明日を考える会」をつくり、署名カンパ運動を開始し、短期間で約2000人分を集めました。
 同時に「障害者の独立を助ける営業資金の助成制度」をつくるよう共産党県会議員「T」を紹介者に県議会に請願しました。障害者の営業資金助成制度請願書は議会と県行政の間をスム-スに通過して採択されました。この朗報はいち早くテレビニュ-スが全国放送をしました。
 全盲の夫妻は、早速、新制度を活用して念願の「治療院」を開設できました。○○ちゃんは手術が成功して健康に成長しています。
 「T」議員は、始めからこの運動に協力的ではなかったのです。共産党の議会事務局に幾度も足を運びましたが、実に冷たい対応でした。住民の強い要求で事務的に動いたに過ぎません。
 町会議員「O」は「○○たちは、保守の連中とツルンで反動的な運動をしている」と機関に報告し、私たちの運動に冷水を浴びせかけました。彼らが言う保守反動者とは、自治会会長、民生委員、婦人会会長、無所属の議員を指しています。
 ちなみに全盲の彼は党支部員なのです。本来ならば、党支部が運動の先頭になってやる性格の問題です。共産党員はだれも手伝いませんでした。党員は、悪口は先頭になって言うが、本当に人間らしいことをやっているのかと問いたいものです。
 後日、「X」県委員が立ち寄り「私の妻が難病で失明しそうだ。君たちの運動に私は賛成である」と告げました。この運動が県委員会で「T」を交えて討議されたことが明らかになりました。議会での共産党の対応が冷淡であったのも当たり前であったと理解しました。
 全盲の彼は、営業助成制度をつくる運動を、共産党支部がやってくれたものと、最近まで思っていたそうです。彼の誤解?を知っていながら、自分たちの手柄のような顔をしていた「O」たちの品性と人間性が問われます。

(例4) 1994年の一斉地方選挙で、現職の共産党議員「O」が得票率を減らして最下位で落選しました。選挙のたびに票を減らしていましたので、当然といえば当然でした。
 再び空白になりましたが、彼の二十八年に渡る議員活動の中で、共産党の痕跡を見つけようとしても困難です。保守層は、彼が初当選した時(前回に記述)から「革新」とは見ておらず「オ-ル与党議会」という声が聞こえていました。彼が議席を占めようが占めまいが、痛くも痒くもないという声が住民サイドからも伝えられていました。
 住民が地の底を這うように、或いは、恐怖とも闘いながら築いた住民運動の成果を、あたかも自分の成果であるかのように振る舞い、選挙ビラにそれを載せるにいたっては、住民の反発が爆発寸前までいきました。
 「O」は自分が泥を被ったり、汗と油を流すような運動に始めから参加しませんでした。体制を整えたころにノコノコと入り込むか、高いところから見下げて批判(非難)を繰り返していました。

 このような共産党員を再生産している県党指導部の責任は重大です。

次回は 意見書 訴願状 訴願委員会 県委員会の反撃 顧問会議 中央委員会の幕引き通告  です。