調査打ち切りの怪
★ 中央委員会訴願委員会責任者「I」 副責任者「H」 県委員長「L」の来訪
※ 「I」氏は中央委員会常任幹部員
☆ 「I」責任者の報告
① あなたの意見書は常任幹部会で読まれた。
② 1967年7月6日付のあなたからの「意見書」は、中央委員会に確かに到着していたことを確認した。中央委員会は直ちに調査をするように某県委員会に文書で指示したことまでは確認できた。しかし、某県委員会からの調査結果の回答文書が届いた痕跡はなかった。あなたには「意見書が到着して、直ちに調査を開始する」旨の文書を送った写しが出てきた。某県委員会からの調査書が中央委員会に届いていないことは、中央委員会が「調
査」した事実がなかったことである。
1966年の事件当時、某県の党員から「党内で殺人未遂事件が発生した」という通報が中央委員会に入った。中央委員会は某県委員会に確認の電話をしたが、応対した人物は事件のことを知らなかったようで、全然要領を得なかった。それで、そのままになってしまった。電話で会話をした両者が誰であったか、今となっては確認のしようがない。
● 「結果として、党中央としてあなたに回答していなかったことになる。30年もの間放置したことを、中央委員会としてお詫びする」
③ 本日、元県委員長「T」、元地区委員長「P」、元地区副委員長「E」の三人と面談して話した。
「T」は二日前から入院していた。「T」は「○○の怪我があんなに酷かったとは知らなかった。○○の家で会ったかどうか忘れた」と答えた。
「ここに、貴方が○○に封書で返事を出した写しがある。それに○○の家にY同志に連れられて行っているではないか。思い出しなさい」と追及した。しかし、あまり厳しくしては「T」の体調が悪くなり、万一のことが起こるとこちらの責任を問われかねないので、ほどほどにしておいた。
「P」は「当時、地区委員長であったが、実務は他人に任せていたので、事件の詳細は知らない」と答えた。
「E」は「Aの処分については適切なものでなかった。自己批判している」と答えた。
「Aの除籍は処分ではない。除名にして将来も党に帰られないようにしないといけなかった」と中央委員会の見解を伝えた。
☆ 副責任者「H」の報告
① 「訴願状-補足」を読んだ。訴願委員会に訴願してくる人の気持ちをもっと汲まないといけないと思っている。
② 「訴願状」に書かれている問題の確認のため、「I」幹部会員に本日同行してもらった。
☆ 県委員長「L」の報告
① 県委員会総会と地区委員会総会で事件の報告をした。
出席者の中から「事件のことは知らなかった。○○は事件のことを誰にも話していない」という発言があった。
☆ 「I」幹部会員の発言
「事件のことは今でも喉にトゲが刺さっているように感じている」とEが話していた。「中央としても一生懸命に努力するから、あなたも若い指導者を盛りたてて応援して欲しい」「スパイの件は証拠がなく、推測では判断できない。党の団結をはかるために、思い過ごしをしないように」
☆ 副責任者「H」の発言
「党を信頼して欲しい」
以 上
※ 三人が滞在した時間は実質的には一時間の短いものでした。報告は時間の制約があるとは言え、言いたいことを一方的に言って帰るパタ-ンです。私たちの意見や感想を聞こうという姿勢はありません。「合意と納得」の指針は他の世界のものとしか思えません。
元県党指導者「T」「P」「E」の三人は、相変わらずの「ウソ」「偽り」「責任逃れ」です。「党の団結のために考えすぎるな」という「I」幹部会委員の発言は、党員の愚民化に貢献するものです。
★ 1997年5月6日 訴願委員会副責任者来訪
☆ 副責任者「H」の報告
「訴願委員会では1996年4月12日に報告した時点で、問題は解決したものと思い、常任幹部会に○○夫妻が『党を辞めずに頑張ってよかった』と涙を流して喜んでくれたと、ロマンチックな報告をしていた。ところが、某県委員会は問題のひとつひとつを取り上げて反論(反撃)している。それに県党の指導者は全く反省していないし謝罪もしないという手紙を貰い、常任幹部会委員の『I』を伴い二回目の検証を行った。『T』『P』『E』の三者が加害者『A』の処分が誤りであったことを認めたので、I氏とL県委員長と再びあなたを訪問して報告した。実際のところ、これで決着がついたと思った。」だから「又手紙が来た時は正直のところ大変驚いた(腹がたった)。しかし、手紙の内容を読み返してみると、このことこそが○○の本当に訴えたい点であることが解った。1967年に中央委員会と県委員会にあなたが提出した意見書から各種の手紙まで一貫して、殺人未遂事件の背後関係が書かれていることを確認した。」
「かつて日本共産党内に「裏組織」が確かに存在したことがある。某県党内に存在した可能性があるかも知らない。我々は「裏組織」を重視している。
意見書の我々の読み方が浅かったことを反省している。訴願委員会には沢山の訴状が来るが、今後は書いた人の真意を汲み取るように努力していきたい。」
以 上
※ 「H」氏は、この日「某県党の50年問題事情」に詳しい党員と会って検証をしています。そして私の身辺調査が始まりました。まず、「党歴=活動歴」が求められました。次に「肉親、学歴、交友関係、履歴書」の提出を求められました。
★ 1997年8月21日 面会を強要
隠蔽工作首謀者「E」
この日、「E」から「今から県委員長『L』を同行して行く。○○と面会したい」という電話がかかっていると妻が伝えました。私は「そんな話は中央委員会訴願委員会から聞いていない。それに仲介者もいなく突然の面会は不自然だ。攻撃的な県委員長を連れてくるとは穏やかでない」と判断して「直ぐに断りなさい」と言いました。
ところが、「E」は妻を電話口に釘付けして放さずに、20分以上も一方的に喋り続けました。この「E」の執拗さに、積年の怒りが爆発して受話器を奪い叩き付けました。
「E」は首尾一貫して隠蔽工作の陣頭指揮をとり、事件を上級に報告せず、かつ正式の会議にかけないで「○○は党に反抗する者」という通達を機関にしました。イジメ、排除の根元はこの人物から出ていると言って過言ではありません。「E」に盲従しているのが県委員会の指導者たちです。「L」県委員長は前述(6)で報告したように、中央委員会訴願委員会の見解と真っ向から対立する立場から私を攻撃している人物です。こんな二人が揃って面会を強要することは異常事態でした。
「E」が20分以上も何を喋ったのか? 「わしは、事件の時にあんたの旦那のことを心配して、病院に何日も寝泊まりして様子を見ていたのだ」と強弁したそうです。病院には付添人以外の人が入れるスペ-スはありません。彼らはなんでこんな稚拙なウソをつくのでしょうか。中央委員会にもウソをついています。
彼は私の家族の監視と隠蔽工作のために、毎日病院に張り付いて指揮をとっていたのです。当時、事件の現場となった党郡委員会事務所の計画委員長をしていた新県委員長「N」は、「私は事件の全てを知る立場にあった。病院には寝泊まりできる余地などはなかった」と訴願委員会の「H」の前で証言しています。
ウソで塗り固めた事件の真相が暴露されそうになると、今度はアメと鞭です。
★ 1997年12月17日 中央委員会訴願委員会の豹変 ★
訴願委員会副責任者「H」 新県委員長「N」来訪する
☆ 「N」 新県委員長の報告
● 人間を大切にする党で、あってはならないことが起こった。事件は反社会的なものであった。(報告の冒頭から「N」の視線が定まらず、報告がシドロモドロになりました。突然のNの異変に驚いた「H」はNから報告を引き取りました)
☆ 「H」副責任者の報告
最初の訴願状を受け取ってから、今日で四回目の訪問である。「I」幹部会員と来た時は正直「これで終わった。○○も納得してくれて良かった。」と思ったものだ。ところが再度の意見書が届き大変驚いた(腹がたった)。
しかし、再度の意見書の中に1967年に出された最初の意見書で記述されていることを確認した。沢山の訴願状を読む中で、訴願者が訴えたいことを読み落としていたことを率直に認める。
● 意見書の中で党の中に「裏組織」について述べられているので慎重な調査を行った。今年5月23日、「P」を党中央委員会に呼び、事実関係を聴取した。「P」は「事件当時、自分は地区委員長の仕事をしていなかった。○○の怪我も知らなかった」と答えた。
そして、一貫して裏組織を否定し「あれは○○の就職の世話をしたにすぎない」と主張した。また「H」責任者は、「甲など証人となる人物が死亡している。Pは高齢で記憶が覚束ないところがある。○○も当時の記憶に一年の誤差があったりして正確ではない。中央委員会では手を尽くしたが、真相に到達することは困難である。これ以上の調査はできない。」
● スパイ問題は「証拠がない」ので調査する方法がない。
● 8月8日、「」当時地区副委員長を党中央委員会に呼び、殺人未遂事件の某県党の対応について聴取を行った。Eは「事件当時、自分は何日も病院に泊まり込んで対応していた。」と不眠不休で指導したことを強調した。
● それで事件は『Aの事業上のトラブル』という結論に達した。
● 「E」に「Aに対する寛大な処分は重大な誤りであった。そして○○への対応も間違っていた」と中央委員会は言った。
● 加害者「A」の処分をやり直すことはできない。何故なら、Aは既に党籍がないからである。
● 「E」が「○○に謝りに行きたい」というので「本心から謝罪するのでなく中途半端な態度で行くと、却って○○の感情を逆なでする結果になるから、十分に留意せよ」と中央委員会は助言した。
ところが「」は『今からを連れて行く』と○○に電話して非常に怒らせた。中央委員会が最も心配していたことが起こった。
● 中央委員会は某県党は『今までずっと正しい路線を踏んできたと高く評価している』
● ○○の訴願状については、中央委員会が手を尽くして調査をした結果、これ以上の調査はやりようがない。しかし、○○の訴願状にはこれからの党活動に教訓としなくてはならない問題が含まれていた。あなたの訴状を決して無駄にしないことを伝える。
以 上
☆ 「N」新県委員長の報告(続き)
● 事件は反社会的なものであった。それを県党が組織的に隠蔽してきたことは犯罪である。私たちはこれを真摯に受け止めている。
あの時点で「A」を除名処分にしなければいけなかった。将来的に党に帰ることができるような処分になっている。「A」に寛大で○○には過酷なものであった。
30数年前の事件であるが、当時私自身が事件の現場となった東部郡委員会の計画委員長であった。事件のことは最も良く知り得る立場にあった。
我々は新しい世代の執行部であるが、県党としての責任を回避するようなことはしない。来年一月の県党会議で総括することになっている。
以 上
◎ 中央委員会訴願委員会の「H」氏は、席を立つ際に「ここへ四度も来たのだ。何もなかったではないか!」と吐き捨てるように言いました。それを二回もです。
「何もなかったではないか!」という暴言は、一体どこを押したら出てくる言葉でしょうか?
◎ 細胞(支部)長を立会人にして、数人の党員の見守る中で行なわれた殺人未遂事件は隠しても隠しても真実を曲げることはできません。加害者と細胞長は「党の決定を守らなかったお前を制裁する」と言って鉄棒を振り上げたのです。その後、植物人間状態になっていた私を「党に反抗する者」と貶めて通達を流したのは県党であり地区党でした。事件は共産党と関係がなかった。としたいばかりに窮余の策として「事件はAの事業上のトラブルであった」という中央委員会の決定にしたものと思われます。中央委員会と県党の合作と思われます。
◎ 中央委員会の決定に小躍りして喜んだのは誰か? 結局、殺人未遂事件を隠蔽して重大な人権侵害を犯しておきながら「だれも悪くないし、責任をとることもない」「誰も謝らなくてよい」。このような反社会的な共産党であることに、党員の誰も気がつかないとは!
◎ さすがに「N」新県委員長は良心の呵責からか、報告がシドロモドロになりました。最後は美辞麗句で締めくくりましたが、後日、「一月の県党会議でどのような総括がなされたのか教えて欲しい」と回答を求めたところ、「あの問題は終わった。これ以上発言すると処分の対象にするぞ」という答えが返ってきました。始めから真面目に総括など行う気持ちはなかったのです。
次回は「一切無視せよ」 「黙殺せよ」