「平山」なる人物のあのような意見をみると、あれが党員の一部にある意見だとすれば、原水爆禁止運動をはじめ、東京大空襲を記録する運動やら近年の「従軍」慰安婦の問題、あるいは高校生の平和運動への取り組みなど、戦争を告発し平和を守る運動の歴史、それからこの党自身が、あの侵略戦争下で「侵略戦争反対」の旗を掲げ闘い弾圧された歴史、異論はあるだろうがあの戦争は帝国主義間戦争の一面と対ファシズムの一面をもった戦争であったとの認識、これら、党や革新勢力が歩んできた歴史や培ってきたものが、受け継がれていないようだと残念な気持ちになる。
平山氏は言う。
「ソ連、アメリカの戦争は許されるものであるのか。著しい人種差別に基づいた不当な行為である。」
どちらの側も帝国・膨張主義的な側面をもって戦争をしたということだ。
「A級戦犯という名称は、東京裁判で、アメリカが、日本のみに対して付けた不当な分類である。」
戦勝国の一方的な裁きであり、問題があることは確かだ。しかし、だからといって「A級戦犯」らが裁かれる必要のない連中であることを意味しない。すべてが不当なのではない。天皇や東条をはじめ戦争を遂行した最高責任者は責任を問われるべきだ。それを問うことを日本の国民自身がしていないことが問題なのだ。その際に、「A級戦犯」らは最大の責任を問われる連中であることに変わりは無い。
「日本人は、犯罪者であっても、ましてA級戦犯であっても、死んだ人の墓参りをすることは、一切気にしない。墓を暴いてでも恨みを晴らす中国人とは、文化的気質が異なるのであり、それを否定することは、その国固有の文化を否定するものである。」
この日本の「文化気質」なるものは嘘だ。あるいは都合のいいように日本を美化(しかし実は貶めていることに気づかない)しているだけだ。
梅原猛によれば戦争で勝った側も負けた側もまつるのが、日本古来の伝統だという。平山氏の言う「文化的気質」など、首相の靖国参拝正当化の根拠とするだけの明確さと広がりをもって、広く日本社会にあるのか。どんな正当性をもって、「文化的気質」を首相の靖国参拝を正当化するだけの根拠とするのか。
だいたい一般戦没者への墓参と「A級戦犯」への墓参とは意味が違うと感じる「文化的気質」は日本にはないのか。それがあなたには、アメリカの勝手な裁判を盲信しているだけ、としか映らないのか。
「他国の首相のプライベートな行動」
首相に私人も公人もない(土井:社民党党首)。
「靖国問題の唯一の解決方法は、日本の罪を居直るのではなく」
あなたは意見は十分に「日本の罪を居直っている」。したがって、あなたのいう解決策なるものは考慮に値しない。
平山氏の論調も、首相の靖国参拝賛同勢力も、反「自虐史観」勢力も共通して鼻につく点がある。
侵略された側への視点が皆無なことだ。そういうのを「居直る」というのだ。平山氏は「日本の罪」などと平気で書くが、その「罪」とは誰に対する、何に対する「罪」なのか。
平山氏の論理をたどろう。
見てのとおり侵略された側への視点が皆無である。
アメリカもソ連も悪い-そのアメリカが「A級戦犯」を裁いたから不当だ――だったら誰が裁くべきか。本来は、日本の国民自身が裁くべきなのだ。法的にはともかく、一定の日本の国民は、平和運動等の戦争を告発し平和を守る運動に取り組むことをも通じて、戦争責任の所在、中国や朝鮮その他の人々への加害責任などを認識してきた。そういう意味では裁いてきたのだ。こうした運動は「天皇」「A級戦犯」と称される者の責任や罪をいかに捉えるのかを問うことと不可分だ。もちろん、原水爆禁止運動などによってアメリカの「犯罪」も人々の心に銘記されている。
アメリカやソ連はどうでもよい。もっとも日本の侵略の被害を受けた中国などの諸国からみて、平山氏の意見はどう映るのか。「A級戦犯」はそもそも不当な呼称とし、たとえ「戦犯」でも首相の墓参は日本の文化的気質などという。
では、あの侵略戦争で莫大な命を双方から奪ったことに、いったい誰(何に)に責任があり、日本の侵略戦争への反省とは何に示されているのか。
平山氏の意見は、それを示さずに、靖国参拝を正当化する。首相の靖国参拝を正当化したいのなら、侵略された側に対して、日本の侵略した責任と侵略への反省を明確に示すことと両立させてみよ。そのこと抜きの参拝擁護など、「日本の罪を居直る」こと以外のなにものでもないではないか。
「日本人は、これで良いのだろうか?」などと、高所にたった物言いをする前に、ご自分こそ、平和を願い、闘ってきた人々、また戦争で踏みにじられた人々に思いをいたし「党員として、これで良いのだろうか?」と厳しく自問されよ。