小林栄三氏の死が赤旗紙上に報道された。氏の党史上に残した有害な役割を振り返ってみたい。
氏は全学連結成当時は、確か書記長であった。当時の中執で党に残ったのは氏くらいだったのではなかろうか。武井昭夫氏や安東仁兵衛氏は後に除名された。確か宮顕の秘書を経て常幹入りし、新日和見主義事件事後処理に青年学生分野を担当するようになった。
基本的に私は、氏を「宮顕の意向を受けて論文を書くしか能のない茶坊主」と捉えていた。私の学生時代、氏の演説会が私の居住地で開催され、「人集めをしろ」との党の指令でクラスメートを誘って参加したのだが、党の方針を教条的に説くだけの演説内容のあまりのつまらなさに「小林栄三なんやあれは」と級友達からさんざん文句を言われて、とんでもない恥をかかされたことを思い出す。
氏が広谷俊二解任後の青年学生分野を指導した結果は、惨憺たるものであった。さすがの党中央もこの結果を捨てては置けず、70年代末には「学生支部活動の改善方針」が提起された。にも拘らず、誤った指導をして青年学生運動を後退させた張本人の氏は解任されることもなく、常幹に居座りつづけた。ひとえに宮顕の茶坊主効果であったのだろう。全く馬鹿げた話ではあったが。
今日の青年学生分野の惨憺たる状況の、端緒を作った幹部の死として今回の件を捉えていきたい。