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党員用討論欄

『科学的社会主義を学ぶ』を批判する

2001/9/24 J.D.

 現在わが党内では、不破哲三『科学的社会主義を学ぶ』が独習指定文献以上の扱いを受け、これを学習するように強調されている。党関係のおそらく全ての雑誌で書評がなされ、新聞でも大々的に取り上げられた。そのほとんどは大げさな讃辞を呈するものであり、また読者の感想としては「たいへん分かりやすかった」とか「『科学の目』を受け継ぐことが大切だと分かった」等々が紹介されている。
 しかし、この著作はそれ程学ぶべき内容を含んでいるのだろうか。私はそうは思わない。この著作を扱った書評に倣って多少大げさにいうならば、この著作は詭弁の産物であり、はっきり言ってしまえば嘘が書いてあるに等しい。レーニンは看板だけの「前衛」を否定した。私は看板だけの「科学の目」を否定する。読者におたずねするが、いったいわれわれ末端の党員は、党の指導者が口先で「科学の目」を受け継ぐことが重要だと言っただけで、その指導者が「科学の目」を受け継いでいると信用するほど、阿呆であろうか?
 そこで私は看板にとらわれずに、中身を検討して、その詭弁・嘘を暴露したい。

 今回は(今回で終わるかもしれないが)、いわゆる「構造改革」論とその評価について検討したい。
 不破は『科学的社会主義を学ぶ』163ページにおいて、綱領論争当時の春日庄二郎らいわゆる「構造改革」論者の見解を「政権をとらないでも、資本主義がなしくずしに社会主義に変わってゆくという、“なしくずし革命”論」であったと批判している。しかし、「政権をとらないでも」というのはあきらかに歪曲である。当時宮本らによって批判されたのは、政府云々の問題ではなく、権力の獲得を明確に提起していないということなのである。
 ここで、「政権をとることと権力の獲得はどう違うのか、同じではないのか」という疑問がでるかもしれない。しかし、両者は明確に異なっている。詳しくは別の機会に説明したいが、簡単にいうならば、前者が単に与党になることであるのに対して、後者はプロレタリアート独自の政治的理念によって思想的・イデオロギー的に基礎づけられた政治的意志を、国家意志として成立させることである。つまりプロレタリア独裁を形成することである。こうしてできあがったプロ独(=国家権力)は、独自の法体系を創出するのであるから、従来の「何らの法律の拘束も受け」ないのは当然である。
 話を戻して、不破が問題にしている春日らの主張はどのようなものであったのか。綱領問題を論じた宮本顕治『日本革命の展望』をもとにまとめると、それは、民主的な統一戦線政府は平和的・合法的に安保条約の廃棄・サンフランシスコ体制の排除をおこなうことができるし、構造的改良のつみかさねによって漸次的・合法的・民主的・平和的に社会主義的変革を日程にのぼらせてゆくのだ(これはどこかで聞いたような話だ!)、というものである。不破哲三ともあろう人が、こんなことを知らないはずはない。「政権をとらないでも」などという説明が意図的な歪曲であることはあきらかである。
 現在の不破路線はこの春日らの路線にあきらかに接近している。不破が「適法的に基地の返還を要求することができるし、アメリカ政府はこれをこばむことはできない」(春日の主張)と言ったとしても、何の違和感もないし、実際似たようなことをいっている。春日らの路線は綱領制定時に宮本らによって徹底的に批判されまくって「イデオロギー的破産が宣告」されたことになっているから、不破が春日らの路線について言及する際には彼らの主張をむりやりねじまげてでも現在の自分の路線との違いをみせなければならない羽目に陥っているわけである。

 レーニンは、自分の願望を客観的現実ととり違えることは、革命家にとってもっとも危険な間違いであるといった。「自分の願望を客観的現実ととり違えること」とは、より一般的にいえば、観念を対象に押し付けることであり、これは科学的=唯物論的立場とは無縁である。これは観念論的立場である。ところが、これはまさに不破氏の得意技(思い当たることが一つや二つではない)であって、今検討した事実の歪曲もその一例である。自分は観念論に陥りながら、「科学の目」を受け継ぐことが重要だ、などと主張するのは、まさに羊頭をかかげて狗肉を売るの類である。