「さざ波通信」編集部の3中総批判を興味深く読みました。
さて、3中総志位報告の第4章には以下の短い一節があります。私はこの問題が取り上げられたことは注目に値すると考えました。
「各分野の運動団体のなかでの党員拡大を重視したいと思います。わが党と日常的な協力関係にある民主的な運動団体のなかでの党組織の比重が小さくなっているという問題があります。それぞれの団体が、その性格にふさわしく民主的に発展していくうえでも、積極的なとりくみが必要です。党グループが積極的な役割を果たすことをとりわけ期待するものです。」
いったい、なぜ党組織の比重は小さくなったのだろう? その考察が科学の党に欠けている。私が言おう。それは「民主的な運動団体」に対してかつて党中央自身が乱暴な介入をしたことも尾を引いている。新日和見主義事件。原水協や文学団体への人事介入。一私企業にすぎない「日中出版」社長への赤旗紙面を使った人格攻撃。が、一転して現在顕著な現象は、各団体指導部の党員が権力をかさにきて、自団体内で無茶苦茶な労働者弾圧をしていることである。いずみ市民生協、日本労協連、民医連「吉田病院」。
(私のサイト【http://www.hoops.livedoor.com/~kukchung/index.htm】もあるが、いずれも有田光雄氏のサイト【http://village.infoweb.ne.jp/~fwhi8213/】が詳しい)。
また、神戸市役所の労組や国鉄労組にみられるように、労組幹部である共産党員が労組の旗を投げ捨て、無駄な新空港推進の市長を担いだり、不当労働行為と最後まで闘おうとする末端組合員を切り捨てる側に立っているからである。そんななかでの党籍とは、実態は労働貴族であることを覆い隠す免罪符であり、彼らの属しているのはちっぽけな官僚的利権を守るための私党でしかない。党組織の比重が低くなるのも当然だ。
積極的役割を「とりわけ期待」されている党グループ。いま、これは荒堀広氏が責任者を務める国民運動部の管轄だ。荒堀氏はこの春「これからは、自由にやって下さい」と、党内労働貴族たちに語ったとのことである。なぜこう告げられないのだろう?
「路線、人事ともにあなたがたに介入しません。ただ、党として批判をすることはあります。もちろん労働者に苛酷なサービス残業や不当労働行為をしている場合は、問答無用です」と。
つまり党中央と党グループとは「お互い」自由なんであって、循環型なのです(笑)と。
思えば党中央は1988年、日本生協連(と内部党員グループ)が昭和天皇重態による「自粛」ムードに呑まれて生協の各種イベントを取りやめたことを、厳しく弾劾していた。しかし今は「新宮様への賀詞奉呈」は「自然なこと」なわけである。労働貴族党員たちは慶んで皇居に赴き記帳し、その足で 代々木に寄って新・党本部建設に大口カンパするがいい。いつか、党もろともすべてを失うであろう。