雅子の出産にともなって、日本全国がファシズム的「奉祝」ムードに染まる中、看過できない変質が共産党に起こりました。
志位委員長の「新しい生命の誕生はひとしく喜ばしい」、市田書記局長の「天皇は憲法上の存在であり、『賀詞』国会決議に賛成する」
この記事を「赤旗」紙上で目にしたとき、私(党歴23年)はわが目を疑いました。「天皇家」という存在は人間として「ひとしい」立場におかれていない。歴史的存在としての「天皇」は、特にこのアジアの近代史において血塗られた侵略と植民地主義のシンボルであったのではないでしょうか。そうした歴史的文脈を抜きにして、このようなせりふがよく口にできたものです。
沖縄で米兵に暴行され妊娠した女性が、中絶の機会を逸したままに出産せぜるを得なかったとしたら、志位書記局長はそれも「新しい生命の誕生はひとしく喜ばしい」とのたまうのでしょうか。
「天皇は憲法上の存在であり、『賀詞』国会決議に賛成する」というのもまったくおかしい。たしかに日本国憲法には天皇条項がありますが、これが帝国主義国アメリカの占領政策の上で有効であるとみなされたために温存されたことは、少しでも戦後日本の歴史を省みたことのある者なら誰にでも理解されるはずです。この天皇の存在自体、憲法の平和主義・民主主義の原理と相反する、日本国憲法に内在する矛盾なのです。制度としての天皇の存在そのものが「ある」ということを認めるということと、それに異議を唱えないということとはまったく別のものであるはずなのに、今回の声明はその点を無意識にか、はたまた確信犯的にか、混同しているのです。
「賀詞」とはなんでしょうか。お祝いのことばです。憲法上の存在に対して儀礼的に「賀詞」を奉ることはありうるというなら、憲法上の存在である天皇の「おことば」類も、「憲法上の存在であるがゆえに」容認されるということになる。これまで共産党は国会開会の場などでの天皇の「おことば」の政治性を指摘し、退席などの抗議を行なってきたではないですか。こうした論理を容認するなら、これは限りない憲法の条文からの逸脱、解釈改憲による天皇の実権化を生みます。
天皇家の子供を養うのは「皇室費」という名の税金です。特権的に差別された身分を温存し、その費用を税金からまかなう事態が新たに発生したことに対し「お祝いのことば」を奉るのが、果たして共産党の立場と一致しているというのでしょうか。
日本列島地域を含む東アジアの近代史上に果たした「天皇制」の役割、そして現在のイデオロギー状況下での形を変えた「天皇制」への国民動員のファシズム的動きの中で、共産党まで天皇制を寿ぐようになってしまったかと思うと、絶望的にならざるをえません。共産党指導部には、一刻も早くこの誤った認識を改めるとともに、歴史的・地理的にトータルな視野をもった「天皇制」批判に踏み切ることを心から願います。