拙稿で、故丸山氏の「タコツボ型」組織論について触れた。氏によれば、戦前は「天皇制」によって各々のタコツボ(組織)がつながれていたという。戦前の組織は「天皇制」という共通の言語をもっていたのだ。
組織の対象を戦後の学生組織に限定すると、学生運動という共通言語があったと思う。
学生運動という共通言語をもたなくなった今、各々のタコツボは孤立化するのであろうか。
私は、現在のサークルは氏の指摘した当時に比べて少し状況が複雑になっていると思う。各々のサークル同士の結びつきが弱いだけでなく、サークルの構成員同士の結びつきが弱くなっているのである。すなわち、「二重のタコツボ」のような形になっていると思う。組織と個人の両方において、周囲と共通の言語をもつことが難しくなっているのかもしれない。学生サークルのスナップ写真などでいかにも仲がよさそうに写っているものがあるが、建前である。昨今、新聞で学生の人間関係の未熟を指摘する投稿が見られるがそちらが本当であろう。
「二重のタコツボ」とは言ったが、個人対個人の紐帯の弱化は、組織対組織の紐帯弱化とは性質が異なる一原因を持つ。それは個人対個人の関係においては、例えば小中学校の「いじめ」に象徴されるように、多かれ少なかれ相手との違いを認めないことだと思われる。大学サークルに於いても、いったん個人に関しての問題が生じると、批判が歯止めを失った形で「いじめ」へと発展する経過を私はみてきた。
互いの違いを認めないということは、お互いを知り合おうとする意思も消失することを意味する。サークルの定例会での交流はあっても、それ以外の個人的交流は殆ど行われていないと断言できる。大学サークルは、一方で「サークルの運営」という積極的な要素を持つにも関わらず、他方で「構成員の不和」という致命的な矛盾を抱えているのだ。
独創的かもしれないが、私は、今存在する最も基礎的な学生組織である学生サークルの問題の解消が、将来的には学生自治への議論を喚起していくものだと思った。なんとなれば、個々のサークルの発展によって、組織間の連絡網を持つ必要性が生じるからだ。学生自治会を再建し、安定的な軌道に乗せるためにはまず学生組織の基礎単位を民主的に運営せねばならぬだろう。
サークルの民主的運営。ここにこそわれわれの当面の存在意義を見出すことができると思う。私がこの点を強調する理由は、各大学のサークルの民主的運営の状態にはムラが生じていると思うからだ。すなわち、サークルの「村社会」化が進行していると私は断言する。「村社会」とは、わかりやすい例で表現すると、日本歴史のいわゆる『大化の改新』以前の豪族が割拠している時代とでもしておく。もちろん私はすべての大学サークルの状況を知っているわけではないが、私の調査の結果である。
私は「村社会」の状態から、せめて『大化の改新』すなわち、サークル人同士で組織の目的・運営などについて議論の成立する関係に発展させたいのである。『自由民権』や『レーニンへの道』はそれからでも遅くはないであろう。
私は、できる限り多くの学生同盟員のみなさんが、サークルに所属し、学生組織の民主的発展に寄与されることを訴える。