投稿する トップページ ヘルプ

党員用討論欄

運動の発想と党内民主主義の連環

2003/2/5 H・H、20代、学生

 組織内の言葉の沈殿すなわち古い考えの沈殿。それが日本型タコツボ社会に於いては、他人への「啓蒙」すなわち押しつけとなる可能性が高いことが、40年前に丸山氏によって指摘されている。
 もっともな指摘であり、組織内の言葉の沈殿及び思考の停止を防ぐことが、他人への「啓蒙」を未然に防止する有効手段である。
 また、古い考えの沈殿は、それを構成員及び他人へ「啓蒙」することによって、組織の民主主義に影響を与えるであろう。
 すなわち、日本共産党の党内民主主義のシステムは、理論上は有効なのかも知れないが、思考の停止という条件が発生すると、180度転換することになるのではないか。なんとなれば、タコツボを繋ぐことができるのは、共通の流通語を見いだした場合で、この場合は、組織と個人の両方において情報伝達はスムーズにいくものと思われる。組織の非民主性が問われるのは、思考停止が発生しているという警告なのだ。
 ところで、私としては、運動改善の問題を単に「思考停止」からの脱却を要する、と述べて終わることは避けたい。というのは、思考すべきことに、かなりの発想の転換を含んでいると思うのだ。
 たとえば、昨今「自由主義史観」の側から発表されている「新しい歴史教科書」などに、学ぶべきことは含まれていると思う。一つ挙げるなら、それの一部で「特攻隊」員の遺書等を扱っているが、私はこれを教材として扱うことは決して間違っていないと思う(「特攻隊」の善し悪しに関わらず)。全体としては機能的欠陥が多いのであるが、該書は、口早にかつ断定的に言うと、小林よしのり等の著書と同様、若者を惹きつけるセンセーショナルな魅力を放っている。機能的には甚だ欠陥の多い教科書が、なぜ若者の支持を得るのか、ここに我々の学ばねばならぬ発想の転換がある、といっても過言ではない。
 逆に、それ以外の教科書はどうかというと、センセーショナルな魅力すなわち芸術面は抑えられていて、機能面重視の無味乾燥な内容となっていることは否めない。受験勉強における日本史や世界史が単なる暗記の授業となっている事実を考えるなら、それこそ教科書づくりの欠陥さえ指摘されかねない。
 たとえば戦争の記述一つとってみても、私たちは戦争を知らない世代である。戦争を知らずに戦争反対を言うよりも、まず戦争を知り、戦争を乗り越えて(決して実戦の意味ではなく)、戦争に反対せねばならぬだろう。誤解を恐れずに言うと、我々がいきなり戦争に反対する、というのは多少恣意的なのである。
 上のように考えると、一般教科書と同様に、『中央決定』等も機能面のみ多分に重視されていると言わざるを得ない。科学的社会主義の理論を反映し、機能面において何ら欠陥のない中央決定等がいかに読まれず、現代の若者が「戦争論」ばかり読み耽っている事実を考えるなら(性急な読者は、日本共産党の冊子は、一般書店には置けないから読まれないのだ、と思うかも知れないが、仮にそれが平等に扱われたとしても、読まれるであろうか?)、旧来のイメージに頼り発想の段階で遅れていることを受け止めるべきではないだろうか。