3月5日、千代田区で行なわれた”山宣”祭、80余名の参加でした。赤旗記事の案内で知ったのですが、懸念したとおりのものでした。
当時の暗黒政府の下、共産党系の先達たちが命を懸けて、治安維持法に抗い、山本宣冶も代議士として、真っ向からこの悪法に挑み、軍国政策に反対しました。
治安維持法犠牲者は、拷問により虐殺、または獄死者は2000人以上にものぼるといわれています。
時は、この1930年代にさかのぼり、テロ特措法、メディア規制法、共謀罪・・・そして、憲法、教育基本法破壊にむけて、大逆流の怒涛がきこえんばかりです。
各地で、小林多喜二を偲ぶ公演あり、映画あり、そのた様々な問題提議を投げかけた催しがおこなわれているのも、時代を意識してのこともあるかもしれません。
ですが、昨年も一昨年も、かんじたことですが、なぜか、なぜか、ひとつの記憶、ひとつの思い出としてのみ語られるという感じのものがおおいような気がします。
今回も、山本宣冶の虐殺を目撃した当時7歳だった平澤さんのお話30分強のほかは、音楽演奏とコーラスが大半。曾孫にあたられる山本と奈々さん、亜希さんにおあいできたのはよかったのですが、平時ならいざ知らず、今や、世界戦争の火蓋が切られようとしている時です。どうして、今とつなげた取り組み、闘いの方向へと展開できないのか、とおもうのです。
つなげられなければ、山宣の時代、社会状況を構造的にはなすだけでも、ヒントは得られるのです。こんな、最低限のことも、かたられず、治安維持法の署名といってもぴんときませんよ。
山宣が10人いたら、世の中は、変わっていたことでしょう・・と主催者の発言がありましたが、そうではないでしょう。10人どころか、何千人もの、時の政府に立ち上がった人々が弾圧、虐殺されていったのではないですか。多喜二も、その代表です。
問題なのは、身内にそうした人々を輩出していながら、その魂をしっかり、引き継いでこなかった私たちではないのでしょうか。単なる記憶、よれよれの淡い思い出としてしか語りついでこなかったからではないですか。
共産系の催しに、いつもいつも、淡い期待をもちながら、いくのですが、今まで、満足したためしがありません。
自由にものがいえる憲法ーーと今を語られましたがーーその憲法が壊されようとしているのですよ。壊そうとする権力の正体を問うことこそが、”山宣”なのではなかったのでしょうか。