{ゆきづまるブッシュ覇権主義ーー続くアフガン戦}
イスラマバードで小玉純一記者の報告である。「一般人が聖戦」として、カブールの傀儡政権を除くアフガン各地域で、タリバン兵と国軍が戦闘状態であるーーという。ほんとうに、驚くほど、私が懸念、予測して事態が次つぎと追認される。それにしても、2年前のアフガニスタン攻撃のときとは、180度角度を変えた視点ともいえる内容である。ようやく、真実がわかってきたということであろうか。
米国が捏造に継ぐ捏造で、タリバン政権を崩壊させてきたことは、腐るほどいってきた。また、タリバン兵がもともと地元の民兵であり、他国・他部族の侵入時に農作業をやめ、鍬を銃に自衛することも記してきた。
マスコミが報道しなくなった頃より、アフガン各地域では、戦闘が激しく、北部同盟と米軍が空から、地上からそれこそ、やりたい放題、横暴の限りをつくしている。これらに抗するタリバンのもとに、続々結集する民兵、そして、イスラムの応援があることも予測できる。戦闘に参加するしないに関わらず、米国のイラクでの蛮行、パレスチナでのイスラエルシャロンの狂気の様を見せつけられれば、人間としての感情を優先するのは、当然であろう。
そして、小玉記者は、おそまきながら今のアフガン戦争の実態を、地元の宗教者、アジア人記者、イスラマバードで防止販売店を開いているアナートラさんらの証言を引用しながらつたえる。
「パキスタン国境沿いのアフガンの町スピンボルダックの近くの村でのタリバン兵を捜索する米兵の横暴を、欧州メディアが8月に報じました。」としながら、一方、「村人はまたタリバン兵の残虐さも証言。三ヶ月前、タリバン兵が村に来て、住民3人を殺したとといいます」とさりげなく、バランスをとる。
冒頭で、「米軍は5日、アフガニスタン国軍と8月下旬から行った南東部ザブル州でのタリバン一掃作戦で、タリバン兵約100人が死亡したと発表」と書いている。
先の住民3人の殺害理由は、「米軍に仲間の居所を密告した」とのことだが、これが、タリバンの残虐性になるというのであろうか。約100人が一掃作戦で死亡と、まるで、事故のように、タリバン兵の命を扱います。そうした米軍の跋扈する村人の密告を殲滅するのは、タりバン兵にとって、自らの命をまもるための先制攻撃といえるのに、これを殺害と批判的にかきます。
前回の原稿での、ウサーマの言葉「我々は男、女、子ども、老人を区別する。男は戦士であり、彼が武器を持っていようと、税金を払ったり情報を収集したりして我々を殺すのに強力しようと、同じことである。」これも理解できない?
3人と約100人の表現、殺害と死亡の違い、いったい、対面でタリバンが殺せば残虐な殺害で、空から空爆ならば、100人だろうが、単なる死亡なのであろうか。それも、米軍がやらかせば、一味、ちがうのであろうか。いや、国軍がやればそこには、きっちりと、線引きがなされるのである。
最初、私は、赤旗の変化に感激さえしたものだが、よ~く読むと、その視点に差別がつきまとっているのは、否めない。今回は、反米の感情と一般民の聖戦参加という口実が、こうした全体の記事の視点になっているだけなのかもしれません。
米国を批判、糾弾するためにアフガンの「聖戦」としながら、その中心人物タリバンをあくまで差別する手法は、都知事のテロを糾弾するために、イスラムのテロも同列に論じるのとおなじである。
右脳に刷り込まれた本能的差別感は、いくら学習してもなくなることはないのであろうか。
この際、日本人は、乗りかかった船で、戦闘体験をしたほうがいいのであろうか。この秋、誇らしい自衛隊員となって、日英米参加国同盟でもむすんで、個々、思う存分、戦争体験・殺し殺され体験をした方がいいのかも。
繰り返す。戦争はみずからの命と相手の命の消滅せんである。同胞の肉さえ食らう飢餓地獄もありえるのが戦争なのである。米兵の残虐さはもちろんのこと、大量破壊兵器で殺される立場の人間が、どうして、紳士でいられるのか。やられたら、反撃であろう。対話の通じぬ相手にはそれなりのほうほうをかんがえねばならない。
本当に、二重基準でものを考えるのは、やめにしてもらいたい。