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党員用討論欄

2003衆議院選の総括

2003/12/21 山荏田僚、60代以上、会社役員

2003年衆議院選挙(11/9)

1 選挙で話題になった議論  小泉改革をめぐる手法として、道路問題(高速道路料金値下げか無料か、公団の借金をどうするか)、郵政民営化、年金の財源問題、消費税増税、イラクへの自衛隊派遣の是非、マニフェスト(政権公約)選挙、
 自民、公明の還挙協力徹底、民主党による自由党の吸収、山拓を公明は支援するのか、田中真紀子の無所属立候補、

 共産党への関心点
 政策は立派だが絵に描いた餅、外国から武力攻撃があったら誰が戦うのか、筆坂セクハラ処分問題、飲酒禁止令撤回、

2 選挙結果(略)

3 選挙結果の認識はどうなのか。
志位委員長の記者会見

「議席を後退させる結果となったのはたいへん残念です。ご支持いただいた国民のみなさん、日夜をわかたずご奮闘いただいた党員、後援会員、支持者のみなさんに、心からの感謝をもうしあげます。(略)」(11/11赤旗)

記者から「議席を減らした執行部の責任は?」と問われ志位委員長は「選挙の方針、政策、たたかいの基本点でベストをつくした(ので責任を問われない)」(11/10朝日)

中井京都府委員長(11/10報告集会)
 「残念ながら、選挙の結果は議席、得票を後退させる結果となりました。(略)まことに残念であり、京都府委員長として心からおわびを申し上げます」  そして比較として2001年の参議院選挙京都比例区データーを並べて「わずかな後退(中井)」と評価している。議席、得票数、得票率をそろって大敗したのに、それを「わずかな後退」という評価で済ますなら、「心からのおわび」という表現が浮いたものになる、と私は考える。しかし志位委員長には「おわび」らしい表現すらなく、議席がへったのをただ残念だと言っているだけのように聞こえる。
 今回の選挙がどれぐらい後退したのかの評価基準は前回の衆議院選挙でなければならないだろう。すなわち前回の選挙でかかげた政策や公約の実現にどう議会で努力してきたか、政党活動やありかたが健全に運営されてきたのか、そして今後公約実現のみとおしや具体策をどう押し進めるのか、が有権者によってチェックされ、次期議会活動への期待として、一票が行使されるのである。それを立候補者数の違い、選挙基盤や顔ぶれの違うことによる有権者の選択肢が異なり、国政議会として役割の違う参議選挙(2001)の結果を比較データーにもってくるのは、総括の根拠としては正確性に欠ける。
 特に2001参議選挙は、さっそうと現れた小泉が自民党諸悪の改革と不況の救世主として国民の人気を集めて、自民党議席を前回(1998)より46から62へ(比例)と飛躍させたのに比べ、共産党は前回の15議席が4議席に(得票は48%減)激減するというどん底選挙である。そのどん底の結果をしめして今回の結果は「わずかな後退(京都)」ですよということは、どん底からさらに落ち込んだことを軽く告げていることになる。
 このような不正確な評価が何故堂々と行われるのか。それは2001年の東京都議選における不破議長の総括が手本になっている。その時不破議長は選挙結果の評価に見事なトリックをほどこした。選挙の結果は共産党議席が26人から15人になり(40%減)、民主党は13人から22人に(169%増)躍進させた選挙であった。また当然共産党は得票数、得票率も大幅減の結果であったが、不破議長は前年の衆議院選挙の数字をもちだして、「共産党は得票率で14.3%から15.6%へ、民主党は165万票から64万票に減らし、共産党は10万票の差をつけて逆転した」と、まるっきり大敗北の選挙結果を勝ち戦だと描いて見せたのである。それは倒産寸前の赤字決算を、粉飾することによって、幹部の責任追求を回避するどこかの金融機関の悪例に似ている。
 この幹部責任回避の便利な総括手法はすぐに京都にも伝染し、直後の城陽市長選挙の現職革新市長選挙でも、前回の同市長選挙と比較するのではなく、数字あわせに都合よい選挙戦のデーターを並べて、現職を落選させたにもかかわらず、票は伸びたから負けたわけではないと、敗因隠しの総括でおわらした。
 選挙結果の正しい評価は 議席、得票数、得票率、の三点が前回の同一選挙に比べどうなったかをみるのが基本である。
 議席の増減は、議会活動 議員活動や議員個人の人気、選挙戦術を反映し、得票数、得票率は政策や公約、政党の日常活動やあり方がどう評価されているかがあらわれる。選挙結果が期待値よりも下回ったとしても、前回同一選挙と比較して現状の認識とするところから総括のスタートをきらなければ、共産党は自らの政治審判を正しくかえりみることなくますます迷走することになる。

4 何故敗北したのか、その理由。
A 時間が足らなかったについて。
 志位委員長は「増税反対や憲法改悪反対で力を尽くしたが、限られた時間では足りなかった」(11/10朝日朝刊)とのべ、京都府委員長も「ことの真相を有権者に届けるという点では、時間上の不足があり、努力も不十分でした」(11/10報告集会)と共に宣伝時間不足を第一の原因としている。
 これは今までにない敗北理由といえる。今までは敗北原因として「反共攻撃」が第一にあげられてきた。この「反共攻撃」は他党のねつ造デマであり、マスコミ報道の不公正さを意味したものであり、いわば共産党は「敵」からおとしいれられ、支持票をもぎとられた被害者だと言っていたように解釈できたのだが、今回はわが陣営に問題があったことを敗北の原因と示唆しているのである。
 時間は各政党に平等であり、勝った民主党や公明党にはたっぷり保証され、共産党だけが時間不足というのはありえないことである。常識的に考えれば、「有権者にとどける時間が足らなかった」という弁明は、「限られた時間を有効に使うことができなかった能力不足」と指導部のいたらなさを責任者として反省からでてきた言葉のはずである。
 しかし今までの流れからみて、指導部の責任におよぶつっこんだ反省の意味ではない。
 1989年ベルリンの壁崩壊、天安門事件、ルーマニア書記長チャウシェスク夫妻銃殺、1991年ソ連邦崩壊、と続くなかで、国民には日本共産党がイメージしていると思われていた国の将来像が破綻してしまった。
 それを利用した反共勢力が、外国共産党=怖い=滅亡=日本共産党というてっとりばやい反共攻撃を選挙のたびに展開した。
 国内では、社会民主主義政党を自称していた民社党や社会党が政権に加わるや、それまで自民党でさえ躊躇していた、医療制度の国民負担増、年金制度改悪に踏みきった。社会党はそれまで主張していた中立が安保条約容認へ、非武装が自衛隊容認へ、小選挙区制反対が賛成へ、と態度を180度逆転させた。そうした社会党をみて、革新性を支持してきた国民に社会民主主義政党不信が蔓延するようになる。そういう内外情勢のなかで、共産党の議席、支持率はでこぼこはありながら傾向として右下がりになり、負け選挙が多くなった。(一時社会党が「革新」でなくなったのだから、それらの「革新票」が共産党に回るはず、という議論が言われたが、それらの「革新票」は流動的な内外情勢をまえにして、様子見の政党不信票として無党派票になっていったものと思われる)
 共産党は選挙の総括として勝った時は「わが党の政策は正しかった」負けたときは「反共攻撃の嵐」というパターンが90年代の定番であった。その反共攻撃手段は出処不明の大量のデマビラが夜中に配布されるという法律違反の攻撃であった。しかし総括がその攻撃の卑劣さに目をうばわれている間に、選挙方針の是非や戦術の検討はおろそかになっていった。負けるはずのない選挙が負けたのは、主には「反共攻撃」のせいであり、わが党の選挙方針ややり方に問題があるはずがないと、問題があるかどうかさえ門前払いの総括が続いた。
 2001年の東京都議選(6/24)、参議院選(7/29)で敗北、そして今回の衆議選挙での大敗北、もはや敗北の原因が「反共攻撃」という敵の戦術のせいという理由はあてはまらなくなった。何故なら、反共攻撃はどの選挙でもおこなわれるものであり、その攻撃があるのがわかっていながら、その対策を無視しての選挙方針はありえないからである。
 今回「時間が足らなかった」という理由が考え出されたのは三つの理由だ。
 イ マニフェスト議論が選挙間際になって、政権公約の中身ではなく、政権担当能力の問題として論点が移ったこと。
 ロ 実際に時間はなかった。共産党約25万人の選挙実動部隊に政策を浸透させるには各級機関の議論をはかるために6週間はかかる。
 ハ 時間という不可抗力に敗因を求めれば、選挙対策本部の責任は薄められる。

B 政策は正しいのに何故票がへるのか。
 たしかに、消費税増税反対、憲法改悪反対、自衛隊のイラク派兵反対、社会保障の充実、どれをとっても国民の将来不安への回答として共産党の政策は正しい。
 しかし今回国民の多くは、その政策をどう実現するのかという、政策実現プランと可能性を政党に求めた。元国会議員の奥さんがかつての教え子に「とにかく政治を変えなくては、どうにもならないでしょう」と共産党への支持を訴えたところ、その教え子は「はい、わかりました。政治をかえるために今回民主党へいれます」と言ったという。
 政策能力はあっても実現能力はあるのか、たとえば、社会保障の財源として軍事費の大幅減額をかかげている。たしかにもっともであるが、外国から攻撃されたとき、誰が国民を守るのかという質問には、共産党は沈黙せざるを得ない。アルカイダーの日本攻撃は、単発ゲリラなので警察が対処できるかもしれないが、ミサイルがとんできたら、どうやって反撃するのか、想定していませんでしたでは済まされない。近未来に起こるかもしれない国家間の危機に対して防衛構想をもたない政党が、「軍事費の大幅削減」をうたっても説得力は乏しい。
 綱領では将来像として民主主義革命をうたっているが、これは抽象論であって具体的な国家像とは言い難い。民主党が今回躍進したのは、「アジアにおける小型アメリカ国家」をめざしますよと国の具体的あり方として一歩ふみこんだからである。共産党は社会保障制度については、ヨーロッパにおける企業負担割合をと政策しているが、総合的なプランではなく、部分的にええとこ取りしているようだ。例えば医療費では薬価基準の大幅な見直しが問題のひとつだが、見直すという号令だけではなく、見直しが成功するための道筋を示す必要がある。例えば前立腺ガンの進行を止める注射治療は一回分が10万円で保険適用であるが、これをどのようにして3万円以下にみなおすことができるのか。メーカーの製造コストの壁をどうのりこえるのか、そのための法律の改正に問題はないのか、等々の障害をクリアーするところまでの裏付けが必要とされている。
 選挙政策発表の場合、諸外国のおいしいところだけを、日本の政治の貧困と比較するのでは、それは「絵にかいた餅」としか国民にはうつらない。受けねらいの総花式政策や、ばらまき型スローガンを並べても、それは信用できかねると考える、国民の政治判断力はあがってきている。
 政策実現の裏付けとして、将来の国のあり方はこのようにしますという具体的なプラン(国のイメージ)を提示する必要があったのが今回の選挙である。

C 共産党は透明な組織かが問われた。
 共産党が政策を実現するためにはまず選挙で議席を伸ばさなければならない。ひとつめの節は衆議院で40名ぐらいの議席だ。これぐらいの人数を確保できれば有権者の認知もすすみ、政党連合が問題になってくる。単独過半数は今の段階では非現実的だ。
 このとき他の政党から連合条件として、政策のすりあわせは当然であるが、組織の民主主義性が要求される。これは必然だ。なぜなら政党連合というものが民主主義的な政権樹立を目的とする以上、参加する政党が非民主主義的集団であれば参加を拒否される。
 その時相手政党が問題にするのは、共産党の民主集中制の規約である。これらの規約のほとんどは民主主義性をもっているが、党規約第五条の5に「反対意見の発表禁止」がある。これは派閥のようなグループが発生しないための組織管理の規約である。
 しかし組織運動においては、執行部方針にたいして少数意見が発生しそれが議論され、多数意見となっていくことはありうる。執行部が間違った場合の組織の自己再生機能である。執行部に対する反対意見が表明されない組織は一枚岩の体をあらわす。同時にそれは上意下達の非民主主義組織ともいえる。なぜなら少数意見の発表が禁止されているということは、少数意見が議論されたり、意見がひろがらないことであり、賛同者は増えようがなく、執行部の正当性の検証はないにひとしいということである。(支部会議での意見発表はできるが、上級機関へ伝えておくという程度であり、また、中央への文書発言は認められているが、こういう意見がありましたという苦情届けのようなものであり、公開の公正な議論の場ではない)
 今回筆坂問題がその中央独断性を危惧させた。国民の支持で選ばれた議員を、国民の前で陳謝説明させることなく議員を辞職させたのは、共産党の都合次第で民主主義ルールを無視するのかという疑問である。共産党国会議員であっても、国民が選んだ以上まず本人による国民への陳謝があり説明責任をまっとうさせるのが民主主義の姿だ。国民にはそれを要求する権利がある。その知る権利を奪うのは民主主義の否定だ、と疑問に思った党員は多かったはずだが、その疑問を解決する場はなく、当然議論にはなることなく中央の方針は正しかったということでおわる。
 執行部の方針が抵抗なくとおってしまうような組織は、権力を手にしたとき独裁体制になることは、スターリン、毛沢東が実践しており、現在の北朝鮮に受け継がれている。 少数意見の発表禁止という執行部に都合のよい規律をもつ共産党は、執行部方針に対するあらゆる意見がいつでもどこでも公開の場で議論されるような透明度の高い組織をめざさなければ、有権者や将来のパートナーから信頼を得ることはできないし、その点が課題であることを今回よみとることができる。
5 今後の課題
 A 結果責任を認識する。
 3で報告したように志位委員長は「ベストをつくしたから」執行部の責任問題にはならないと述べ、その後の成り行きも部署における人事的見直しがなかったことから、選挙敗北の執行部責任は問われないことがはっきりした。4のCで述べたように、執行部が間違っていたとしてもそれを執行部が認識しないかぎりその間違いはなかったことになる。執行部は仮に下部機関からの批判意見があったとしても、それは少数意見であるからそのほかの多数に従うまでと判断すればそれは取り上げなくて良いし、まったくそのような意見は聞かなかったと無視しても、未公開の場だから公になることはない。
 ベストをつくしたかどうか誰がどんな根拠で判断するのか。現在その判断権があるのは中央執行部である。
 選挙が終わって結果が判明し、一定の評価がマスコミや党員からだされて話題となるが、下部の選対である地区委員会は「上が総括をするでしょう」とその判断をさける。 県委員会も正式な総括を待ってからと先送りをする。選挙戦をやったのは、その選挙区を担当した党組織であり、選挙結果の要因についても思い当たる節があるにもかかわらず、中央執行部が総括文書を発表しないかぎり、総括は行わない。総括文書が発表されてそのミニ版ともいえる写しが各級の総括としてだされる。これが共産党の選挙後のスタイルである。本当は各選挙区における各級委員会の総括が先に出そろって、中央の総合的総括がなされるのが基本である。その意味では現行のスタイルは逆立ちの活動といえる。
 何故逆立ちなのか、それは 1 地区委員会に総括をする政治的能力が乏しいこと、2 各級委員会がなにごとにも上意下達の指令待ちの機関になっていること、3 票が減った原因を追求すれば責任体制が明らかになること、等が理由である。
 選挙運動が開始される。組織であるから執行部での政策作りや活動面での人事配置や体制、各部署における権限や責任は明確なはずである。運動が展開し、それぞれの結果をえて運動は終わる。当然初期の到達点に達しなかった部署ではそれがどこに原因があって、どのような判断ミスでそういうことがおこったのか検証されるはずである。それが責任問題である。その責任問題があいまいにされ公表されない組織なんて、発展はありえない。
 今回十中総で志位委員長が敗北原因のひとつとして宣伝の遅れを指摘しその責任が、担当部門、幹部会、委員長にあったことを初めて明らかにした。これは党執行部内部に選挙敗北の原因を認めたという点で今までにない前進であるが、結論の「宣伝物の発行が遅れたことを教訓とする」では、総括として不十分で教訓にならない。発行の遅れの原因が、担当部門や幹部会の忘れや能力による人的ミスによるものなのか、あるいは上意下達になれきって指示がないと動けないシステムに問題があるミスなのか等、急所をえぐりだしてこそ、今後の教訓となる。また結果責任を負うということは、責任の所在を明確にし改善の道をつけるということであり、そのためにその担当者の責任が問われるなら、当然その処分をしなければならない。そのように明確で公正な問題の掘り下げがあるのが総括であり、そのような総括がなされたとき、議論がおき、問題箇所があぶりだされて、組織が生き返るのである。組織が選挙戦ごとに活性化し、飛躍の足場につくためにだれもが結果責任を認識できる総括が実行されることが重要である。

 B 未来へ橋渡しできる組織作りを。(略)

6 付記 不破議長の発言について。
 十中総で、比例代表制と小選挙区制という制度の違いにおける選挙の取り組み方をそれぞれに対応していくと趣旨の発言があった。(12/7赤旗)内容は公明党が票を伸ばしていることへの分析と、党の今までの問題点で、このままでは議席がのびないことを心配している。

「彼らの選挙活動の謀略性や不法性は、徹底的に批判し告発する必要がありますが、この選挙制度のもとで、比例代表選挙での得票増に中選挙区時代以上の執念で取り組んでいること自体は、私たちも「他山の石」とする必要があるものです」

 「他山の石」とは、人が失敗したことをみて自分はああいう失敗はしないでおこうという意味につかわれるのが通常であるが、このほかに「自分より劣っている人の言行も自分の知恵をみがく助けにしよう」という使われ方もある。不破発言は後者のようであるが、「他山の石」にたとえられるような、見習うべき点が公明党にあるとは思えない。
 公明党は創価学会を支持基盤とする議員政党であり、日常活動は議員活動だけである。一方共産党は全国の行政機関、職場、地域、団体連合会に組織をもち多くの議員とともにさまざまな要求実現の活動を日常的にやっている国民政党である。地域、職場における選挙もふくめた活動は他党がとうていまねのできない、政治能力、行動力、組織力の水準にある。
 創価学会は号令がくだると、政策勉強や討論をすることなしに、ただ「お題目」の合唱で、人の迷惑をかえりみず支持を依頼してまわる。演説会では参加しておおきな拍手をすることが目的の傭人であり、その狂信的行動は批判こそされ、見習うような要素はなにもない。
 不破議長は「執念」をみならえと述べているようだが、共産党員にとって無盲目的狂信は排除すべき活動スタイルであって、党員のすぐれた政治能力や活動をまったく軽視した考えである。不破議長は選挙現場の前線で活動する党員の誇りや悩み喜びが見えていないのではないか.2003.12.20.