自由で民主的な社会ですから、党員同士あるいは党員と非党員同士の自由な意見交流があることは当然だと思います。
さて、私自身20代のはじめに入党し、現在まで17年間の党歴があります。私たちの場合、組織の上に個人を置いてはならないどころか、個人の生活や友人関係を反故にするような組織活動にはついていけないという思いがあります。共産党が現行の諸政党や運動の中で最も信頼に足る政策を掲げてきたことや(若干現状に対し批判的なコメントもありましたが)、国鉄分割民営化や社会の中で相対的に恵まれない人々に対する真剣な取り組みをしてきたことが、現在に至るも党員として自分をアイデンティファイしている根拠になっています。このような私から見ますと,私より上の世代の党員,非党員の方々の党に対する思い入れのすさまじさには正直驚かされる思いです。
共産党というのは特別な存在だったのだなぁと言うことです。
ある種の政策転換にあたって議論があったとかなかったとか。確かに70年代には独裁をめぐる議論や初期社会主義にかかわる議論があったようですね。前衛集団ということを承認すれば、そのような議論がなければならないのかもしれませんが、私にはどちらでもいいというのが正直なところです。
方針、現状規定、理論的問題に疑問があれば、しかるべき方法で問題を提起すればよいと思います。それについては問題の性格に応じて、党内、党外に提起したらよいと思うのです。たとえば、冷戦終結論は当時、足立正恒氏に直接会って議論しましたが、納得いきませんでした。私自身は、党はこう言っているが私はこう思うと言ってきました。丸山真男批判については、そのでたらめさを昔の宮本発言などを引用しながら議論したこともあります。社会科学的な問題ならば、当然アカデミズムで議論されるべきでしょうね。政策、方針の類なら支部会議や上部機関への質問という手段があります(あまり短期的な成果はないでしょうが)。それでもどうしても耐えられないときは離党ということもできますし、別の政治勢力へ加入することもよいでしょう。
そういう意識の党員ですが、私たちにとって共産党員であるということは、多元的な民主主義社会における一選択であるということを知ってもらえれば幸いです。このような者からすれば、川上徹氏のような『査問』は十分想像できますが、今となってみると、組織に過剰依存した人格だったのだろうという(共産党以外の社会関係を築けなかった)意味で不幸な前衛集団だったのだろうという感じです(川上氏もそれを査問した人物も川上氏を支えた人物も)。<ついでに言うと私自身、かつての党員や50年問題関係の資料や著作(党内外)を読みあさった時期もあります。>
いまだにそのような意識を有した党員や専従を知っていますが、徐々にあるいはかなり急速に、末端では変化しつつあるのではないでしょうか。
長文失礼しました。