私は第8回大会後に入党していますから、決して短いとはいえない党歴を持っていますが、常任歴もないごく普通の党員です。ただし、かつては何回も細胞長や支部長を経験したことがあり、学園や職場ではかなり中心的な存在として積極的な活動をしたこともあります。
現在の世界情勢の特徴の1つは、生産活動から遊離した資本が巨大化して、投機資本化していることだと思います。生産資本が衰退し、第2次産業が著しく衰退したアメリカでは巨額の貿易赤字を出しながら、なお、武力による威嚇を背景として先進資本主義国を含め各国から資本を集中させるシステムをつくり、世界中から収奪を続けて今日の繁栄をつくり出しています。歴史的に言えば、むき出しの軍事支配をテコとした植民地時代、第2次世界大戦後の新植民地時代を経て、今日の(アメリカによる)収奪の仕組みは大きく変貌していると言わなければなりません。
かつての社会主義国が「社会主義とは縁もゆかりもなかった国」であったかどうかはさておき、少なくともソ連の存在が、資本主義をして社会福祉を認めるなど労働者に譲歩する政治をとらせたことは、おそらく疑問の余地がないと思います。ソ連の崩壊後、10年間の間の資本主義の急激な変貌ぶりを見ると、そのことが非常に分かりやすいのではないでしょうか。
今日、アメリカでは株高を基調とする好景気が続いていますが、ソロスらに代表されるヘッジファンドなどは年率20%を越える利率で資金を集めています。資本はもともと、より高い利潤率を求めて移動していきますから、通常の工業資本等ではこれほどの高利潤を保障することはできないので、資金はますます投機資本化していくことになります。この結果、自国の製造業に向けられる資本はますます減退していくことになります。
海外へ向けられた資本は、発展途上国などで工業化を促進し、生産が上昇して、とりあえずはその国の人々の生活の向上に役立ちます。アメリカはこれらの国々から大量の輸入をして自国民の生活を支えています。アメリカはこれらの国々から投機資本をテコとして、為替変動を通じて瞬時に巨額の資金を回収してしまいます。これが昨年のタイ、インドネシア、韓国等の経済危機だったと思います。ブラジルなどのラテンアメリカでも同様のことが行われているのではないでしょうか。
ふくれあがった貿易赤字にもかかわらず、アメリカ経済はこのようにして世界中から収奪を繰り返すことによって支えられているのではないかという感じがします。卑俗な言い方をすれば、ドル紙幣を印刷して世界中からものを買っているという状況ではないでしょうか。
世界中の資本のむき出しの競争――低価格化――の中で、あらゆる国の経済がその圏外に存在することは不可能であり、日本でも低価格化を中心とする競争が激化しています。その結果、購買力の低下を生み出し、縮小再生産が進行している、という構図ができあがります。従って、今日の不況は単なる不景気というようなものではなく、資本主義の存亡にかかわる危機的状況であるのかも知れません。アメリカの株高は、上昇していない限り劇的な暴落が避けられないと私は考えています。ただ、1929年の世界大恐慌やブラックマンデー以後、教訓を学んでいるはずですから、ありとあらゆる手段を講じて「破滅」を避けようとするでしょうが、経済法則は、人知をこえて貫徹していくものですから、アメリカの株高は必ず破産するときが来るでしょう。そのときは、その規模と混乱の深さにおいて1929年の世界大恐慌の比ではない可能性があります。
アメリカ経済の破綻が世界大恐慌に発展するということはいく人かの経済学者やエコノミストの指摘するところでもあります。
そして、あるいは、これが資本主義の終焉となる可能性もないわけではないと思います。
1929年の世界大恐慌は、私たちは学校の歴史で「ニューディール政策」や「ブロック経済」によって解決したというように学びましたが、どうも今日では、第2次大戦による過剰生産の破壊と戦後の特需まで解決しなかったという見方が有力のようです。そうすると、アメリカを中心とするブルジョアジーの中には戦争への衝動が常に働くということも想定しておかなければならないと思うのです。ユーゴへの空爆も、その政治的動機が今ひとつよく分かりませんが、そういう可能性も視野に入れて、情勢を見ておかないといけないと思います。アメリカはユーゴ爆撃でその軍事産業に相当の特需をもたらしています。
今日の資本主義を理解し把握するためには、資本論や帝国主義論ではもう十分ではないと思います。また、マルクスやレーニンが実践的課題の要求に応えて理論活動を行ったときには、常に既存の学問的な材料に依拠して、その時代の特徴を自ら克明に分析しました。現代資本主義を革命的な立場で正しく把握することが緊急の課題だと思うのです。
現代日本でも、安定した生活ができて、日々の暮らしについても、老後の暮らしについても何の心配もない人たちにとっては、彼らの見かけの政治的な立場がどうであれ、彼らにとっては世の中を変えること、つまり革命は必要ではないわけですから、日々の生活に呻吟している人たちが自ら世の中を変える仕事をしなければならないでしょう。そして、そのためにはたくさんのことをしなければならないでしょうが、当面はいくつかの理論的な作業を不可欠としています。
基礎理論から言えば、今日一般的に理解されている史的唯物論は極めて不十分であり、間違いすらあるようです。この理論の創始者たちの時代には解明されていなかったことが明らかになり、当然、歴史学も飛躍的に進歩しているわけですから、現在の歴史学が到達したものから大いに学んで役に立つ史的唯物論を形成していかなければならないでしょう。
また、資本主義が永遠に続くとは誰も思っていないでしょうが、その次にやってくる社会構成体がどんなものであるかについては、あるいは私たちがかつて学んだような社会主義ではないかも知れないし、当然、ソ連型の社会主義のままでよいはずはありませんし、これらについても考えていく必要があるかも知れません。
革命の理論についても、いくつかの検討をする必要があるように思います。ロシア革命、中国革命などの成功した革命と、インドネシア、チリなどの失敗した革命(と表現してよいかどうか分かりませんが)とはどこが違うのか、など。
また、プロレタリアートの独裁とかディクタツーラとかについても、果たして公式的な理解で十分でしょうか。独裁という言葉は私自身も適切だとはいえないかも知れないと思っていますが、ともかく、社会が劇的に変化することを革命とすれば、革命はそれまでの社会の法律や規範の範囲内で行われるものではないのであって、そこには既存の法や規範を越えた超法規的な変革が伴うものです。そして、新しい権力は軍事的な力に支えられるというのが、おそらく今までの革命であったというのが私の理解です。現代の日本で武器を持って革命をするなどということは「ざれごと」としか考えられません。ただし、革命というのは圧倒的な大衆運動を伴わなければあり得ないと思います。そのことが基本だと思います。
マルクスは19世紀末のパリコミューンのときにも労働者階級の権力の樹立のために助言をしました。今から100年以上も前のことです。常に、革命の機会を探し求めていた様子が伺えます。いつか、40代そこそこの政治家が社会主義は遠い未来の話で、自分が生きている内には来ないだろうと言っているのを雑誌で読みました。来るか来ないかは、私にも分かりませんが、少なくとも、常にそういう機会を探す姿勢は貫くべきだと思っています。
毎日、生活のために四苦八苦しています。ゆっくりと考える暇もなく、何の文献もひもとくこともなく、思いついたまま雑文を書いてしまいました。もとより、批判に耐え得るようなものではありませんが、私の問題意識の一端を単にスケッチしたに過ぎません。
PS.さざ波通信の投稿で、「年輩の人はほとんど無関心だと」いうような意味合いの文章を読んだ気がします。私は50代前半ですが、私の感じからいえば、私たちの年齢から前後十年近くの人たちの中には私のような疑問を持っている人たちが多いと思います。その多くは、安保闘争や大学闘争の中で育った人たちです。不幸なことにこれらの人たちの中にはパソコンができる人がほとんどいません。私の年齢でパソコンをしている人は本当に少数です。それが、年輩の人がこの種の討論にほとんど参加しない最大の理由でしょう。私もこのHPをプリントして友人に見せました。これらの人々が参加してくると、討論はもっと充実したものになると思います。