革命の問題や党の問題を広く討論することは極めて重要なことです。このサイトはその意味で非常に大きな意味を持っています。「日本共産党の政策、綱領、規約、歴史、理論、政治行動、イデオロギーについて、および現代日本政治における日本共産党の役割、位置、課題について、批判的見地から検討し議論するサイトです。そして、このような検討と議論を通じて、日本共産党のよりいっそうの発展強化と、日本および世界の民主主義的・社会主義的変革に、ささやかながら寄与することを企図しています」というこのサイトの趣旨は立派なものだと思います。現代日本の政治において、社会党が崩壊した状況では、共産党は貴重な「左翼」ですから、その政治的方針や立場にとうてい肯定できないものがあるにしても、日本共産党の存在が貴重なものであることは否定されるべきではないでしょう。また、日本の最も良心的な人々が、それでもなおこれほど多数結集している組織は他にはないのですから。
「原則的な批判」「建設的な批判」というのは、実は非常に難しいのです。批判対象のすべてが「憎しみ」の対象となりがちであり、全否定につながってしまいます。
長かった宮本議長の時代にはたくさんの除名事件がありました。この中には、除名された人の主張の中に、部分的にではあってもいくらかの道理があったものもあるような気がしました。必ずしも除名、除籍した側の党中央の批判が全面的に正しいと思われないこともありました。
いくらかの時が流れると、ほとんどの場合、排除された人たちの中にあった部分的な正しさもやがて説得力のないものになっていってしまいました。
党から排除された人は、党機関から理不尽な仕打ちを受けたと理解するでしょうし、これらの人の多くは言語に絶する苦悩を体験するわけですから、その仕打ちに反発するあまり問題意識を党の組織問題に矮小化し、党の全否定へと進んでいってしまいます。(党機関の対応が私のいうようなひどいものでないと主張する人がもしいるならば、昨年末に出版された『査問』で著者が述べている非人間的な査問の事実があったかなかったかを党中央に、たった一言でいいから、回答するように言って下さい。)
今まで、党を批判した個人や組織の多くがこのような全否定の立場に転化していった事実がこのことを物語っていると思います。この立場を克服しない限り、過去の批判者たちと同じ運命をたどらざるをえないことは明らかでしょう。この点で、『さざ波』の立場に同意します。
私は大学へ入学した年に入党しています。この党の中には「民主主義はない」という実感を持ったのは、活動を始めて間もない時期でした。しかし、経験も理論的蓄積もない時期でしたから、革命のためには必要なことだと思い、疑問を持ちつつもそのまま活動を続けました。
革命の情勢によっては、厳しい規律が必要な時期がありうることを一般的に否定することはできませんが、少なくとも現代日本の状況からいえば、現在の民主集中制や党規律は明らかに「革命の大義」からくるものではなく、党指導部の党内支配のテコとしての役割を果たしているに過ぎません。 例えば、分派とは「一定の政治的綱領(政綱)を持ち、内部規律を持つ」ものであることは、「分派は最悪の行為である」としたレーニン自身が述べているところであります。しかし、かつてある地域の党会議で、代議員2人が共同で役員推薦をしただけで、機関から「分派の疑いがある」として批判された出来事がありました。また、党の方針について異なる見解を持つ人がいるのは当然のことであり、異なる見解を持った以上これを公表し討論したいと思うこともまた当然のことであります。党員として必要なのは原則として「行動の一致」であって、異なる見解を公表してはならないとする立場に合理性があるとは思えません。
もし、党外に公表してはいけないとするならば、党内に討論する場、討論紙を設ける義務が中央にはあります。党規約の民主的条項は実際は実行不可能なものとなっており、事実上死文化しているといっても言い過ぎではないでしょう。
「異なる意見」は必ずしも党を破壊するものであると決めつけることはできません。異なる意見が革命や人民の立場から見て正しいものである場合もあります。したがって、上記のサイトの趣旨からいえば、党機関がこれを禁止したり、これに参加した党員を処分するなどということは、規約の精神とふじゅうぶんな党内民主主義の実状からいえば、許されることではありません。
さらに、現在の政治情勢を見ると、四中総の幹部会報告では「政府問題」が現実的な響きを持って語られています。非常に近い将来、日本共産党が何らかの形で政権に参加することが真剣に語られようとしています。憲法問題でも、日の丸君が代問題でも、唖然とした党員は少なくないと思います。中央にもいろいろな意見の手紙やインターネットメールが届いたと報じられています。このことから推察しても、今回の幹部会報告についても全党の意思を正しく反映しているかどうかについて極めて大きな疑問があります。
君が代問題について全戸配布のビラまきを組織しましたが、そんなことより、全党討論をすべきだったでしょう。中央の幹部は何でも分かっているのでしょうか。幹部は常に国民大衆から、一般党員から学ぶべき態度を持たなければなりません。戦争で肉親を亡くした人の気持ちはその人でなければ分からないし、職をなくし明日の暮らしの目途さえ立たない人の苦しみは、安定して高給をとる人たちには本当には分からないものです。党幹部は下へ入って学ばなければなりません。一般党員の意見を聞くべきです。よもや、そんなことはすでに日常の党活動でやっているなどとは言わないと思いますが。私の長い党活動経験からいって、中央が党の政治方針について積極的に一般党員の意見を求めたことはまず記憶にありません。
このような党内に安定した合意が存在するとは考えられないような問題について、また、安保条約廃棄は棚上げ、自衛隊は容認というような従来掲げてきた根本的な課題を曖昧にしたまま、政権参加を目指すことが、認められるべきかどうかは、何としても民主的な全党討論にかけて決定されるべきです。
しかし、残念ながら党指導部はこれをやろうとしていません。このような時に、現役党員が討論する場を設けたことは、党を破壊する行為として非難されるべきものではありません。むしろ、党を強化する行動として積極的な意味を持ちます。
6月9日のさざ波通信のお知らせによれば、「先日、党員の方から、『このようなHPをつくって党の機関や個人を批判するのはアンフェアである。おやめになった方がよい』という趣旨のメールをいただきました」ということです。
党が全世界の労働者階級の利益や日本人民の真の利益に反する道に進むかも知れないという状況であったとすれば、あなたは今何をなさいますか。あるいは、現在の党の進もうとしている道が「共産党」という名にふさわしいものだとお考えでしょうか。
党内で討論すべきだとおっしゃるでしょう。党内でどのように討論ができるか教えて下さい。また、意見書を出せばよいと言われるなら、あなたがまず意見書を文書で出してみて下さい。指導部を支持するものであれば、何か返ってくるかも知れませんが、批判する意見であってもきちんと返事があったかどうか教えて下さい。
批判的な意見を出すと、その内容よりもその意見書を出した党員の思想を調べ、周囲に賛同者がいるかどうかを調べるでしょう。このような状態を「民主主義」といえるのでしょうか。
私は日本共産党員ですが、『さざ波通信』が建設的な批判、討論をする場を提供したことについて、計り知れない意義があると思っています。
党中央や個々の指導者を批判すると際限なく続いてしまいます。中央の方針に賛成できない人たちは、それぞれ、それなりの来歴があるわけですから、恨みつらみが噴出してしまうでしょう。私は『さざ波』をこのような場とすべきではないと思います。
『さざ波』のみなさんの勇気と知性に感謝しつつ、私のメッセージを送ります。