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党員用討論欄

『さざ波』批判の論理と心理

1999/7/14 雑草、20代

 この間『さざ波通信』にたいして、いくつかの批判が寄せられています。その批判の「スジ」については、他の人が反論していますので取り上げません。ここで論じてみたいのは、恐らく党外の人がこれら『さざ波』批判を読んで思うであろう「違和感」が、どこから発生するのかを、批判する論者の「心理」にそった形で検討してみたいと思います。

 その1 北島まやさんの場合
 共産党員になるというプロセスにはいくつかのパターンがあると思われます。ひとつは、党に入る前に何らかの運動の経験や学習を経て入るというケース。昔はこうした、すでに問題意識を持った上で入党するという人が多かったと思われますが、こうした人は、自己の経験的なエトスと党とを自己の内面規範のなかで織り交ぜていく過程で、党員であることと社会的視野をもって他者を認めていくという「寛容さ」を両立しうる可能性をもっています。もうひとつのパターンは、そもそもこうした経験を経ないまま、党に入るというパターンです。最近はこのパターンが多いと思いますが(私はこのパターン)、これは党に入った後、大衆運動を経験しながらひとつめのパターンへと近づいていくものと、そのまま内面的規範を観念的に党と重ねたままで行ってしまうものとに分かれていくと思います。おそらく北島さんはこの、最後のパターンなのでしょう。
 この、最後のパターンに起こりうる弊害とはいったい何か。
 第一に、自己と党とが「ズルズルベッタリ」の関係のゆえに、自己の内面規範を軸にして、党をいったん切り離して理解し、再度結合するという過程を経られないゆえに、共産党の論理を客観的・本質的につかまえることが非常に困難だということです。その当然の帰結として、共産党が言っていることに対する批判をも正確につかまえることができないという問題が生じます。「何であんなこと言うんだろう?」という党外の人々の疑問の核心はここにあると思います。
 二番目は党からの「異端」に対する対応です。「人権と民主主義を掲げる党の党員が、何ゆえ、オウムや新左翼に対する人権侵害には冷たいのか、また『さざ波』のような「異端」に不寛容なのか?」というのは、こうした「ズルズルベッタリ」主義が、人権の普遍性よりも、党派の論理を優先させるからです。この場合、まじめな党員は党の公式見解をもって理論武装することで「異端」に対応しますが、これすらも怠る党員は、問題の所在を没論理的に「異端」の側に押しつけて「嘲笑」するわけです(ちなみに私も「丸山真男批判」や新左翼に対し て、「嘲笑」的な態度……以下文字化け) 。
 しかしながら、不勉強かつ没論理的な「嘲笑」は、根拠がないわけですから、不安定なものにすぎません。したがってそれを補うかたちで、「優越的・傲慢な」態度をとって自己を不自然な形で表現しようとするわけです。北島さんのあまり市民的常識を踏まえていない議論のし方は、ここに根拠があると思われます。

 2、機関棒さんの場合
 機関棒さんの「陰謀史観」も、こうした「嘲笑」という態度の一つのあらわれではないでしょうか。根拠をも示さず相手を公安よばわりする態度の内側に、党という(機関棒さんにとっての)絶対的な価値に沿うことを前提とすれば、何を言ってもいい、なにをしてもいいという「ズルズルベッタリ主義」のもっとも退廃した心理が顕れていると思います。
 このような心理が共産党の中で無視しえないくらい存在していることが、結果として党を党外の、本当だったら手を携えられるはずの人々や集団と切り離し、不信を買い、党の日本社会における存在意義を減退させていくんだということをもっと深刻に考えるべきだと思います。わたしとしては、社会の中にさまざまに存在する運動や価値観をいったんは認め、それと党やその一部分である自分の価値観とを不断に照らし合わせながら、今後も共産党員として歩んで行きたいと思っています。

 「雑草」さん、興味ぶかいご投稿ありがとうございます。一部、中ほどに文字化けが発生していました。該当部分だけで結構ですので再度ご送信お願いします。受信次第、差し替えいたします。(編集部K・S)