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党員用討論欄

日本共産党の特殊に強力な党員統合力について>ヤス同志の問題提起を考える

1999/7/24 吉野傍、30代、アルバイター

 ヤス同志の投稿にはいろんな意味で知的な刺激を受けました。ヤス同志の投稿はおおむね2つの重要な問題提起をしていると思います。1つ目は、現在の共産党が持っている党員および熱心な支持者に対する「特殊に強力な統合力」がなぜ生じたのか、という問題です。2つ目は、今後の共産党の発展が団塊世代党員の引退とともに漸次的に改良主義化して、15年後にはその過程が完成し、帝国主義にふさわしい上部構造(新保守が支配権を持ち、改良主義政党が不満を吸収し、マルクス主義政党は圧倒的少数派としてのみ存在する)が成立するだろう、という予測についてです。
 ここではまず1つ目の問題を取り上げたいと思います。この問題は今まで社会科学的には十分議論されていなかったと思います。
 日本の企業社会における特殊に強力な労働者統合力という問題については、渡辺治氏をはじめ、多くの研究者によって議論され、かなりの程度解明されてきました。しかし、日本共産党自身が社会科学の対象になったことはほとんどなく、たいてい、反共産党の立場からその「裏切り」(左からの批判の場合)やその「時代錯誤」(右からの批判の場合)がイデオロギッシュに非難されるだけで、その特殊な存在様式や行動様式がどうして生じたのか、この間の度重なる路線転換にもかかわらず、社会党の場合のように大きな動揺も生まれず、99%の党員が忠実でありつづけているのか、といった問題が、日本社会の特殊性と関連づけて論じられたことはほとんどなかったと思います。
 その意味で、『さざ波通信』の一連の議論は、その最初の試みというべきものですが、なお未解明の問題が多く、「日本共産党の特殊に強力な党員統合力」の問題については、ほとんど論じられていません。これは非常に興味があるし、非常に単純に「だから共産党はだめなんだ」という一言ですまされる問題ではないでしょう。
 いわゆるテロリスト系の左翼組織の場合、オウムと同じく、組織から離れることで生じる身の危険性が、統合力の源泉として説明可能ですし、また利権型の保守組織の場合、その組織に属していることで手に入る利権によって、その統合力は説明可能でしょう。また、ごく小さな組織の場合なら、そもそも統合力を云々する必要性すらないでしょう。1億人もの人間がいれば、どんな奇妙な組織にだって性の合う人間はそれなりにいるでしょうから。しかし、30数万人もの党員を擁する日本共産党の統合力は、以上のいずれによっても説明できません。
 一昔前ならスターリン主義の呪縛として簡単に説明できたように思いますし、現在でもこのイデオロギー支配仮説は一定の有効性を持っていると思います。しかし、すでにスターリン主義の権威が完全に失墜し、欧米諸国の多くの共産党で激しい内部分化が起こっているというのに、こちらではその兆候が一時期見えただけで、結局現在は、非常に不可思議な安定が実現しており、このことはやはり、先進国の中ではかなり日本独特のものであると考えられます。
 ヤス同志がこの問題に対して提出している仮説は、一言で言うと「階層分化の未成熟」論です。引用いたしますと、次のように書いています。

「社会的権威(国家、王、教会、、法王、大企業、有名大学、高い社会的地位など)と個人生活の適度な距離を持っていない日本人が大多数ですし、その日本人がその内面は変えずに、信仰する権威だけを置き換えて、党員になるのが現状だと、私は考えています。欧米的な中流市民意識、そしてその下の層の市民の『俺は労働者なんだ』という我らと奴らの意識。この2つの階層の個人規範の保持が、自らが受け入れている権威ある政党を、客観的に見れる前提なのでしょう」。

 この「階層分化未成熟」論は、「市民社会の未成熟」によって日本のあれこれの特殊性を説明する議論の一バリアントに近いと思われますが、ただ、普通の「市民社会の未成熟」論と違うのは、後者の場合、のっぺらぼうの「自立した市民」なるものが市民社会の発展によって生じてきて、その市民があらゆる悪(後進性)を根絶し、すばらしい未来を準備してくれるという空想的でエリート主義的な立場に立っているのに対し、ヤス同志の場合は、市民社会の成熟というものがそのようなのっぺらぼうなものではなく、上層と下層へと市民を分割するものであるというリアルな認識を持っていることです。
 この分化したそれぞれの階層に固有のアイデンティティこそが、党というアイデンティティを相対化して、自己の内面と権威の受容対象との間に適度な距離感を持たせることができるというのが、ヤス同志の主張であり、それが未成熟なゆえに、個々の党員が党中央の権威を無条件に受け入れて、それを自らの内面そのものとすること、したがって、党中央に対する批判が、自分自身の最も深い内面を傷つける行為であり、それゆえそれに対する理性的な対応を不可能にしていること(無視するか、声高に攻撃する)、等々が生じるとヤス同志は考えておられるわけです。
 私の見るところ、この議論は非常に興味深いし、慎重な検討を必要とするものです。ただし、この時点ですでに感じる疑問について言っておくと、分化した階層にそれぞれ特有のアイデンティティが、党というアイデンティティに対する相対化作用ないし拮抗作用として機能するとしても、それは、日本共産党のアイデンティティがどの階層にも特化していないという現状にあくまでも規定されたものだということです。
 いつだったかの『さざ波通信』のインタビューで論じられていましたが、日本共産党は一種の「国民主義」的イデオロギーを信奉しており、一握りの最上層階層と大企業を除くすべての国民の利害を代表したいと考えています。このような「国民主義的」イデオロギーは、まさに階層分化の未成熟さの反映なわけです。
 つまり、何が言いたいかと言うと、実際に階層分化が成熟した場合に、その階層分化に応じた党アイデンティティを形成することも、理論的には可能なわけです。かつての、コミンテルン時代の共産党の多くは実際にそうでした。彼らは典型的なブルーカラー労働者の階級的アイデンティティに立脚していました。戦後においても、たとえばフランス共産党は長らくその伝統を受け継いでいました。その場合、いわゆるプチブルないしエリート層の一部をどのように党に取り込むかと言うと、典型的には「贖罪意識」「悔い改めた知識人」意識を通じて統合するわけです。そして、このような統合形態も、歴史が証明しているように、それなりに強力だったわけです。
 ですから、階層分化(ないし階層意識)の未成熟は、現在の共産党における独特のアイデンティティのあり方を説明するものであっても、それ自体としては、現在の共産党が持っている「特殊に強力な党員統合力」を十分説明しえていないと思います。むしろ、ヤス同志が続けて書いている、「政党以前に運動(労働運動、市民運動、環境保護運動、NGOなど)がないと、党改革はなかなか難しそう」という主張の方をもっと深める必要があるように思えます。とはいえ、ヤス同志の問題提起は非常に重要で、刺激的なものです。
 そこで、ここの投稿欄によく投稿されている党員の方々に、この問題をめぐる議論を提起したいと思います。ヤス同志のみならず、木村同志、川上同志、雑草同志、CHA同志、澄空同志、入一同志の意見を聞きたいと思います。また、まだ投稿されていない同志のみなさんの意見もぜひ聞きたいと思います。よろしくご検討のほどをお願いします。
 なお、2つ目の問題も重要だと思うので、別の機会に論じます。