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党員用討論欄

問題提起のための論点整理

1999/8/10 吉野傍、30代、アルバイター

 以前の投稿で、「日本共産党の特殊に強力な党員統合力」が何によって説明されるのかという問題提起をしました。その後、木村同志より、それほど特殊な統合力はないんじゃないか、というレスをいただきました。木村同志の投稿は、それはそれで考えさせる内容のもので、大いに参考になりました。しかし、私としては、なお、特殊な統合力ということにこだわって、議論をもう少し前に進めたいと思います。とりわけ、最近、げじげじさんとのやり取りでも感じたのですが、げじげじさんは党員ではないにもかかわらず、その発想はすぐれて党員的であり、とにもかくにも「党の統一と団結」が優先されなければならず、そのためには党内問題をそとに持ち出すのはもってのほかであるという立場に立っておられます。同じような意見は、たとえば、JCPWに書きこんでおられる支持者の方にも見られます。党員のみならず、党に近い支持者に対してすら、これほど確固たる統合力を持っているのは、実にすごいことではないでしょうか。
 そこで、改めていくつか論点整理をしてみて、この問題についてより突っ込んで考えてみたいと思うのです。

 ①日本型企業社会の労働者統合力との類似点……前回の投稿で、日本の企業が特殊に強力な労働者統合力を持っているという話をしましたが、この統合力は共産党の発揮している統合力とある面共通しているような気がします。周知のように、日本の企業の労働者統合力の特殊性は、ホワイトカラーのみならず、末端のブルーカラーにまで及んでいることです。欧米でも、ホワイトカラー層、とりわけその上層の企業帰属意識は強力であり、各種の世論調査を見ても、欧米の民間ホワイトカラー労働者が自分の企業に誇りを持つ割合は、欧米各国で軒並み過半数を越えています。ホワイトカラー層に限れば、企業への帰属意識にそれほど日本と他の先進国との差は出てきません。しかし、日本の場合は、その統合力が末端のブルーカラーにまで及び、しばしば、下請けの労働者層にまで及んでいることです。この点を解明するものとして、戦後の労働運動で勝ち取られた職工差別の撤廃、ブルーカラーにも適用される年功賃金体系と終身雇用と企業内福祉、ブルーカラーにも適用される人事考課、企業別組合中心の労働運動、等々が検出され、分析されてきたわけです。
 同じことは日本共産党にも当てはまります。どの国の共産党であれ、専従活動家を筆頭とするその党の中枢部分は基本的にその党に忠実であり、「おまんま」の問題としても、その党に依存しているわけですから、この部分が強力な帰属意識を持つのは当然です。これは木村同志もおっしゃているとおりです。それがなければ、そもそも長期にわたって一定の大衆的基盤を持った党を存続させることなどできないでしょう。しかし、日本共産党の党員統合力の特殊性は、その統合力が末端の党員にまで及んでいることです(この辺はもしかしたら私の過大評価かもしれませんが、少なくとも私がこれまで接してきた多くの一般党員はそうでした)。それどころかその統合力が、(ちょうど、大企業の支配力が下請け労働者にまで及んでいるように)近しい支持者にまで及んでいることです。
 この問題をどう見るか、というのが論点の1つ目。

 ②指導者のカリスマ性とは別のところにある統合力……2つ目の論点は、この党員統合力の源泉が指導者のカリスマ性とは別個のところにあるのではないか、ということです。宮本時代には、われわれのような批判的党員は、宮本顕治議長が引退すれば、現在のような統合力が弱まるのではないか、党員はもっと自由に物を考え自主的に発言するようになるのではないか、と軽率にも考えていました。しかしながら、それはまったく誤りであることがわかりました。宮本氏が完全に引退したあとも、例の満場一致の体質は何ら変わることはなく、まったく党内から自主的な批判の動きは出てきませんでした。『さざ波通信』は別ですが、これとて、以前から存在した批判的党員がついに声を上げたという性質のもので、宮本氏が引退してから発生したものではないでしょう。つまり、共産党の独特の統合力は、指導者のカリスマ性にもとづいているのではなく、それはより制度的であり、より機構的であるということ、あるいは哲学的に表現すれば、より「物象的」であるということです。

 ③団塊世代党員の特殊な従順さ……3つめの論点は、現在の共産党の中心的年齢層を構成している団塊世代の党員が非常に従順であることです。周知のように、戦後日本がいちばん左傾化したのは、60年代後半から70年代初頭にかけてであり、この時期、青年学生層の多くは共産党支持か、あるいは共産党よりも左の党派を支持していました。70年代初頭時点で、党員の半分以上が20代であり、その多くは団塊世代の活動家によって占められていました。ところが、この団塊世代は、その後の日本の経済大国化の中で急速に社会階層の上昇を経験し、今では特権層を形成しています。かつては最も左であったこの階層の右傾化こそが、各国で伝統的左翼政党における右バネとして機能し、しばしば党内における台風の目となりました。
 典型的にはイタリア共産党の例ですが、イタリア共産党が最終的に共産主義と決別する上で中心的な役割を果たしたのは、40代の中堅幹部であり、その中心は団塊世代です。この世代は量的に最も分厚い層をなしているというだけでなく、最も集団意識が強く、横の連帯が強い世代です。したがって、この世代の団結による党改革(たいていは右への)の大規模な動きが欧米各国の党で見られましたが、日本では、たしかに90年代初頭にそれに近い動きがありましたが、団塊世代の個々の知識人党員が除籍になっただけで、あっさりと終息しました。この時、除籍になった団塊世代党員と党に残った団塊世代党員とは、しばしば個人的には親しく、深い交友関係があったにもかかわらず、この世代のヨコの連帯力は、党内のタテの統合力に亀裂を起こすことができなかったのです。
 この点については、おそらく木村同志が指摘している、日本における帝国主義的諸関係の未成熟、あるいは、その成熟の歴史の浅さ、ということで意外と説明がつくかもしれません。この点は勉強になりました。

 ④古参党員の従順さ……団塊世代の活動家が党内で右バネとして機能するとすれば、古参党員は、スターリン主義を引きずりながらも、しばしば左バネとして機能します。イタリア共産党の最終的右傾化の際にいちばん抵抗したのは、この古参党員、古参幹部です。しかし、日本では、この古参党員、古参幹部も、何らかの自主性や抵抗を発揮しているとは思えません。単に表面化していないだけなのかもしれませんが、表面化していないということそれ自体が、共産党の統合力の強さを示していると言えるでしょう。

 ⑤青年党員の比率の異常な少なさとの関連……5つ目の論点として提起したいのは、20代の党員が党の2~3%という圧倒的な比率の少なさが、党の統合力と何らかの関係を持っているのかどうか、です。これは、もっと言えば、日本における青年層の保守性と関連があるのかどうか、という問いにつながります。欧米では、新しい市民運動や労働運動に積極的に若い世代が参加しています。たとえば、フランスでは、高校生が学費値上げ反対・教育予算削減反対の50万人デモを敢行しました。また、青年層での左翼支持が増大する傾向にあることも報告されています。それに対し日本では、高校生の運動は言うに及ばず、学生運動も次々と衰退ないし崩壊していってます。所沢高校の生徒会が自主卒業式をやっただけでマスコミが大騒ぎし、右派知識人が口角泡を飛ばして罵倒するという実にこっけいな光景が繰り広げられる始末です。
 党の内部で自主的な動きを作り出す最も重要な階層であるべき青年・学生層が、この間、急速に保守化し、それが党内で占める比率が極端に落ちたことが、この間の社会変動や中央の路線のジグザグにもかかわらず、党全体が静かである重要な要因になっているのではないか。

 ⑥労働運動の弱さとの関連は?……この問題は、ヤス同志の問題提起と密接に結びついていますが、少し位相を異にしています。日本共産党の基盤は、民間大企業の労働運動ではありません。もっと言えば、そもそも労働運動にあまり依拠していないのが、日本の共産党の特徴です(日本共産党の主力部隊は、専従と議員を除けば、地域の活動家と民主団体の活動家です)。労働者が、資本に対してであれ国家に対してであれ、あるいは政党に対してであれ、何らかの自主的な立場をとることができるのは、労働者として独自の団結を行ない、その団結力に依拠することができる場合のみです。これが弱い場合には、個々の労働者は各自で強大な相手と闘わなければならないので、必然的に、ごく一握りの「強い個人」以外は、企業や国家などのより強力な集団への従属に陥ります。同じことは、共産党にもあてはまるでしょう。すなわち、労働者党員が、労働者としての横の団結にしっかりと根ざしているとき、共産党という統合体に対して一定自主的な姿勢をとることをも可能にするのではないか、ということです。したがって、「奴らと俺たち」という階層意識が未成熟だから、共産党に対して心理的に自立できないのではなく、もっと即物的なレベルで、すなわち、労働者として固有の組織と団結力を持たず、ただ党という次元でのみ組織化されているため、それに対する自主性や抵抗力が弱まるのではないか、ということです。
 この点については、ヤス同志も、政党の運動以前に労働運動や市民運動が必要であると言っておられるので、それほど意見が隔たっているわけではありませんが、ヤス同志の場合、まず心理面から話が始まるのに対し、基本的問題はもっと即物的レベルにあるのではないか、ということです。
 ですからこの問題は、第1の論点ともつながります。すなわち、日本における企業の特殊に強力な統合力の最も重要な源泉の1つが、民間労働運動の弱さにあるとすれば、この同じ原因が、企業や国家に対抗しうる唯一の全国組織である共産党への党員の従順さをもたらしているのではないか、ということです。
 たとえば、民間企業で、徹底的に差別されている共産党員労働者を支えているのは、もっぱら党員としてのアイデンティティなわけです。労働組合も、市民運動も助けてはくれません。ただ、彼ががんばれるのは、共産党の一員としての誇りと党組織による援助のおかげなわけです。こういう状況において、一般党員が党中央に対し忠実になるのも無理はないでしょう。逆に、例外的に強い労働運動をやっている党員は、私の個人的印象からしても、かなり自主的な姿勢を持っているような気がします。
 つまり、日本においては、個々の労働者や市民はかなり原子化されており、それがために、その集団としての対抗力をただ、共産党という独自の組織においてしか持ちえない。それゆえ、党に対して、そして党幹部に対して、意識的・無意識的に従順になるし、何よりも党の統一と団結を守らなければならない、という意識になるのではないか。共産党はまさに、党員たちが持っている唯一強固な対抗組織になってしまっているのです(各種民主団体も基本的に共産党なしには存在しえません)。ヤス同志も指摘しているように、日本では、党から離れると同時に、運動からも離れていくパターンが非常に多いのは、その辺にも原因があるという気がします。

 以上のように論点整理して見ると(私自身も書きながら、頭の中がまとまってきたような気がします)、意外に、「日本共産党の特殊に強力な党員統合力」というものが、日本社会の種々の特殊な構造と深い関係にある、とりわけ企業の特殊に強力な労働者統合と関係があるということが見えてきたような気がします。