しばらくROMしていましたが、吉野さんよりご指名の問題提起がありましたので久しぶりに投稿します。
まず、私は研究者でも何でもないので、用語や理解に不備があるかもしれないことを先にお断りしておきます。
日本共産党に特殊な党員統合力があるとすれば、それは吉野さんの問題提起の1番目とかかわりますが、「日本型企業社会の労働者統合力」と同様のものではないか、と考えています。日本型企業社会とは、高度成長期における農村から都市への人口移動により従来のムラ的つながりから切り離されアトム化した若年労働者層を企業の側から統合して成立した市民社会であると私は理解しています。従来のムラ的つながりに代って日本企業が労働者を、労働過程だけでなく全生活をひっくるめて取りこんだ市民社会が、「日本型企業社会」です。
一方、企業に対抗する側の対抗戦略もそれと同じ戦略をとったと言えるのではないでしょうか(あるいは、そうせざるをえなかった)。つまり、日本共産党も日本の各都市に「団地専従」を配置したり、新しい労働層の生活の要求にそった運動・団体(うたごえ運動や仲間作りが中心の民青同盟など)を作ったりして、労働者を労働の面からではなく生活の面から取りこみ、組織拡大を図ってきました。その点では創価学会も同じような側面があると思います。
このように見てくると、どちらにおいても、全生活密着型とでも言える結びつきが、統合力の源泉ではないかと思えます。労働者にとっては、会社を辞めること=現在の生活を放棄することであり、日本共産党員にとっては、離党すること=運動や団体から身を引くこと、になるわけです。それは、これまでの人間関係も清算することをも意味し、それが強力な統合力となっているのではないでしょうか? その意味で、企業において過労死してまで働きつづける労働者がおり、企業の防衛のために自らの命までささげる労働者がいるのと同じ形の統合力が日本共産党にもあるのだと私は考えています。実際、民主団体と呼ばれる共産党系の団体においては、かつては党員であることと当該団体の職員であることは一致し、党を辞めることは仕事を辞めることとしばしば一致していましたし、入党する際にはそれだけの覚悟をして入るものだと考えているというのが実情でした。
しかしながら、「日本型企業社会」は、その成立とともにその形を変えつつあり、それは現在なお進行中です。どのように変わってきたのか、また変わっていくのかについて検討することは私の力量の範囲外です。しかし確実に言えることは、それに対抗する左翼の側の力量はかつてより脆弱で、対応も遅れているということです。従来の統合力は、若年層になるほど通用しなくなっています。これが、現在の日本共産党における青年の比率低下の根本にあることは間違いないと考えています。
かなり中途半端な感想という気もしますが、また時間を見つけて投稿していこうと思います。