さざなみ通信を興味深く拝見しています。
最近の指導機関の頭が非常に固いことは確かでしょう。言ってみれば極めて保守的なのです。なぜもっと柔軟な思考が出来ないのだろうと思います。
前衛の9月号には恋愛と結婚観についての論文が掲載されています。書かれているその限りにおいては、その通りかも知れません。しかし、それでは、愛はどうなるのだという疑問が残ります。これは一例に過ぎませんが、杓子定規の感は否めません。
議会報告についてもあれこれ注文がついて記事を削ることもあります。視察についても遠方への計画にクレームがついてもめたこともあります。
全体として問題にならないようにとのおどおどした対応が多いのです。ほかにもいろいろあって、ため息をつくことが多々あるわけですが、それでも我が党には信頼を寄せています。科学的社会主義をその哲学としている限り、そして支部の同志たちがまじめにがんばっている限り、我が党は大丈夫だと思うのです。大衆的前衛党と言いながら「大衆的」に埋没して「前衛党」がどこかへ飛んでいるのではと感じてはいますが、住民と直接触れ合って運動を進めているのが、私たちであるからこそ大丈夫なのだと考えています。変な言い方ですが、私が日本共産党だから、あるいは日本共産党が私だから大丈夫なのです。この感覚的な表現でわかっていただけるでしょうか。
多くの支部の同志たちは、特別な考えを持たず、問題はあると感じながら本能的に正しい方向をめざしてがんばっていますが、意識せずに上記のように考えているのではないかと思っています。
私自身は個性を生かした活動をしようと心がけています。指導機関の求めには基本的に応じていますし、機関紙の拡大などの諸課題も「優秀」な実績を作っています。しかし方針に団結しながらも常に「異議あり」と申し立てているところに私の存在価値があるのだと考えて活動しています。
こうしたあり方を中央がどのように判断するかはわかりません。次の選挙で候補からはずれる結果になるのかも知れませんが、たくさんの個性的で魅力的な党員・議員がいることも事実です。そんなに捨てたものでもないと思いませんか。4中総に団結しつつユニークな実践は可能です。みなさん、ユニークな、個性的な、そしておしゃれで美しい活動をしてみませんか。私たちは革命を目指す集団なんですから、内部的にも外部的にも困難はあって当たり前です。それぞれの価値観と党の方針が大から小まで一致すると考える必要なんてないのです。もしそうなら宗教者党員は存在できません。
そういえば、以前宗教者党員の礼拝の尊重についてお困りの方がみえましたが、それについての反応はなかったように思います。牧師に相談しても支部に相談しても答えは決まっている。相談すべきは自分の心だと友人のクリスチャン党員は言っておりました。ちなみの今年のイースターがラストサンデーにぶつかることがわかっていたから、仕事で海外に逃避した人も居ました。礼拝を選ぶという方もみえますし、安息日である日曜日には候補者活動をしないという方も見えます。ご自身の信ずるところに従うべきなのではないでしょうか。
まだ議員からの投稿はないようですが、結構みなさん多面的に、柔軟に考えて見えますよ、私を含めて。党内でどんどん討論しましょう(発言でなくて)。あきらめないで、あるべき姿を目指しましょう、方針には団結しつつ。