「党の特殊な党員統合力」と「党の将来」に関する論争が、この間続いていますが、私自身、8月10日以来この問題では発言していなかったので、この間の投稿をふまえて若干意見を述べさせていただきます。
まず、私が提起した、日本における対抗的集団・組織の弱さと、そこから、唯一強力な組織である共産党への帰依が生じるという問題について、若干ここで敷衍させていただきます。アカデミズムやジャーナリズムの世界における伝統的な日本論というのは、日本においては自立した個人(市民)が弱く、集団主義が強いので、企業への従順さが生じるというものですが、私はこの議論は基本的に間違っていると思います。
この種の「弱い個人主義」論からすれば、企業も共産党も同列に並べた上で、日本では集団主義が強いから、これらの集団に対する帰属意識も強くなる、ということになりますが、私の意見は違っていて、日本における真の問題――とりわけ、ヨーロッパと比べてのそれ――は、「個人主義の弱さ」ではなく、伝統的紐帯の弱さから来る「対抗的集団主義の弱さ」にあり、この「対抗的集団主義の弱さ」ゆえに、企業への労働者の強力な従属を生み、したがってまた、企業社会に対抗しうるほとんど唯一の対抗権力である、共産党への党員の強力な従属を生む、ということになります。
したがって、重要なのは、抽象的に「自立した個人」や「自立した市民」を対置することではなく、多様な、幾重にもクロスしあった対抗的集団をつくること、そして、党から離れることが運動から離れることではない多様な受け皿をつくること、ということになります。
ただし、この多様な受け皿がそれぞれに、わが組織こそ唯一絶対の前衛組織であり、他は偽物である、という立場を取るならば、閉鎖的なミニ・スターリニスト党を多数再生産するだけであり、いかなる意味でも問題の解決にはつながらないでしょう。70年代の新左翼運動が破綻したのは、ここに原因があると思います。
第2に、入一同志および木村同志が提起した、民主集中制の実際の運用の仕方です。すなわちそれが、党内における多様性の余地を残さないような性格を有していたことです。自分の本当の意見を隠したままで面従腹背党員として生き残るか、あるいは、さっさと党から放逐されて、反党分子として血祭りにあげられるか、という選択肢が多くの批判的党員につきつけられてきました。自分の意見を黙っていることのできない多くの党員が、こうして党を追放され、党内にはしだいに、党の現在のあり方にまったく疑問を持たない党員が圧倒的多数を占めるようになっていきました。
新日和見主義事件が象徴的ですが、まさに分派の可能性があると指導部がみなした場合には、たとえ分派でなくても、「双葉のうちに」徹底して刈り取られるのです。双葉でさえ徹底的に刈り取られるのだとしたら、どうして、党内で自由に異論を表明することができるでしょうか?
私の知り合いの党員は、党内の会議で発言するための準備として、自分の意見をメモに書きとめていたのがたまたま、上級機関の人間の手に入り、その機関メンバーから、「お前は分派主義者だ、伊里一智と同じだ」と罵倒されました。自分用の私的メモでさえ、批判的なことが書いてあったら、それはすでに分派主義の証拠なのです。このような運営の仕方をしておきながら、党内で自由に意見を表明することができるとか、党内民主主義は守られているなどとよく言えたものです。
第3に、澄空同志が提起した、党の構造が「全生活密着型」であるという点です。伝統的規範と結びつきから切り離された民衆が、都市部において新しい強力な集団に容易に統合され、それが全生活密着型となるという論理は、非常に説得的です。ここでも重要なのは、伝統的集団主義の強さが新しい集団への強力な帰属を生んだのではなく、それとは逆に、伝統的集団主義の弱さが、新しい集団への統合と帰属を容易にしたということです。
200年近くかけてしだいに都市化したヨーロッパと違い、明治維新以後、いや第2次大戦後の高度成長期に、ほんの数十年で高度に都市化した日本においては、都市部における対抗的集団や伝統の蓄積に乏しく、また農村から伝統的集団主義を引きづっていくこともできなかった青年大衆は、アトム化した個人として急速に都市生活に順応しなければならなりませんでした。アトム化した大衆は、都市で生きていくためには、新しい集団に一体化しなければならなかった、ということになります。
実はこの問題は、昨今の青年の保守化とも関連していると思います。高度経済成長期における地方出身青年は、実家もそれほど豊かではないために親に頼ることができず、したがって、自分の生活を改善し安定化させるためには、企業内で勤勉に働いて年功賃金と昇進の階段を上っていくか、あるいは、共産党や労働組合に団結して、政治革新や階級闘争を通じて生活全般を改善していくか、という選択肢にならざるをえませんでした。しかしながら、現在の青年の圧倒的多数はすでに都市出身者であり、しかも現行の年功賃金のもとでは、親の収入は、子供の生活を私的に豊かにするだけの余力を持っています。
入一同志が提起しているような、最近の若い世代における「公共性よりも私性が優位である」現状というのは、伝統的集団主義の弱さとともに、それを可能にする物質的保障というものがあると思います。自由主義史観派を始めとする右派は、こうした現状にいらだって、人為的に「伝統的集団主義」を上から植えつけようとしているわけですが、もちろんこうした試みは無力であるだけでなく、反動的です。なすべきことは、民主主義的規範とルールにもとづいた新しい対抗的集団を多様に構築していくことでしょう。
念のため言っておきますと、この新しい「対抗的集団」は、けっして「無」から作り出すことはできないと私は考えています。私はすでにあるものを改良し、再構築することで、「民主主義的規範にもとづいた新しい対抗的集団」を建設するべきだと思います。その最たるものは日本共産党です。
さて以上のことを確認した上で、これまで出された意見に若干の異論を出したいと思うのですが、すでに相当量になっているので、続きは次回とさせていただきます。