この論争に参加した投稿が例外なく日本人民と党の未来を真剣に考える立場からのものであり、今後に必ず何らかの実りを残すものとなると期待しています。
この論争は、単純化してしまうと、「現在の日本共産党指導部の進もうとしている道はおかしいのではないか」、そしてそれにもかかわらず「党内の人たちが異議を申し立てない、あるいはできない、のはなぜか」というところから出発していると私は理解しています。つまり、党内に決して小さいとはいえない方針、意見の違いがあるにもかかわらず、例えば『さざ波』やその投稿者のような批判的立場がなぜ党内で顕在化しないか、という問題提起であったと思います。「統合力」という言葉は、「まとめる力」という意味ですから、私の理解はそれほど的はずれではないと思います。党内には多数とはいえないまでも異なる意見が存在するであろうということや批判的な意見を党内で出すことができないということに関しては一連の投稿で明らかにされたことであるし、私も基本的には特にそれらに対して異論を持っているわけではありません。
現在の日本共産党中央の路線の核心は、「資本主義の枠内における改革」をめざすという路線であり、革命運動全体をあれこれの「部分的な改革」に押しとどめ、闘いを結局のところ「議会内のささやかな取り引き」に収斂させようとしていることでしょう。(現代日本の革命運動で、議会を無視した政治路線はあり得ないと思いますが、これに関しては、この投稿のおもな目的ではありませんからここではこれ以上述べません。) したがって、かつてなくグローバル化した現代においても、「資本主義の枠内におけるささやかな改革」を目指すだけであれば、世界情勢の分析は必要ないということになるのでしょう。詳しくは『さざ波通信』第6号の「党創立77周年不破演説批判」を読んで下さい。大会や中央委員会総会などの報告で「世界情勢」が分析されなくなってからほんとうに久しいものがあります。かつては必要に応じて「ケネディとアメリカ帝国主義」などの論文が発表されたわけですから、現在の日本共産党中央がどれほど「世界情勢とは無関係」な路線を進めているかがわかります。これらのことは、日本共産党中央の現在の路線が本来の革命運動とは大きな乖離を生ずるにいたったということの証明だと考えられます。
また、『しんぶん赤旗』などで、非常にわずかにしか語られないことがもう1つあります。現代日本における底辺の労働者の実態です。簡単にいってしまえばパート労働、臨時雇用の労働です。適切な統計資料が手もとにないので私の生活実感だけを根拠として続けますが、かつてはパートといえば家庭の主婦の内職に等しいという程度のものでしたが、次第に増加し続け、近年の数々の労働法規の改悪によって膨大な層を形成するにいたり、もはや現代日本のほとんどの産業がこれらの「半失業労働者」の存在を抜きにしては成り立たないところまできているといっていいでしょう。問題は、単に家庭の主婦だけではなく、若年労働者のかなりの部分がこうした「半失業労働者」となっていることです。彼らは賃金だけを見ても、ほとんどは時間給、出来高賃金であり、厳しい肉体労働を強制され、満足な休暇も与えられず、驚くほどの長時間労働をして月額せいぜい15万円から20万円です。もちろんボーナス(一時金)や退職金などはまずありませんから、年収200万円~300万円といったところでしょうか。「年功序列賃金」ではありませんから、ほとんど生涯にわたってそういう程度の賃金です。しかも、資本家は自由自在にこれらの労働者の首切りを何はばかることなくできるのです。これが資本主義における「自由」であり「民主主義」です。日本における労働者階級のもう1つの実態です。
かつて、銀行への公的資金の導入が問題となったときに、テレビ番組で保守党の議員が「銀行員の平均年収は700万円を超えている」として、金融労働者への攻撃をしました。同席していた共産党議員は「年収700万円は高いとはいえない」として、この保守党の議員を批判しました。この反論はそれで結構です。これはテーマが「公的資金の導入」でしたから、この番組はそれ以上のことを述べる場ではありませんでしたが、共産党はその党名を掲げる限り、あらゆる場を使って先に述べた膨大な「半失業労働者」、年収200万円~300万円ほどの労働者の実態を明らかにして、徹底して資本主義の暴露をしなければならないと思います。
ロシア革命とその後の社会主義体制は資本主義を震撼させました。ここから深刻な教訓を学んだブルジョアジーは狡知にたけた労働者支配を完成させ、あらゆる手段を使って労働者分断政策を完成させています。(ロシア革命と現代日本の革命運動とでは、支配体制や革命主体において、きわめて大きな相違があります。) 現代日本の労働者で、まだ比較的安定した生活が可能なのは、図式的に単純化してしまえば、公務員労働者と大企業の労働者だけでしょう。膨大な「半失業労働者」の数は増加し、その生活は不安定さを増しているでしょう。別な表現をすれば、労働組合をもっている組織労働者と未組織労働者に大別されるという言い方も可能でしょう。みずから闘う組織を持たない「半失業労働者」はいわばサイレントマジョリティでもあります。私はここに、吉野さんがいうところの「アトム化された個人」見いだすのですが。
階級的立場からすれば、「半失業労働者」、「底辺の労働者」が最も革命的であることは明らかでしょう。「資本主義の枠内におけるささやかな改革」では、これらの膨大な労働者が安定した仕事と生活を保障されることは不可能でしょう。彼らの生活を根本的に変革するためには革命による以外にはないのです。特に、近年、ブルジョアジーが行ったことをみてみると、消費税、医療保険の改悪、労働法規の改悪、人材派遣業の拡大、介護保険の導入などは、要するに「社会の下層の人々から収奪をする。社会保障は公的資金によらず自助努力によるべし」ということにほかなりません。例えば消費税。低所得層は貯蓄などほとんど不可能ですから「年収の5%」を税金として取られています。200×5=10万円が税金として取られているのです。一方、所得税減税が行われましたが、この恩恵は高額所得者にのみ与えられたのです。ついでにいえば、「消費税を3%に」というスローガンは社会の底辺で日々の暮らしにあえぐ人々のスローガンではありません。これらの人々のスローガンは「消費税廃止」です。3%に戻すということが、戦術的に検討されるべき段階であれば「消費税を3%に」というスローガンも検討されるべきでしょうが、そんな段階でもないときの「3%に」は社会の底辺の人たちの立場からでたものではありません。
前置きが長くなりましたが、ある意味では現在の日本共産党中央の政治路線は特に党全体の傾向(公務員労働者と60年代から70年代の闘いを経験した大学卒が多いと思いませんか。)とはなはだしい乖離が存在しているわけではない、という見解が成り立つ可能性があると思います。それは現在の日本共産党の階級構成に「アトム化された個人」つまり先に述べたサイレントマジョリティが極めて微少にしか反映していないという事情によるものと考えられるからです。「党の統合力と未来」論争に関連していえば、むしろ、遠心力が作用するものを1つにまとめる「統合力」の要素は政治的な次元のものであって、党の階級構成つまり物質的な根拠からいえば「統合力」による必要はなく、みずから「求心力」が作用しているといえるでしょう。そして、このことが意味することは、党の階級構成にもっと底辺の労働者が反映するようになれば党の路線は変わりうるということでもあります。変革の立場に立って実践的にものごとを考えていかなければならないと思います。
この続きは「青年問題によせて」で書くつもりです。