党員用討論欄に「多国籍軍支援は憲法に矛盾せず」という投稿がありました。この投稿は『さざ波』の雑録論文に対する批判的見解であり、全体としての論旨は「財政支援」に賛成という内容であり、基本的には日本共産党の不破、志位発言に沿う内容であると私は理解しました。この投稿やそのバックボーンとなった不破、志位発言に対する疑問と反論、および東チモール問題について私の見解を述べます。
東ティモールでの武装民兵による残虐行為およびそれを防止する多国籍軍の行為は、戦争行為でもなければ憲法で言うところの国際紛争の解決手段でもありません。もしそれが戦争行為なのであれば、わが国で同様の行為が行なわれた場合、それを防ぐ手段をわが国は憲法上持ち合わせていないことになります。
まず、同様の行為とは何を指しているのでかが私にはいまひとつ理解できませんから、この点については、もし返信があればその段階で考えることとします。
多国籍軍による治安回復行為が戦争行動でないのは明白であり、明確な戦争行動である湾岸戦争の場合とは明らかに異質なものです。
投稿文中の、治安回復行為と戦争行動とはそれほど「明らかに異質」でしょうか。ものごとには区別が明らかな2つのものもあるでしょうが、はっきりとした境界線を引くことができないものもたくさんあります。中間的な性格をもったものもたくさあり、「明らかに異質」とはいいがたい場合もあります。「武器を持った外国の軍隊が東チモールに派遣される」ことは、当然、軍事行動があり得ることを想定しているのであって、質的には戦争行動と非常に近いものがあるというのが常識的な理解ではないでしょうか。それがどうして「明らかに異質」といえるのでしょうか。私には両者が「明らかに異質」であると理解することはできません。
とりわけ、この投稿で投稿者氏が問題としているのは、罪なき人々が「虐殺」される「非人道的結末」を問題としているのですから、そうならば、なお治安回復行為と「イラクのクエートへの侵略をやめさせるための」(湾岸戦争の評価を別として)戦争行動との間にどれほどの違いがあるのでしょうか。
仮にオースト(ラ)リア軍派遣の理由が人道上以外の意図にあったとしても、それが人道的効果を生みだす行為なのであれば、非人道的結末に至る人道的意図よりはるかにましなはずです。この場合の人道的効果とは、罪なき人々が「殺されない」ことであり、非人道的結末とは罪なき人々が「虐殺」されることです。その行為(豪州軍派遣)がいかなる政治的時間的文脈の中にあるとしても、後者より前者の選択の方が是であり、人道的行為であることは言うまでもありません。 「東ティモールでの虐殺をやめさせることは、それ自体としては肯定的に評価されるべきこと」である…
投稿者氏の見解は一見、非常に人道的な立場を優先する見解に見えますが、たとえば、「町なかで暴漢に襲われた人を救うために通行人が協力して暴漢を取り押さえる」というような問題と東チモール問題は、それこそ「明らかに異質」なものです。主権がからむ問題であり、民族問題であり、帝国主義国の外交、軍事の問題であり、優れて政治性の強い問題であり、単なる人道問題ではありません。政治や軍事の問題を「人道上の問題」として扱えば当然、正しい結論には到達しないでしょう。
さらに、多国籍軍への財政支援の問題は東チモール問題そのもののほかに、「日本がアジア諸国に対してどのようにかかわるか」という問題があります。このことを考えないで結論を出すことはできません。
PKOやPKFで日本政府がやろうとしていることを、投稿者氏も、単に「国際貢献」としてだけ理解しているのではないと思いますが、日本の支配層の中に「海外派兵への衝動」が常にあることを的確に認識しているのでしょうか。従って、この問題を単なる憲法問題として論議すれば、現在の政治情勢の中で支配層の中にある「海外派兵への衝動」を批判し、これと的確に闘うことができなくなってしまいます。
話がそれますが、日本の原発政策に関して、不破氏はプルトニウム依存を批判しますし、これが核兵器の材料となることも指摘しますが、日本の支配層の深部にある核兵器開発への衝動については指摘しません。
帝国主義国からの収奪の長い歴史を持つアジア諸国はいまでも「貧しい国」です。貧しいがゆえに政治的な民主主義もじゅうぶん発達しているとはいえません。多くの人々の生活は悲惨な状態であり、政治的な権利や民主主義も未成熟であるとすれば、これらの人々が武器を持ってみずからの解放のために立ち上がることもないとはいえません。日本はアジア諸国へ大量の資本投下をし、各地にたくさんの企業や工場が進出しています。日本はいわば帝国主義的な進出をしているのです。これらの資本が利潤をあげるための絶対条件は「安定した治安」です。アジア諸国の民衆が武器を持って闘いを始めたときに、そして、その国の治安を回復するために多国籍軍が派遣されるとしたときに、日本共産党はその財政支援に賛成するのでしょうか。私は絶対に賛成してはいけないと思います。もし、反対するとすれば、そのときに、政治から切り離された「人道的立場」から出た結論だけでじゅうぶんに闘えるのでしょうか。政治には政治の論理があることを忘れてはいけません。
アジア諸国の中にはアメリカがほとんど影響力を持っていない国もあります。その場合には多国籍軍に依存するわけにはいかず、自衛隊を派遣するよりないでしょう。この懸念は私の杞憂ではないと思います。日本の支配層を突き動かしている「自衛隊の海外派兵の衝動」の最大の根拠はこのことでしょう。日本の支配層の年来の宿願であった自衛隊の海外派兵という「大事業」を成し遂げるためには、(解釈改憲も含めて)憲法改正という法制上の整備も必要でしょうし、何よりも国民の意識の「改造」が必要であり、そのために1つずつ既成事実を積み重ねることが大切だということです。従って、多国籍軍への財政支援はこのような脈絡の中で評価されなければならず「単なる人道上の問題ではない」ことを銘記すべきでしょう。
また、憲法問題としても、この投稿者氏がほんとうに党員であるならば、このような理解が日本共産党員の中で存在しているということが私には驚きでした。『さざ波』をごらんになった日本共産党員の方々は、一般投稿欄の<事実上の改憲論?1999/9/28>や<多国籍軍への軍事費支出は憲法違反です 1999/10/4>をお読みになって、ぜひ、国民の中にある日本共産党の「無原則な柔軟化」を懸念する率直な世論に耳を傾けてほしいと思います。
もともと、このような発展途上国(地域)の民族問題は、欧米の帝国主義支配によって引き起こされたものです。日本共産党は「インドネシアの責任」を厳しく問うていますし、それは当然のことですが、その前に、(東チモールはポルトガルの植民地でしたが)、より基本的には欧米の帝国主義国が断罪されるべき問題です。
東チモールは人口約80万人、地理的にはインドネシア、オーストラリアと至近の距離にあります。太平洋には人口も面積もきわめて小さな国がありますから、東チモールが1つの独立国としてやっていけるかという疑問は別としても、いずれにしても周囲の「大国」の政治的、経済的、軍事的な影響を考慮しないでは成り立たないことは明らかです。東チモールの豊富な地下資源の存在がオーストラリアに帝国主義的な衝動を引き起こしていることはマスコミで指摘される通りでしょう。東チモールに関する現在の解決策は、結局のところ、アメリカ帝国主義の承認のもとにオーストラリアの影響力の下に入るということでしょう。豊富な地下資源は東チモールの人々の生活向上のために使われるのではなく、ふたたび新たな帝国主義的収奪の対象となるのではないでしょうか。このことだけでも、多国籍軍への財政支援に反対するじゅうぶんな根拠となりうるものです。
東チモール問題は先にも述べたように「町なかで暴漢に襲われた人を救う」という「人道上の問題」ではありません。東チモールという1つの国がインドネシアの支配から独立するという問題です。国の独立は基本的にはその国の人々が闘い取るものです。しかし、東チモールはインドネシアとは比べようのない小さな規模の国であるし、1975年に独立宣言をした「東ティモール独立革命戦線」は、翌年一方的に「併合」を宣言したインドネシアの残虐な占領政策のもとで約20万人が殺害されたといわれていますから、この国の人々に対して「独立は闘い取るものだ」と、どこまで言うことができるかは疑問があります。この点では、『さざ波』トピックス(99.9.27)の述べるように「東チモール人民が、ぎりぎりの決断として多国籍軍の介入と支援を要請したのは、強いられたやむをえない選択」だったでしょうから、東チモールの人々の選択については私にも批判する資格はありません。ただ、インドネシア政府の提案による住民投票が行われ、ここで独立支持が多数を占めたというだけでは独立することができなかったわけであり、この事実は「歴史は投票だけでは進まない」という教訓的なできごととして理解しておかなければならないということだけ申し上げておきます。