日々の多忙に紛れて、せっかく意見を頂戴しておきながら投稿が遅れてしまったことをお詫びします。
さて、表題についてですが、「改革論」そのものについては根本的な異論を差し挟むものではありません。私が気にしているのは、近頃、革命が語られなくなってしまったということです。日本改革論は共産主義社会へ至る展望という文脈の中で語られるべき性格のものであり、改革論のみを取りだして語ることは日本共産党が共産主義社会を目指していないかのように受け取られる可能性があるということです。
これは党外の方に誤解されると言うだけではありません。党内には綱領・規約を読んだことのない党員がたくさんいます。入党にあたり、綱領・規約の承認が条件とされているにもかかわらず、多くは党員から説明を受けるだけで承認としていますから、党員であっても綱領路線を理解していない人が多いのです。したがって、「改革論」だけで入党している人がいることを考える必要があります。自らの所属する政党の目指す革命の性格も社会の性格も知らない党員がいることを現実的な前提として、改革論は革命の文脈で語るべきなのです。それを一面トップに、日本共産党の「改革論」は世界に通用すると、品性の感じられない(文才の感じられない)言葉を大見出しにもってくるというのはいかがかと私は言いたいわけです。
もうひとつは、「通用」という言葉です。この言葉は、双方に通じて用いられる、一般に用いられるという意味です。世界に通用する、このように使えば世界に通じて用いられる、世界中で一般的に用いられるということになります。日本の改革論は日本で用いられればよいのであって、世界に用いさせる、通用させる、通用する必要はないし、通用の意味から言えばこの言葉はきわめて不適切なのです。世界に押しつけるつもりでないのはわかっていますが、人が言葉によってコミニュケーションしている以上、厳密に自らの言葉の意味を検証するべきなのです。ましてや政党の機関紙であれば、誤解を招く表現はしてはならないのです。
ついでに言ってしまうと、赤旗の文章はどうして美しくないのでしょうか。どれもこれも言葉と文体に工夫がなく、読者に読ませようという表現が感じられません。人は事実の羅列だけでは動きません。パッションが揺さぶられないことには動けないし、怒れないのです。こんなことがわからないのは、単に記者に才能がないということなのでしょうか、地区委員会に、民間の企業なら真っ先にリストラの対象にされるであろう仕事のできない専従がいるように、文才のない記者が赤旗編集部にごろごろいるのでしょうか。それとも、党中央がああした美しさのない文章を指導しているのでしょうか。
このことはポスターや赤旗号外などにも言えます。使い尽くされてまったくアピールしない言葉を使い続ける芸術的無神経さ。国民に日本共産党のことを伝えたいからポスターや号外を出しているはずですが、ちっとも心に響かない言葉、文章、スローガン。どうしてこんなに日本共産党にはセンスがないんでしょうか。個々の党員を見れば信じがたいほどの信念と才能を持った方々があちらにもこちらにもいらっしゃいます。どうしてそうした才能ある党員を惹きつけるだけの指導ができないのでしょうか。
あるいは電通や博報堂を使ったっていいじゃありませんか。宣伝活動に何千万も何億も使ってるんでしょうから、読まれないビラを作るより読まれるビラを作るべきです。宣伝局はわかっているのでしょうか。人々に読まずに捨てられているあのビラを作るお金は、私たちが増やしている読者のみなさんからのものであり、少ないけどと申し訳なさそうに寄せられる支持者からのものであり、われわれ党員からのものなのです。そうした事実に眼差しを向けるなら読まれないビラを作ることはできないはずです。伝えたいことがあるのなら、伝えるための努力をする、当たり前のことではないでしょうか。政党助成金を受け取らないことを宣伝する一方で、党員、支持者のみなさんのお金を無駄に使っているとしたら、そしてそのために、またもやみなさんにカンパをいただかねばならないとしたら、あまりにも悲しすぎます。日本共産党分の政党助成金は各党の間で山分けされるは、国民からは無心を重ねるはでは胸を張って日本共産党員ですと言えません。
先日の不破質問の折り、小渕氏や自自公の諸氏がしきりに、全力を尽くします、全力を傾注して、などと使っているのを聞いて、ああ、この言葉は連中の言葉になってしまっていて、全力を尽くさない、という意味にすり替わっているんだ、それを国民も知っているんだ、そう思ったら全力を尽くすという言葉に殺意さえ覚えてしまいました。もう私はこの言葉は自分の決意を表すものとしては二度と使わないでしょう、言わないで実行するのみです。以前に書いたように、言葉、用語の選択に人の本質が表れるものですから。
たくさんの色褪せた言葉たちも、文脈が違えば光り輝きます。言葉自体に責任はありません。問題はやはり使う人の意識の持ち方です。誠実に言葉を選べば、誠実な行ないにつながって行くでしょう。多くの部分で荒れ果ててしまったこの日本で誠実に生きようとすれば言葉を選ぶしかなさそうです。信念のために命を奪われた先人に連なることでしか、この国で誇りを持って生きるすべがないように。
私が入党した23年前、日本共産党は私にとって光り輝くもので、そこには厳然として権威がありました。しかし、革命の言葉を使わなくなるにつれ、光が失われていきました。若い世代の党員が少ない原因はこれです。彼らにとって、日本共産党は光り輝いていないのです。魅力が感じられないのです。私の力では全体を変えることはできませんが、少なくとも、私自身が自らを光り輝かせることはできるはずです。そのためには相当な努力が必要でしょうが、全力ではなく、真剣に日々を過ごすようにしています。
いつの日にか、日本共産党と国民が光り輝きますように。そして日本が、国際社会において、名誉ある地位を占められますように。