日本共産党資料館

現代修正主義者の戦争と平和の理論と、これに対する歴史の審判

(『アカハタ』1965年8月14日)


一、反帝平和勢力の団結の課題と現代修正主義との闘争

二、アメリカ帝国主義とケネディ、ジョンソンの評価について

三、部分核停条約とアメリカ帝国主義者の二面政策について

四、平和共存と民族解放闘争との関連について

五、現代修正主義の克服と反帝平和闘争の勝利のために


一、反帝平和勢力の団結の課題と現代修正主義との闘争

 1954年のジュネーブ協定をふみにじっておしすすめられているアメリカ帝国主義のベトナム侵略は、全世界人民の強い抗議と反対にもかかわらず、ますます凶暴化するばかりである。ことしの2月、ベトナム民主共和国にたいする不法な爆撃を開始したジョンソン政府は、その侵略政策をつぎつぎと拡大し、ハノイ、ハイフォン周辺や中国との国境付近まで爆撃を北上させ、南ベトナムの米軍を大増強して、侵略計画の新たないっそう凶悪な拡大にのりだした。ベトナム人民の英雄的な闘争によって抜きさしならない泥沼にはまりこみ、ベトナム侵略に反対する世界の人民の連帯した闘争によってますます孤立したアメリカ帝国主義は、いまその打開の道を侵略戦争のますます大規模な拡大に求めようとし、アジアと世界の平和にたいして重大な脅威をもたらしている。

 現在、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争に反対し、その戦争と侵略の政策に反対して諸民族の独立をかちとり、世界の平和を守ることは、全世界の平和、民主勢力のもっとも緊急な中心任務となっている。

 このような事態は、アメリカ帝国主義との闘争を回避し、アメリカ帝国主義への屈服と追従によって、米ソ間の「平和共存」を維持することが、世界平和を守る道だとしたフルシチョフらの現代修正主義の路線の破たんをだれの目にも明白にしたものであった。フルシチョフがほめたたえ、手を結んできたケネディとジョンソンによる、凶暴なベトナム侵略は、世界の人民の前に、フルシチョフ外交の裏切りとその本質を、もっとも鮮烈なかたちで実証したのである。そして、わか党をはじめとする真のマルクス・レーニン主義党が主張しつづけてきたように、アメリカ帝国主義をかしらとする帝国主義の戦争と侵略の政策に、断固として対決し、全世界の平和、民主勢力が団結してそれとたたかうことこそ、諸民族の独立と世界の平和をかちとるただ一つの道であることが、いっそう明らかとなった。いま世界の民主勢力は、フルシチョフを中心とする現代修正主義の路線の有害な影響を克服しながら、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する国際統一戦線をつくりあげ、強化するたたかいをますます力づよくおしすすめている。

 たとえば、ことしの6月2日から7日まで、世界の5大陸から参加した45ヵ国、52団体、129人の代表の参加のもとにハノイでひらかれた「アメリカ帝国主義侵略反対・ベトナム労働者人民支援国際労働組合委員会第2回会議」は、一部の代表による対米迫従路線のおしつけを排して、ベトナム人民の正義の闘争にたいする全世界の労働者の強い連帯を表明する決議を満場一致で採択した。また、ことしの7月10日から15日まで、世界平和評議会のよびかけでへルシシキでひらかれた「平和、民族独立、全般的軍縮のための世界大会」では、現代修正主義の国際的潮流と結びついた世界平和運動内部の誤った潮流の日和見主義と分裂主義の路線、対米追従の路線を排して、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対し、帝国主義の戦争と侵略の政策と断固としてたたかう路線に、世界の平和、民主勢力を結集する決議がかちとられた。この成果を、帝国主義の戦争と侵略の政策と正面から対決することを避けようとした3年前のモスクワでの「軍縮と平和のための世界大会」や、部分核停条約を支持、礼賛し、ケネディにたいする黙とうの提案までおこなわれた1年8ヵ月前の世界平和評議会ワルシャワ総会などと比べれば、世界の平和、民主勢力が、フルシチョフらの日和見主義、分裂主義の路線の有害な影響を克服する方向に大きく前進しつつあることは明瞭である。

 国際共産主義運動の団結の問題にかんしても、意見の相違を理由にして公然と国際共産主義運動の分裂をはかり、不団結を乱暴に拡大してきた現代修正主義者の分裂主義の路線は、全世界の共産主義者の戦闘的な団結をますます緊急のものとしているアメリカ帝国主義の侵略と戦争の政策の凶暴な展開のなかで、ますますその破産を明確にしつつある。

 わが党は、これまで、フルシチョフを先頭とするソ連共産党指導部からの公然とした攻撃と干渉にたいしては、毅然として反撃をおこない、現代修正主義の誤った理論や政策にたいしても、妥協することなく原則的な批判をくわえ、マルクス・レーニン主義の革命的、原則的な見地を守るたたかいを一貫しておしすすめるとともに、原則上の問題での論争が最終的に解決されない段階においても、アメリカ帝国主義をはじめとする国際反動勢力の侵略と戦争の政策の具体的なあらわれとたたかうために、国際共産主義運動の当面の行動の統一をかちとる必要があるということを、くりかえし主張してきた。

 「われわれは論争によって真理を追求しながら、帝国主義による社会主義陣営にたいする離間策や国際共産主義運動にたいする策謀を許さないように、各国人民の共同の敵とたたかうための行動の統一をかちとる努力をすべきだと考える。これこそ、マルクス・レーニン主義の原則とプロレタリア国際主義にもとづく真の団結へ向かって前進する現実的な道である」(1964年10月5日付『アカハタ』主張「各国共産党・労働者党の国際会議は、分裂のためでなく、団結に役だつようにおこなわれるべきである――日本共産党の提案」)

 わが党のこの提案にたいして、現代修正主義の国際的潮流は、最初はこれを公然と無視する態度をとり、「国際会議」の一方的な招集による公然化と固定化への道をつきすすんでいた。だが、今日では、アメリカ帝国主義の侵略に反対する行動の統一というわが党の道理のあるよびかけは、国際共産主義運動の内部でますます広範な支持をえつつあり、ソ連共産党指導部自身が、従来の態度を一転させて、帝国主義との闘争における各国共産党の「行動の統一」を一応強調せざるをえなくなっている。これはまさに、ソ連共産党指導部のフルシチョフ以来の分裂主義の路線の破たんを、みずから告白したものといわなければならない。

 こうした事態は、この数年来おこなわれてきたマルクス・レーニン主義の原則をめぐる国際的論争と国際的闘争――マルクス・レーニン主義の原則を日和見主義的につくりかえようとした現代修正主義と、その原則を擁護し、正しく発展させようとする、真のマルクス・レーニン主義との国際的論争と国際的闘争にとってきわめて重要な意義をもつものである。

 昨年10月、現代修正主義の国際的潮流のかくれもない指導者だったフルシチョフが失脚したことは、現代修正主義の路線の破たんを、劇的に証明したものであった。フルシチョフが傍若無人におしすすめた日和見主義、分裂主義、大国主義の路線は、ソ連共産党指導部の内外政策を重大なゆきづまりに直面させ、フルシチョフ自身の解任にみちびいた。それは、現代修正主義の国際的潮流にたいして、真のマルクス・レーニン主義党とマルクス・レーニン主義者がおこなってきた闘争のめざましい前進の反映でもあった。

 ことしの3月1日、フルシチョフの分裂主義的な計画をひきついで、新しいソ連共産党指導部が一方的に招集した「起草委員会」が、ひらくにひらけない事態となり、名前から内容まで変えた「相談会」とせざるをえなかったことは、現代修正主義の路線の破たんの、第二の明白な証明だった。この「相談会」自身もまた、分派的、分裂主義的会議以外のなにものでもなかったが、「国際会議」をひらいて「集団的措置」をとり、国際共産主義運動を決定的分裂にまでみちびこうとしたフルシチョフの計画は、完全に失敗した。これもまた、現代修正主義の国際的潮流にたいする、真のマルクス・レーニン主義党とマルクス・レーニン主義者の闘争がいっそう前進しつつあること、その勝利が不可避であることの、もう一つの証明であった。

 そして、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争に直面して、フルシチョフの対米追従と分裂主義の路線が破たんし、アメリカ帝国主義の侵略政策との闘争の方向での、国際共産主義運動、国際民主運動の団結の路線がその正しさを立証したことは、現代修正主義の国際的潮流に加えられた、新たな、いっそう重大な打撃となった。

 このような、現代修正主義の日和見主義、分裂主義、大国主義の路線の顕著な破たんの進行とともに、現代修正主義の国際的潮流の内部には、さまざまな対立と抗争が生まれ、新しいさけ目がひろがり、深刻な矛盾が激化しつつある。そして、それとは対照的に、真のマルクス・レーニン主義党とマルクス・レーニン主義者の確信はいっそう強くなり、その国際的威信はいっそう増大した。

 しかし、このことは、現代修正主義の国際的潮流がすでに克服され、これとの政治的、理論的な闘争がもはや不必要になったということを、意味するものではけっしてない。事態はむしろまったく逆のことを示している。現代修正主義の国際的潮流は、フルシチョフ失脚やアメリカ帝国主義のベトナム侵略などによって、その路線の破たんがいよいよ明白になったにもかかわらず、いなむしろそれゆえに、一方では、なしくずしに反帝闘争の強化や統一と団結の必要を強調しはじめながら、同時に他方では、依然としていっそう巧妙なかたちで日和見主義路線を追求し、新しい分裂主義的策謀をおこないはじめている。

 フルシチョフの誤った路線と理論の有害な影響は、こうした現代修正主義の国際的潮流の新しい策謀と結びついて、国際共産主義運動、国際民主運動の内部に依然として根深く残っており、これとの闘争を軽視することは許されない。

 たとえば、わが国においては、わが党の無署名論文「ソ連共産党指導部とその指導下にある機関や団体の、わが国の民主運動およびわが党にたいする干渉と破壊活動について」(『アカハタ』1965年6月22日)が明らかにしたように、ソ連共産党指導部の直接の支持と激励のもとに、志賀・神山一派の反党活動が公然と組織されており、原水爆禁止運動、日ソ親善運動などにたいしては、ソ連平和委員会、ソ日協会などによって、公然たる不当な干渉がおこなわれ、分裂策謀が依然としてつづけられている。ソ連平和委員会の幹部と密接な連絡をもつ一部の右翼社会民主主義者や反党修正主義者は、ことしもまた、第11回原水爆禁止世界大会に対抗して、別個の分裂集会を組織した。その組織的支柱の一つが、現代修正主義の国際的潮流にあり、その理論的支柱もまた、帝国主義との闘争を回避しようとする、戦争と平和の問題にかんするフルシチョフらの無原則的主張にあることは、周知の事実である。

 さらに、ベトナムをめぐるアメリカ帝国主義と世界の反帝平和、独立の勢力とのはげしい闘争のなかで、現代修正主義者のなかには、言葉のうえでは反帝闘争を強調しながら、実際には、ジョンソンの欺まん的な「無条件話しあい」の提案に呼応して、ベトナム問題を対米追従の「平和共存」路線の軌道にのせて解決しようとする試みをくりかえしおこない、実際にはアメリカ帝国主義の侵略政策を事実上援助する役割を果たそうとしているものがある。

 こうした行動は、明らかに、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争に反対する全世界人民の闘争の利益に反するものであり、現代修正主義者自身も主張せざるをえなくなっている国際共産主義運動および国際民主運動の行動の統一の方向とも、まっこうから対立すみものである。もし、統一と団結についての美しい言葉のかげで、実際には国際的不団結の拡大と固定化をはかる現代修正主義の国際的潮流のこれらの行動をそのままに放置するならば、それはかならず、国際共産主義運動・国際民主運動の団結を、たんに言葉だけのカラ文句におわらせてしまい、全世界人民の団結でアメリカ帝国主義の侵略と戦争の手をおさえるという緊急の任務を事実上放棄する結果をまねくだろう。

 このような事態のなかでは、わが党が、アメリカ帝国主義をかしらとする帝国主義の戦争と侵略に反対する闘争における国際共産主義運動、国際民主運動の行動の統一をかちとり、強化するために、ソ連共産党指導部の不当な干渉や破壊活動とたたかうだけでなく、フルシチョフらの日和見主義、分裂主義、大国主義の理論と路線の根深い影響を徹底的にとりのぞくためにたたかうことは当然のことであり、きわめて必要なことである。

 国際共産主義運動、国際民主運動における、現代修正主義の理論と路線の有害な影響をとりのぞくためには、ソ連共産党指導部が一方的に開始し、他の兄弟党におしつけた公開論争によって、全世界の共産主義者と全世界人民のまえに公然と提出され、公然と国際的に論争されてきた諸問題をも、徹底的に追求し、根本的に解決することが必要である。

 フルシチョフを中心とするソ連共産党指導部が、ソ連共産党第22回大会で、1957年の宣言と1960年の声明にさだめられた、兄弟党間の関係の基準をやぶって、アルバニア労働党にたいして一方的な攻撃をくわえ、公開論争を開始したとき、わが党をはじめ一連のマルクス・レーニン主義党はこれに反対し、公開論争はおこなうべきでないという正しい態度をとった。ところが、当時、ソ連共産党指導部はつぎのように強弁して、他党にたいする公然たる非難を弁護し、必要かつ正しいものであると主張した。

 「中国共産党代表団は、第22回党大会において、そして、その後、ブルガリア、ハンガリー、イタリアおよびチェコスロバキアの共産党・労働者党大会において、アルバニアの指導者の方針を公然と非難することは誤りであると主張した。そして意見の相違が生じた責任を兄弟諸党におわせようとした。しかしこのような主張をおこなうことは、反論の余地のない事実を無視し、事実上、マルクス・レーニン主義諸党の共通の路線に反対してたたかっている人びとの責任を解除することを意味している」(1963年1月7日付『プラウダ』主張「平和と社会主義の勝利のために共産主義運動の団結を強化しよう」、日本共産党中央委員会出版部発行『国際共産主義運動論争主要問題』1、145ページ)

 このようにして、ソ連共産党指導部は、アルバニア労働党からさらに中国共産党へと名ざしの公然たる攻撃を拡大し、国際共産主義運動に、その団結のための基準をふみにじった公開論争をおしつけ、激化させていったのである。

 わが党とソ連共産党指導部とのあいだの公開論争も、ソ連共産党指導部のわが党にたいする、一方的な不当な攻撃によってひき起こされたものであった。

 1963年8月25日付『プラウダ』で、ユーリ・ジューコフが論文「広島の声」を発表して、わが党を公然と名ざしで攻撃したとき、わが党は、ただちに公開の反論に訴えることなく、1960年の声明がさだめた兄弟党間の基準にしたがって、日ソ両党間の話し合いをつうじて問題を解決しようとした。わが党が、公然たる反論をおこなわざるをえなくなったのは、1964年5月、『プラウダ』、日本向けモスクワ放送、タス通信などが反党分子志賀義雄らを公然と支持してわが党を攻撃し、さらに同年7月、ソ連共産党指導部がわが党を非難した長文の書簡を一方的に公表する措置をとったからであった。

 これらすべての経過は、ソ連共産党指導部が現在熱心にその中止を主張している、国際共産主義運動における公開論争が、ひとえにソ連共産党指導部が、1957年の宣言と1960年の声明にさだめられた兄弟党間の関係の基準をやぶってみずからひき起こしたものであり、ソ連共産党指導部とその追従者たちに責任があることを示している。

 だが、問題は、兄弟党の批判にはまったく耳をかさずに、自分に都合のよいときには公開論争を勝手にひき起こしておいて度はずれに熱中し、自分の都合が悪くなってくると手の裏を返したように無条件の公開論争中止をいうという、ソ連共産党指導部の態度の無責任さにあるだけではない。いっそう重要なことは、ソ連共産党指導部の主張するように、今日の事態のもとで、この数年間おこなわれてきた国際論争を無条件にうち切ることは、現代修正主義の日和見主義、分裂主義、大国主義の路線が、国際共産主義運動だけでなく、世界の平和、民主勢力の闘争に現実におよぼしている有害な影響を放置することとなることである。この有害な影響をとりのぞき、国際共産主義運動、国際民主運動の団結をかちとるためには、フルシチョフらが開始した国際論争のなかで提起された問題を、疑問の余地のないところまで徹底的に研究し、必要な論争をおこない、真理を明らかにし、マルクス・レーニン主義にもとづいて、完全に、根本的に解決することが必要である。このことなしには、マルクス・レーニン主義にもとづく国際共産主義運動の真の団結とマルクス・レーニン主義の真の発展をかちとることはできない。

 わが党が主張してきたように、国際共産主義運動の現状のもとでは、論争によって真理を追求することと、帝国主義とたたかう当面の行動の統一と団結の強化とを、正しく結びつけ、公開であると非公開であるとを問わず、団結しながら論争し、論争しながら団結する道をつうじて、国際共産主義運動の真の団結と、マルクス・レーニン主義の発展をかちとることが、もっとも正しい態度である。

 そして、現代修正主義のきわめて根深く広範な有害な影響を克服するうえで、現在とくに重要な意義をもっているのは、この数年間の国際論争の基本的な論争点を、マルクス・レーニン主義の原則にてらし、国際情勢の歴史的発展と世界人民の闘争の現実にてらして、あらためて厳密に検証し、正しく総括することである。

 「人間および人類の実践は、認識の客観性の検証でおり、その基準である」(レーニン「哲学ノート」、全集38巻、180ページ)

 マルクス・レーニン主義の見地からいって、フルシチョフの側の主張が正しかったのか、それともフルシチョフを批判した側の主張が正しかったのか、それを人類の実践、なによりもまず、国際帝国主義と各国反動勢力にたいする革命勢力と平和、民主勢力の闘争という世界的実践のなかで、一つひとつ労をいとわずに検証することが必要である。わが党がここに発表する論文は、そのための努力の一つである。

二、アメリカ帝国主義とケネディ、ジョンソンの評価について

 われわれは、フルシチョフを中心とする現代修正主義者、およびそれに追随するわが国の反党・売党修正主義者がもちだした諸命題にたいして下された歴史の審判を、ここでは、まず国際論争のもっとも中心的な問題の一つであった戦争と平和の問題について追求しようと思う。というのは、この問題こそフルシチョフらに代表される現代修正主義の体系にとって、一つのかなめ石としての位置をしめるものであり、かつまた「キューバ危機」から部分核停条約締結をへて、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の拡大にいたる経過は、この問題について結着をつけることを緊急の任務としており、同時に現代における戦争と平和の問題の諸側面を基本的に明らかにしうる豊富な材料を提供しているからである。

 フルシチョフら現代修正主義者が、マルクス・レーニン主義の戦争と平和の理論を修正したさいの基礎によこたわっていた思想は、第2次大戦後のいわゆる「国際情勢の根本的変化」なるものが、マルクス・レーニン主義の戦争と平和の理論を、時代おくれのものとするにいたったという修正主義的独断であった。たとえばフルシチョフはこういっている。

 「帝国主義についてのレーニンの命題は、なお有効であり、われわれの理論と実践においていまも導きの星である。だが帝国主義についてのレーニンの諸命題は数十年まえ、いま歴史の発展と国際情勢全体にとって決定的になっている多くのものを世界がまだ知らなかったときに生みだされ、発展させられたものだということを忘れてはならない。帝国主義にかんするレーニンの命題のいくつかは、ソ連がまだ生まれておらず、他の社会主義国も存在しなかった時期のものである」(1960年6月「ルーマニア労働者党第3回大会での演説」、『世界政治資料』101号)

 フルシチョフは、このようないいかたで、実際には帝国主義と帝国主義戦争にかんするレーニンの原則的な諸命題を廃棄して、それにかわる数多くの修正主義的命題を「創造」し、国際共産主義運動におしつけた。わが国の反党修正主義者は、それをまた、うむことなくオウム返しにくりかえした。わが党はこれまでに、ソ連共産党指導部が国際共産主義運動とわが党におしつけた国際論争のなかで、「ケネディとアメリカ帝国主義」、「原水禁運動と分裂主義者の理論と実践」、「ソ連共産党中央委員会の書簡(1964年4月18日付)にたいする日本共産党中央委員会の返書」、「フルシチョフの『平和共存』路線の本質について」、「テ・チモフェーエフとアメリカ帝国主義」などの書簡や論文を発表して、これらの修正主義的諸命題にたいして、マルクス・レーニン主義と国際情勢の現実にもとづき、くわしくその誤りを批判し、正しいマルクス・レーニン主義的命題を対置してきた。われわれは、そのなかで、今日の事態のなかで特別に重要な意義をもついくつかの問題を選びだして、フルシチョフらの現代修正主義にたいし、歴史が下したきびしい審判を明らかにしなければならない。

 その第一の問題は、アメリカ帝国主義の侵略性にたいする評価、なかんずくその政治的指導部としてのケネディ、ジョンソンらの政府の対外政策にたいする評価である。

 この数年来、国際共産主義運動だけでなく、国際民主運動の分野でも、アメリカ帝国主義にたいする評価、ケネディやジョンソンらの政府の対外政策にたいする評価がつねに問題になってきたことは、指摘するまでもない。フルシチョフとそれに追随する現代修正主義者たちが、アメリカ帝国主義との闘争という課題を回避させようとして、さまざまな画策をおこなってきたことも、よく知られているとおりである。

 そのさい、フルシチョフら現代修正主義者は、ソ連がアメリカを壊滅させることのできる核兵器を所有している今日の条件のもとでは、アメリカ帝国主義の主流は、(1)侵略政策を放棄することを余儀なくされて平和共存を受けいれるにいたっており、(2)核戦争にみちびくおそれのあるすべての戦争を回避しようとし、とくに人類絶滅をもたらす核ミサイル戦争だけは真剣に避けようとしていると主張してきた。かれらの「アメリカ帝国主義の両翼分化論」によれば、ケネディ政府やジョンソン政府は、ゴールドウォーターら「狂人ども」とちがって、こうした世界の力関係の変化を現実的に評価するにいたった「理性派」だというのである。

 フルシチョフがケネディをほめたたえた数多くの言葉は、すでに広く知られており、あらためて引用する必要はない。ここでは、かれが、ケネディ死後、ひきつづいてジョンソン、ラスクまでほめたたえた一例だけをあげておけば足りる。

 「物事について素朴な見方をしてはいけない。われわれは賢く、われわれの敵はすべて愚かだと考えてはならない。力関係が平和と社会主義に有利にかわったことから生じた発展に目をふさいではならない。
 この点については昨年末、ディーン・ラスク・アメリヵ国務長官のおこなった声明をとりあげることができる。わたしは、リンドン・ジョンソン・アメリカ大統領もこのような立場を堅持していると確認する」(「ハンガリーのポルソド化学工場での演説」タス通信日本語版1964年4月8日)

 この確認にもとづいて、フルシチョフらは、本気で、アメリカ帝国主義は侵略政策を捨て去ったと思いこみ、すでにアメリカ帝国主義は「力の政策」を捨て、「平和共存をうけいれている」とまで主張した。ソ連共産党中央委員会がわが党中央委員会にあてた1964年4月18日付書簡には、実につぎのようなおどろくべき文章があった。

 「しかし、いまでは情勢は根本的に変化しました。ソ連国民のなみなみならぬ努力の結果、世界でもっとも恐るべき核兵器がつくられました。帝国主義者は『力の立場』にたつ政策を実施する物質的基盤を失ってしまいました
 「われわれの階級敵の陣営内では、もし帝国主義の気ちがいどもが世界戦争をはじめるならば、資本主義は一掃され、ほうむり去られるという真理を、ますますはっきりと理解するようになっています。まさに、このために、帝国主義者は諸国家の平和共存をうけいれることをよぎなくされているのです」(ゴシックは引用者)

 フルシチョフを解任したソ連共産党の新しい指導部も、フルシチョフのこの評価をそのままにひきついだ。そのことは、新指導部が、1964年11月のアメリカ大統領選挙にあたって、「アメリカ帝国主義のもっとも侵略的な層」の代表であるゴールドウォーターをうちまかすためと称して、ジョンソンの勝利を公然と支持した事実のなかに、反論の余地なくくっきりとあらわれていた。たとえば11月4日、ソ連政府機関紙「イズベスチャ」は、大統領選挙の結果について、つぎのような論評を掲載した。

 「リンドン・ジョンソンは、今後4年間ホワイトハウスの主人公となることになった。かれの大統領としての努力が、かれの選挙演説で大綱を示した綱領に合致するなら、アメリカが世界政治情勢のいっそうの改善、他国との正常で互恵の関係の発展、未解決の国際問題解決へ具体的に前進するだろうと期待する理由がある。このアメリカの政策は、世界平和強化のため協力する用意のあるソ連の立場とはっきり合致するだろう」(タス通信日本語版による)

 ソ連共産党の新指導部は、ジョンソンの選挙綱領がソ連の立場と「はっきり合致する」ことを認めてやることによって、世界の共産主義者とたたかう人民に、ソ連の「平和共存」政策を支持するのと同じように、ジョンソンの「平和共存」政策を支持するようよびかけたわけである。

 われわれはこれまで、「ケネディ政策の美化は不可避的に」「世界反動の主柱」としての「アメリカ帝国主義を美化することとならざるをえない」(「ケネディとアメリカ帝国主義」『日本共産党重要論文集』1・下、191ページ)こと、アメリカ帝国主義が平和共存をうけいれているという評価は、「帝国主義が戦争と侵略の政策を遂行している現状を、『平和共存』だといいくるめてそれを認めること」(前掲「返書」、『日本共産党重要論文集』1・上、104ページ)にほかならないこと、ケネディの「平和」政策とはただ、戦争と侵略の政策をおしすすめ、核戦争政策を強化する手段にすぎないこと、ケネディとゴールドウォーターとのちがいは、アメリカ帝国主義の同じ侵略と反動の基本政策を実行するうえで、「平和」や「進歩」の仮面で人民を欺まんする二面政策をとるか、いっそうむきだしの戦争と反動の政策をとるかという、戦術上の相対的なちがいにすぎないことなどをマルクス・レーニン主義の理論と、具体的現実にてらして、くわしく解明し、きびしく批判してきた。

 フルシチョフらはもちろんのこと、そのしっぽにくっついた内外の修正主義者が、わが党のこれらのマルクス・レーニン主義的批判にたいして、たとえば『コムニスト』誌1964年12月号に掲載されたテ・チモフェーエフの論文「帝国主義にたいする実際の闘争といつわりの闘争」や、神山茂夫,「レーニンの名によるレーニンの歪曲」がおこなったように、まったく批判にたえない奇弁をろうし、ケネディやジョンソンの美化をなんとか合理化しようとしてきたことは、あらためてのべるまでもない。わが党は、「ケネディとアメリカ帝国主義」にたいするチモフェーエフの反論にたいしては、評論員論文「テ・チモフェーエフとアメリカ帝国主義」を発表して徹底的な批判を加えたが、この問題については、完全に終止符を打つべきときがとっくに来ていることは明らかである。なぜなら、ケネディやジョンソンが、フルシチョフらが「保証」してやったように、「力の立場」を捨てて「平和共存」の力向に一歩でも歩みだした政治家ではまったくなかったこと、アメリカ帝国主義の侵略性は、ほんの少しでも弱まる方向に変化するどころか、むしろ実際にはますます露骨になっていったことは、ケネディとジョンソンのベトナム侵略の拡大の経過が、すでに十分すぎるほどの答えをあたえているからである。

 事実をみてみよう。

 ケネディのベトナム政策は、まさにあの悪名高いダレスのベトナム政策を直接にひきつぎ、しかもダレスさえあえておこなうことのできなかった大規模な軍事侵略を強行したものであった。

 「アイゼンハワー回顧録」によれば、アイゼンハワーとダレスは、1954年4月、ディエンビエンフーの陥落の直前、ジュネーブ会議をおしつぶすために、米・英・仏など連合軍による大規模な軍事介入を画策したが、けっきょく、この画策は不成功に終わった。その失敗の結果、ダレスは、ジュネーブ協定の調印を拒否し、ゴ・ジンジェムかいらい政権をつくってジュネーブ協定をふみにじり、南ベトナムにたいする公然たる侵略の第一歩をふみだしたのである。

 このダレスのベトナム侵略政策をその失敗の敬訓までふくめてそのままひきついだものこそ、フルシチョフのいう「理性派」ケネディだった。かれは、大統領就任と同時に、ジョンソン副大統領、ステーリー教授らの経済、軍事調査団、テーラー大統領軍事顧問らをつぎつぎと南ベトナムに派遣し、南ベトナム解放民族戦線を18ヵ月で鎮圧するという「ステーリー・テーラー計画」をつくらせ、米軍事顧問団による本格的軍事侵略に着手した。それまで数百人にすぎなかった米軍事顧問団は、対ゲリラ戦用特殊部隊、ヘリコプター部隊を中心に、ケネディ時代に一挙に1万5000人まで増員された。こうしてケネディは、南ベトナムを、「ベトナムからベルリンに至る自由の国境線」(1963年1月一般教書)の最前線とみなし、「中国封じこめ政策」とアジア侵略政策のもっとも重要な拠点の一つとし、残虐な化学兵器の使用をはじめ、国際法をもじゅうりんしたあらゆる手段を動員して、南ベトナム人民にたいする凶暴なみな殺し戦争を開始したのである。ジョンソンがこのケネディ政策をうけつぎ、ケネディが登用したラスク、マクナマラ、テーラー、バンディらをそのままひきついで、「北爆」と毒ガス使用、原子砲もちこみ、米軍兵力の大増強、「韓国」軍その他をひきこんでの侵略戦争の国際化と、いっそう凶暴にベトナム侵略政策を拡大してきたことについて、注釈は不必要であろう。

 アメリカ帝国主義の南ベトナム侵略についての、だれも否定することのできない以上のような経過は、なにを意味するか。

 第一に、ケネディやジョンソンは、ソ連との一定の「緊張緩和」政策をとりながらも、けっして社会制度の異なる諸国との平和共存をうけいれたわけではなく、実際に「平和」の仮面にかくれて、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの民族解放闘争や社会主義諸国にたいする、戦争と侵略の政策をいままで以上にはげしく追求してきた。ベトナム、ラオス、中国、朝鮮、インドネシア、コンゴ、キューバ、ドミニカなどアジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域の民族解放運動と社会主義国家にたいするその侵略政策と戦争挑発は、ケネディ、ジョンソンらとゴールドウォーターらとの本質的な「対立」や、アメリカ帝国主義の「平和共存」政策なるものにかんする、フルシチョフらのおしゃべりの無意味さを、これ以上は不可能なほど完全に暴露している。このことについては、もはやまったく論争の余地はない。

 第二に、ケネディやジョンソンらは、核戦争にみちびくおそれのあるすべての戦争を回避しようとするどころか、最大限の核脅迫をおこないながら、「特殊戦争」(対ゲリラ戦)や「通常戦争」(通常兵器による戦争)をなにはばかることなくおしすすめてきた。

 ソ連の核保有と防衛的核軍備の強化は、当初アメリカ帝国主義の核独占を弱め、かれらの核戦争準備政策に打撃を与えはしたが、フルシチョフが幻想をいだいたように、けっしてアメリカ帝国主義者に核戦争政策をも、戦争と侵略の政策一般をも放棄させるものではなかった。それは、アメリカ帝国主義者をして第一に、核兵力のいっそうの拡張に熱中させ、第二に、当面ソ連との全面戦争を回避して、「米ソ協調」の名のもとにソ連社会主義を変質させる戦術をとりながら、アジアを中心とする侵略政策を強化させ、第三に「通常兵器」と「通常戦争」の意義をあらためて見なおさせ、その結果、かれらの戦争計画全体のなかで、核脅迫政策と緊密に結びつけきた「通常戦争」と「特殊戦争」による侵略政策の比重をたかめさせることとなった。「米ソ共存」の欺まんのもとで、本格的にすすめられたベトナムにおけるテーラーの「特殊戦争」と、それがいま大規模な「通常戦争」へと拡大されつつあるという実例が、そのことを証明している。しかも、ベトナムの事態は、アメリカ帝国主義が、「通常戦争」や「特殊戦争」だけでなく、核戦争をも準備していることを明らかにした。

 マクナマラ国防長官は、1965年3月2日、米下院歳出分科委員会で、「米国の利益のために必要とあれば米国が核兵器を使用することにはなんの制限もない」と証言した。「もしこの点にかんして誤解があれば、それを一掃する必要がある」そうである。マクナマラがあまりにひろがりすぎたことを心配している「誤解」、すなわちアメリカ帝国主義も核兵器は使用しないだろうという幻想をひろめた最大の責任者の1人に、フルシチョフがはいっていることは恥すべきことである。

 アメリカ帝国主義は、ポラリス原子力潜水艦、核武装した第7艦隊、F105D、B52などの核攻撃機などの大量の核戦力を南ベトナムとその周辺に配置し、さらに4月にはダナンに原子砲をもちこみ、戦術核兵器による核攻撃の具体的な準備をととのえている。かれらは、現在、核兵器の使用をふくむ対中国侵略戦争を公然と日程にのぼせはじめている。それを、実際の危険をともなわない、たんなる「おどし」だといってすますことはできない。核脅迫とは、マクナマラをはじめとしてアメリカ帝国主義者がたびたび誓っているように、実際の核兵器使用の現実的可能性と使用の決意を前提として、はじめてなりたつ侵略の手段なのである。

 こうして、1960年の声明が的確に規定したように、「アメリカ帝国主義こそ、世界反動の主柱であり、国際的憲兵であり、全世界の人民の敵」でおり、「侵略と戦争の主勢力」であるということは、全世界の人民のまえに、いよいよ明らかになった。バートランド・ラッセル卿でさえ、ヘルシンキ平和大会への声明のなかで、つぎのようにのべているほどである。

 「最近のさまざまな事件や合衆国の現在の政策は、世界平和にたいする脅威がアメリカ帝国主義にあることを、うたがう余地のないほど明瞭に示している。事情をくわしくつかんで国際政局の舞台を公正に観察するものは、そのような結論に到達するにちがいない」

 すべての事態は、フルシチョフを中心とするソ連共産党指導部が、これこそマルクス・レーニン主義の「創造的発展」だと称して、あれほど声高に叫びまわってきたケネディ、ジョンソン美化論が、アメリカ帝国主義の侵略性を本質的に否定し、世界の人民を武装解除させる最悪の修正主義理論であったこと、そしてフルシチョフらが、「熱核戦争をのぞむもの」、「帝国主義者内部の矛盾とその利用を理解しないネオ・トロツキスト」「モスクワ宣言とモスクワ声明の路線を逸脱するもの」だなどといって告発してきた真のマルクス・レーニン主義者の立場こそ、アメリカ帝国主義者の本質と実態をもっとも現実的に評価し、世界人民の闘争の方向をもっとも正しく指し示したものであったことを、決定的、全面的に証明した。

 フルシチョフらの理論の裏切り的役割を理解するには、つぎの問いを出すだけで十分であろう。それは、もしもフルシチョフがのぞんだように、かれらのアメリカ帝国主義美化論を国際共産主義運動全体がうけいれていたならば、事態はどうなっていただろうかという問いである。もしもそうなっていたなら、国際共産主義運動全体が、政治的、思想的に武装解除され、おそるべき無準備のままアメリカ帝国主義のベトナム侵略の凶暴化に直面して、重大な困難に出あっていたことであろう。アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争にたいするベトナム人民の闘争も、重大な危険にさらされていたことであろう。国際共産主義運動が、このような事態におちいることをふせぐことができたものは、現代修正主義にたいする真のマルクス・レーニン主義党の闘争であった。フルシチョフらのアメリカ帝国主義の両翼分化論、アメリカ帝国主義美化論にたいする、マルクス・レーニン主義党の批判の正しさが証明されたこと、またその批判が、アメリカ帝国主義にたいする世界人民の闘争を正しく強化発展させるために重要な役割をはたしたことは、今日、万人の目の前に完全に明らかになっている。

三、部分核停条約とアメリカ帝国主義者の二面政策について

 すでに歴史の審判がくだされた第二の問題は、1963年8月5日に調印された米・英・ソ3国の部分核停条約にたいする評価である。

 フルシチョフを中心とする現代修正主義者は、部分核停条約はたんに放射能汚染から人類を救うだけでなく、(1)米ソ2大国間の信頼を強めて国際緊張の全般的緩和をうながし、(2)アメリカ帝国主義の核戦争政策の手をしばり、(3)核兵器の「拡散」を防止し、(4)核兵器の全面禁止へ向かう第一歩であると評価した。

 当時、フルシチョフをはじめ、ソ連政府、ソ連共産党指導部が、アメリカ帝国主義と口をそろえてこの条約にあたえた無上の賛辞は、かれらに追随して日本共産党を裏切った志賀義雄らの言動とともに、いまなおわれわれの耳にまざまざと残っている。

 かれらは、部分核停条約をほめたたえただけでなく、これを国際共産主義運動と国際民主運動に強引におしつけ、分裂の武器として利用した。ソ連共産党指導部は、この条約締結が、それまで国際共産主義運動と国際民主運動が一致してたたかってきた、核兵器と核実験の全面禁止の基本方向を裏切るものであったにもかかわらず、また、少なからぬ社会主義国と兄弟党から、するどい批判をあびたにもかかわらず、条約支持を一方的に国産共産主義運動と国際民主運動におしつけ、その団結を破壊する分裂策動をおしすすめた。

 日ソ両党間の関係を悪化させた大きな原因もまた、ソ連共産党指導部が、わが党とわが国の民主運動にこの条約の支持を手段を選ばずにおしつけようとしたことにあった。ユーリ・ジューコフのわが党にたいする公然たる攻撃も、第9回原水禁世界大会にたいするこの条約のおしつけの失敗に関連していたし、日ソ協会の分裂策動も、ソ日協会によるこの条約支持のおしつけに端を発していた。ソ連共産党指導都との連絡のもとに反党活動を開始した志賀義雄、神山茂夫らの裏切りも、まさにこの条約支持を名目としておこなわれた。部分核停条約支持のおしつけにかんする、こうした異常なほどの「熱意」は、あたかもフルシチョフとソ連共産党指導部が、その無原則的な「平和共存」政策――対米追従政策の運命を、この条約にかけていたかのように思わせるほどであった。

 わが党が部分核停条約を支持しなかった理由は、1963年10月の第7回中央委員会総会決議、1964年11月の第9回党大会の中央委員会報告をはじめ、この条約を分析批判したわが党の多くの文書が明確にのべている。それは、たとえこの条約が、米英ソ3国の大気圏核実験がもたらす放射能汚染を一時的に減少させうるとしても、フルシチョフの主張とはまったく反対に、部分核淳条約は、(1)アメリカ帝国主義の「二面政策」を美化する欺まんの道具となり、その「中国封じ込め政第」を中心にしたアジア侵略政策、民族解放運動と社会主義国にたいする各個撃破政策を激励する対米追従路線を強めるものであること、(2)内容はアメリカ帝国主義の年来の要求どおりであって、わが党と日本人民の要求に合致せず、アメリカ帝国主義の地下核実験を合法化し、核兵器の開発・製造・貯蔵・使用を禁止せず、必要があれば3ヵ月前の予告で簡単に脱退できるものであって、核戦争政策をなんら制限するものではないこと、(3)「核拡散防止」をかかげてアメリカ帝国主義などの核独占の永久化と、中国などソ連以外の社会主義国の防衛力強化を妨げようとするものであること、(4)これまで堅持されてきた核兵器と核実験の全面禁止の方針を一方的に裏切り、一方的に方向転換したものであって、国際共産主義運動、国際民主運動の不団結を強め、分裂主義の道具となっていること、などの点にあった。

 部分核停条約を、「国際緊張の全般的な緩和をうながす」もの、「平和共存政策の成果」などと評価したソ連共産党指導部の評価が正しかったか、それともアメリカ帝国主義の二面政策の道具であり、それにたいするソ連共産党指導部の無原則的妥協の産物であるとみたわが党その他の評価が正しかったか、この問題についても、その後の歴史はすでに完全な解答をあたえ終わっている。

 その歴史の審判をもっとも端的に示したものは、1964年8月はじめの「トンキン」湾事件であった。

 アメリヵ国防総省が第1次「トンキン」湾事件を発表した翌日の8月3日、フルシチョフは部分核停条約1周年を記念して、プラウダとイズベスチヤの記者にたいし、アメリカとソ連の「信頼感のつみかさね」と「相互模範」を示しあうことについて得々と語ったが、アメリカ帝国主義は、フルシチョフのこの「信頼」にこたえるに、8月5日、ベトナム民主共和国にたいする最初の大規模な爆撃をもってした。ジョンソンは、まさにフルシチョフの対米追従路線を「信頼」しきって、アメリカ政府の侵略行動にたいするソ連政府の強硬な反対を心配することなしに安心してこの暴挙に出たのである。そして実際に、フルシチョフがジョンソンのこの「信頼」に十分にこたえたことは、アメリカが「トンキン」湾事件を国連安保理事会にもちこもうとしたさい、ソ連代表がこれに協力した事実が示すところである。

 部分核停条約が結ばれ、米・英・ソ3国が大気圏内外および水中の核実験中止を宣言し、米ソ直通「ホットライン」が敷設され、宇宙開発のための米ソ協力が呼びかけられ、核分裂物質の生産が若干縮小される等々、いわゆる「米ソ間の緊張緩和」措置と「相互模範」の政策なるものが、鳴りものいりでつぎつぎと実行されていったあいだは、部分核停条約があたかも「国際緊張の全般的緩和」への出発点であるかのように、欺まん的にみせかけることもあるいはできたかも知れない。しかし、そのみせかけの多少の効果もせいぜいわずかに1年間の寿命にすぎなかった。いったい今日、いくらかでも自信をもって部分核停条約を礼賛する声をどこできくことができるだろうか。志賀・神山らは今日なお、部分核停条約をたたえつづけているが、それはかれらのみじめさをきわ立たせているだけである。アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争という現実は、部分核停条約を飾り立てていたいっさいのベールをはぎとり、その礼賛論を、まさに一場の夢に終わらせてしまったのである。

 フルシチョフが去り、部分核停条約礼賛論が力を失っても、部分核停条約そのものは残り、アメリカ帝国主義の二面政策も残り、フルシチョフの対米追従路線もまだ残っている。だが、部分核停条約締結後のこの2年間は、わが党その他があたえた評価の正確さを、事実にもとづいて立証してみせた2年間となった。

 第一に、部分核停条約は、けっしてフルシチョフが主張していたように、米ソ協調を軸とした国際緊張の全般的緩和をきりひらきはせず、わが党が主張したように、逆にこの期間の国際情勢の主要な基調は、アメリカ帝国主義の二面政策を軸とした、帝国主義勢力と反帝平和勢力との闘争の激化にあり、なかんずくアジア、アフリカ、ラテンアメリカの地域にたいする、アメリカ帝国主義をかしらとする帝国主義の戦争と侵略の政策の強化と、それに反対するこの地域の人民の闘争の前進と先鋭化にあることが明らかになった。

 わが党の7中総決議は、すでに1年半以上も前に、アメリカ帝国主義の「二面政策」について、つぎのようにのべていた。

 「最近の国際情勢のいちじるしい特徴は、このような情勢のなかで、帝国主義陣営の首領であるアメリカ帝国主義が、国際共産主義運動や国際民主運動の不団結につけこみ、これを利用しながら、各国人民を『平和』や『自由』の仮面で欺まんし、いっそう狡猾に侵略戦争と反動の政策を追求していることである」
 「とくに最近では、国際共産主義運動内部の不団結につけこみ、一方ではソ連などとの一定の『やわらぎ』に一応応ずる態度をとりながら、『中国封じこめ政策』を中心として、各個撃破的にアジア、ラテンアメリカなどの民族解放運動の圧殺や中国、朝鮮、ベトナムなどアジアの社会主義国への侵略戦争の陰謀と結合して、南ベトナム、中印国境、朝鮮38度線、キューバなどで緊張を強めている」

 1964年4月18日付の書簡で、ソ連共産党指導部は、このわが党の7中総決議を、1960年声明に規定された、周知の現代の特徴づけにそむくものであり」、「社会主義体制の役割は申しわけにふれてある」にすぎないものであり、「世界と世界革命の運命があたかもアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国人民の民族解放闘争によってきめられているかのようにいう」ものであるとして悪罵を加えた。

 だが、部分核停条約締結以来2年たった今日では、ソ連共産党指導部が悪罵を加えたわが党の7中総決議の分折が、真のマルクス・レーニン主義の立場から現象の底にある事態の本質をつかみ出し、その本質から国際情勢をつらぬく基本的な発展方向にするどい予見をあたえた、きわめて正確なものであったことを、だれも否定することはできないであろう。

 わが国の反党修正主義者たちは、フルシチョフとともに、アメリカ帝国主義の「平和」と「自由」の仮面にたぶらかされ、部分核停条約の締結によって世界全体は大局的に平和共存に向かっており、ただ帝国主義者の「狂人ども」と国際共産主義運動内部の「教条主義者」だけがこの大勢に抵抗しており、アジアその他での緊張は、そのためにひき起こされた「冷戦のふきだまり」にすぎないと事態を描き出した。しかし、内外の現代修正主義者の国際情勢のこのような評価こそ、実はこっけいなほど的はずれの世界像であった。アメリカ帝国主義の「中国封じこめ政策」を中心としたアジア侵略政策と各個撃破政策は、「平和共存」に向かっているアメリカ帝国主義の対外政策全体のなかで異質のものとなった冷戦政策の残りかすではなく、その対外政策の主要な骨格をかたちづくるものであった。そのことは、今日、アメリカ帝国主義が、「平和」や「自由」の仮面をきずつけ、せっかくの「米ソ協調」をいくらか犠牲にする危険さえ招きながらも、ベトナム侵略と「中国封じ込め」とを、その対外政策の最大の重点としておしすすめている事実が、雄弁に実証している。アジアを中心とした緊張激化は、「平和共存」に向かう世界の大勢に逆行する異質の例外的部分であったのではなく、現在の国際情勢全体の特徴を反映する、きわめて重要な本質的な局面であった。そのことは、アメリカ帝国主義のベトナム侵略が、帝国主義と反帝勢力の国際的闘争の焦点となり、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する各国人民の闘争が、全世界にひろがっている事実が雄弁に実証している。アメリカ帝国主義のアジア、アフリカ、ラテンアメリカにたいする、とくにアジアにたいする侵略政策は、実は世界人民の共同の事業にたいするその攻撃の最重点である。そして重要なことは、アメリカ帝国主義の「米ソ協調」政策とアジア侵略政策が、実は対立する異質のものではなく、アメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策の二つの側面であり、「米ソ間の一定のやわらぎ」とアジアを中心とした緊張激化も、アメリカ帝国主義のこの二面政策ときりはなすことができないものであったことである。

 ベトナムの事態は、現代修正主義者がたからかに宣言した「部分核停条約による緊張緩和」という方向づけがまったくのおとぎ話にすぎず、実際には、国際情勢はさまざまな緩急や起伏をふくみながらも、アメリカ帝国主義の二面政策を軸として、基本約にはひきつづき緊張を強め、矛盾を激化させ、帝国主義と反帝勢力とのはげしい闘争を発展させつづけていることを、十二分に明らかにしたのである。

 そして、部分核停条約締結後2年間のこのような国際情勢の発展は、この条約を出発点とした「米ソ間の一定のやわらぎ」がはたした役割の危険な正体をも完全に暴露した。「パックス・ルッソ・アメリカーナ」(米ソによる平和)という言葉は、ブルジョア・ジャーナリズムにおいてさえ、いまや嘲笑の対象となりはてている。すでに指嫡したように、アメン力帝国主義の「中国封じこめ政策」とアジア侵略政策が、国際共産主義運動の不団結、とくに中ソ間の対立につけこみ、フルシチョフの対米追従と民族解放闘争抑制の政策を利用してすすめられてきたし、いまもなおすすめられていることは、もはや天下周知の事実である。ソ連共産党指導部は、アメリカ政府が「平和共存」政策をとっている以上、ゴールドウォーターとならんで、西ドイツの復しゅう主義者こそもっとも危険な平和の敵であり、ドイツ・ベルリン問題こそ世界戦争の発火点となりうるもっとも危険な問題だと主張して、アメリカ帝国主義者のアジア侵略政策との対決を回避し、長いあいだそのベトナム侵略を傍観して、事実上不介入政策をとってきた。こうして、フルシチョフは、ケネディの公然たる南ベトナム侵略にたいして、ジュネーブ協定をふみにじった1万5000名の米軍派兵にたいして、1回も真剣な抗議をおこなわなかった。部分核停条約締結にあらわれたフルシチョフの対米追従政策は、一方では、アメリカ帝国主義の、社会主義体制にたいする攻撃の新しい形態としての、ソ連・東欧の「変質」政策に呼応して、社会主義体制そのものをも危険にさらし、他方では、アメリカ帝国主義をしてアジア侵略政策のより自由な展開に専心させる新しい条件をあたえたものであった。わが党の評論員論文「ケネディとアメリカ帝国主義」が指摘したように、「63年夏以来、アメリカ帝国主義の手によって急速度で進められてきた米ソ間の一定の『緊張緩和政策』措置は、いかなる意味でも真の緊張緩和を意味せず、本質的には新しい緊張激化の一つの構成要素に転化しており、アメリカ帝国主義の危険きわまりない新しい陰謀と結びついて」いたのである。

 歴史はすでにフルシチョフの対米追従路線にたいし(その役割はアメリカ帝国主義の二面政策を美化し、強化し、促進しただけだったというきびしい判決を下している。だれか、この判決に抗弁できるものがいるだろうか。

 第二に、部分核停条約は、フルシチョフらの保証に反して、アメリカ帝国主義の核戦争政策をいかなる意味でもしばることができず、わが党が主張したとおり、ただその核戦争政策の強化を、おおいかくしただけであった。アメリカ帝国主義は、部分核停条約のもとで、すでに公表された分だけで50回に及ぶ大規模な地下核実験を続行し、ミニットマンミサイルの配備を完了し、ポラリス原子力潜水艦を大西洋、太平洋などへ配置して戦略パトロールを開始し、アメリカが引き金をにぎってさえいれば、「核拡散」とはいえないとして、西ドイツ、日本、カナダなどの核武装計画をすすめ、全世界的な核脅迫と核戦争準備の態勢をいっそう強化した。ジョンソンは1965年の一般教書でつぎのように誇っている。

 「この4年間に、われわれはいかなる脅威にも対処し、いかなる敵をも破壊するにたる強力な軍事力をきずき上げた。私が大統領で、諸君が議員であるかぎり、この卓越した軍事力はさらに増強されつづけるであろう」

 そして、ジョンソンが、この言葉につづいて、「この期間、われわれの部分核停条約もふくめ、冷戦の開始以来のいかなる時期よりも多くの平和のための措置をとった」(ゴシックは引用者)とのべたことは、アメリカ帝国主義が長年にわたって要求しつづけ、ついに実現した「われわれの部分核停条約」なるものが、アメリカ帝国主義者の「平和」の仮面をかざり立てる最良の道具となった満足感を、あからさまにもらしたものであった。アメリカ帝国主義は、「部分核停条約こそ平和共存への前進」というソ連共産党指導部の主張を願ってもない証言として利用し、そのかげにかくれて、侵略的核軍備を大増強し、核戦争政策を大きく前進させたのである。

 第三に、部分核停条約は、「核拡散防止」という口実を利用して、アメゾカ帝国主義が中国の防衛力強化を妨げ、「中国封じこめ政策」をおしすすめるための新しい道具として利用された。ケネディとジョンソンは、部分核停条約が前文でうたってみせた核兵器の生産と実験の禁止や、「全般的かつ完全な軍縮」の実現という「主要目的」などにはまるで目もくれず、「部分核停条約から核拡散防止協定へ」というスローガンをつかって、西ドイツや日本の核武装計画をふくむアメリカ帝国主義の「核独占」体制の強化と、中国の核保有の「防止」をめざして、あらゆる策謀をめぐらしてきた。

 「核拡散防止」は、一見耳ざわりのよいスローガンであるが、その前提になっているのは、実は米・英・ソ3国だけが核兵器をもっているままならば世界は平和であるが、この3国以外の国、とくに中国が核兵器をもてば、たちまち世界には核戦争の危険がみちあふれるという、道理にも事実にも合わない命題である。この命題は、第一に核戦争の危険を生みだしている主要な根源としてのアメリカ帝国主義の核戦争政策を免罪し、第二にアメリカ帝国主義の手による日本・西ドィツなどの核武装には目をつぶり、第三にアメリカの核脅迫によって防衛上やむをえずおこなわれた中国の核保有に核戦争挑発の責任を負わせようとし、最後に核戦争防止の根本的手段としての核兵器禁止をたな上げにするものである。「核拡散防止」がアメリカ帝国主義の核戦争政策にうってつけのスローガンであり、アメリカ帝国主義が世界中に軍事基地をもち、核兵器をまきちらしているというもっとも重大な事態をおおいかくすものであることは明らかであろう。事実、部核分停条約締結以来、アメリカ帝国主義は、現代修正主義者をうしろにしたがえながら、部分核停条約とそれにもとづく「核拡散防止」のスローガンを最大限に利用して、核軍備の増強をおこない、侵略的な「中国封じこめ政策」を強化してきたのである。

 だが、アメリカ帝国主義の核脅迫政策から、中国の人民を守り、アジアと世界の平和を守るためにおこなわれた、1964年10月と1965年5月の中国核実験の成功は、アルリカ帝国主義の核戦争政策と「中国封じこめ」の策謀に重大な打撃をあたえ、核戦争を阻止するうえで大きな役割をはたすとともに、核兵器禁止をたたかいとる闘争を一歩すすめるものとなった。そして同時に、中国核実験の成功は、アメリカ帝国主義と無原則的に妥協して、「いざというときにはソ連の核兵器がまもってやる」とか、「中国核武装は西ドイツや日本の核武装をひきおこす」とかいう口実で、中国が防衛のため核兵器をもつことに反対しつづけてきた現代修正主義者の策動にたいしても、大きな鉄ついとなった。中国の核実験成功は、アメリカ帝国主義の中国核包囲政策を破たんさせ、核兵器禁止をめざす人民の闘争と結びついて、核兵器禁止を実現する条件を強め、帝国主義とたたかうアジア、アフリカ、ラテンアメリカの人民をはげまし、アジアにおける独立と平和の闘争の発展に歴史的役割をはたすものとなった。アメリカやソ連の核兵器は核戦争防止に役立つ抑止力であるが、中国の核兵器は核戦争の危機を招くという支離滅裂な言い分が、現実によって破産するのにはそれほどひまは、かからなかったのである。

 今日では、西ドイツや日本の核武装をおしすすめ、ベトナムを中心に核戦争の危険さえ生みだしている元凶は、まさにアメリカ帝国主義であって、けっして中国の核保有ではないことは、あまりにも明らかである。

 今日では、「ソ連の核兵器がまもってやる」といって、中国に核兵器製造の技術的知識の提供をことわっただけでなく、部分核停条約締結によって、中国の核開発を妨害しようとしたソ連の行動が、実際には、中国人民を裏切って、アメリカ帝国主義の「中国封じこめ政策」をたすけ、ベトナムなどアジアにおける核攻撃態勢の強化に事実上協力する結果を生むものであり、さらに、社会主義体制と国際共産主義運動の不団結を拡大するものであったことも、あまりにも明らかである。

 そして、アメリカ帝国主義が、ベトナム侵略戦争を拡大しつつ、アメリカの「国家的利益」を守り「自由」を防衛するために、中国が強大な核兵器とミサイルを保有する以前に中国を攻撃する必要があると称して、公然と「予防戦争」をとなえている現在、中国が防衛のために欠くことのできない核開発をおこないながら、核兵器禁止と核兵器使用禁止の世界各国首脳会議を提唱した態度の正しさは、ますます広範な人びとによって理解され支持されている。なぜなら、核兵器禁止は、米・英・ソ3国の核独占を強化する「核拡散防止」によって達成されるものではなく、アメリカ帝国主義の核戦争政策と核脅迫政策に対抗して、それを無力なものとする社会主義の防衛力の強化と、核兵器禁止をめざす世界人民の闘争の巨大な発展と結びついて、はじめてかちとりうるものだからである。それだけに、あらゆる手段をろうして、中国の核開発を妨げようとした現代修正主義者の卑劣な裏切り的役割は、きわだったものがある。

 第四に、この期間に、部分核停条約は、フルシチョフが主張した「核兵器の全面禁止への第一歩」などにはまったくならなかったことが明らかになった。それは、わが党が警告したとおり、核兵器全面禁止という緊急の課題を裏切り、それをそらす役割をはたし、同時に国際共産主義運動、国際平和運動に重大な混乱をもたらし、その不団結を拡大するものとなっただけであった。

 すでにのべたように、「核拡散防止」という耳ざわりのよいスローガンをかかげて、実は米・英・ソ3国だけが核兵器を保有し生産しつづける体制を固定しようとするかぎり、そのような欺まんが、アメリカ帝国主義の核戦争政策をしばることができないだけでなく、3国と同じ権利を主張する、新しい核保有国の出現をふせぐことができないのは理の当然である。

 こうして部分核停条約以後、帝国主義諸国間の矛盾の激化と結びついて、アメリカをかしらとする、帝国主義陣営内部の核軍備の増大が進行しつつある。フランス帝国主義はすでに独自の核武装の道をまっしぐらにすすんでおり、国連の内部でさえ、今後核保有国の増加が避けられないとする声がつよくなっている。全体として、現在の世界が、アメリカ帝国主義の核戦争政策を真の起動力として、帝国主義陣営内に核保有への衝動を強め、同時に社会主義陣営内に防衛的核武装を強化する必要を増大させつつあることは明瞭である。部分核停条約は、そうした大局的な傾向のなかで、アメリカ帝国主義の核戦争政策という事態の根源にふれずに、むしろソ連がアメリカ帝国主義と無原則的に妥協することによって、核保有国の増大をふせごうとした、こっけいというにはあまりにも重大な錯誤の産物にすぎなかった。

 こうした事態は、核兵器全面禁止という課題を、ますます世界の人民にとって、ひきのばすことを許さない、もっとも緊急の課題とするものである。核兵器の全面禁止だけが、アメリカ帝国主義の核戦争政策という、核戦争の危険の根源とともに、それに付随して生まれている帝国主義陣営内の「核拡散」の危険をも根絶することができる唯一の手段であることは、ますます明らかになりつつある。

 ところが、アメリカ帝国主義が部分核停条約に託したねらいの一つは、まず大気圏内、水中、超高空の核実験の停止、それから地下実験の停止、それから核兵器の「拡散」の防止、それから……、それから……、そして最後の最後に全面禁止へといった欺まん的な論理で、実際には核兵器の全面禁止の実現をたな上げにさせようとするところにあった。それは、核兵器の全面禁止は、当面はまったく不可能な課題であるという前提を固定化する傾向を強めた。アメリカ帝国主義が部分核停条約においた主要な目的が、アメリカ帝国主義の核独占と核優位の永久化をはかることにあった以上、このことは不可避的であった。部分核停条約の締結が、フルシチョフを先頭とする現代修正主義者の礼賛的評価のおしつけによって、全世界の核兵器禁止運動を混乱させただけでなく、運動の課題のなかで、現在ますます重要性をましている中心スローガン 「核兵器全面禁止」を後景にしりぞかせ、そのかわりに「核実験の全面禁止」や「核拡散防止」を中心スローガンとして前面におしだす傾向を促進する役割をはたしたことは、西ヨーロッパやアメリカの平和擁護運動の現状がはっきりと示している。それは、この意味でも、平和運動を弱め、核兵器禁止運動の統一と団結を弱めたのである。

 そして、いっそう重大なことは、部分核停条約の締結と、ソ連共産党指導部による社会主義諸国、国際共産主義運動、国際民主運動などへの、その不当な一方的押しつけが、社会主義諸国、国際共産主義運動、国際民主運動の不団結をいっそう拡大し、それに分裂を押しつけることとなったことである。

 帝国主義陣営は、フランス帝国主義をのぞいて、日本や西ドイツはもちろん、スペインのフランコ、台湾の蒋介石、「韓国」の朴正煕にいたるまで、アメリカ帝国主義の指揮のもとに一致団結して部分核停条約を支持し、批准した。このことは、この条約の本質が、帝国主義陣営の利益となるものであることをかさねて例証したものであった。他方、社会主義陣営は、ソ連の策動にもかかわらず、アルバニア、中国、朝鮮、ベトナム、キューバの五つの国がこの条約を支持しないという正しい態度をとった。

 部分核停条約にたいする態度のこの根本的な対立は、たんに一条約の評価にかかわるものではなかった。それはアメリカ帝国主義の侵略性とその世界支配計画にたいする評価の対立、フルシチョフの対米追従政策にたいする評価の対立、したがってまた、アメリカ帝国主義の核戦争政策と侵略の政策とたたかって、どのようにして核戦争阻止と核兵器禁止をたたかいとり、どのようにして世界の平和と民族の独立をたたかいとるかという根本路線をめぐる見解の対立という、重大な原則的意義をもつものであった。こうして、ソ連共産党指導部による部分核停条約支持のおしつけは、その後の事態が示すとおり、社会主義諸国、国際共産主義運動、国際民主運動の不団結をいっそう重大化したのである。そのおしつけが、どんなに犯罪的な役割を演じたかは、この2年間、各分野、各団体のなかでおこなわれた、そのための乱暴かつ不当な策動、その結果としての無数の対立の激化と分裂を思いおこせば十分である。世界平和評議会をはじめ、世界労連、世界民主青年連盟、国際学生連盟、国際民主婦人連盟など国際民主団体は、この問題をめぐって、混乱し、重大な不団結を生みだした。わが国でも、ソ連共産党指導部によるこの条約支持のおしつけが、わが党にたいする干渉と破壊活動、日本原水協、日ソ協会をはじめとする民主団体にたいする分裂策謀の最大かつ決定的な口実とされたことは、すでにのべたとおりである。

 社会主義陣営の統一と団結、国際共産主義運動の統一と団結こそ、われわれの事業の勝利の保障である。ソ連共産党指導部は、部分核停条約を「世界における力関係の変化」の結果としてほめたたえたが、かれらはこの条約をおしつけて、反帝平和勢力の分裂をひきおこしたことによって、実際には、みずから称する「力関係の変化」の基礎そのものを掘りくずそうとしたのである。

 いったい、社会主義陣営、国際共産主義運動、国際民主運動の統一と団結を犠牲にして、帝国主義とのあいだにどうしても結ばなければならない条約なるものがありうるだろうか。しかも、この条約は、アメリカ帝国主義の草案にもとづき帝国主義者がほとんど一致して支持している条約であり、抜け穴だらけの条約なのである。

 部分核停条約がえさせたものは、この条約がなくとも、えられたはずの、すでに休止期にはいっていたアメリカ帝国主義の大気圏内核実験の一時的中止――しかもかれらは3ヵ月前に条約脱退を通告すれば、いつでも、これを再開できる――だけであり、それが失わせたものは、反帝平和勢力の統一と団結であった。これは、なんら、「取り引き」の名にさえ値するものではない。まったく一方的に、帝国主義が利益をえ、まったく一方的に、反帝平和の勢力は重大な損害をこうむったのである。

 以上が、部分核停条約の評価にたいする、歴史的総括である。

 フルシチョフは、アメリカ帝国主義の核脅迫に屈服して、ソ連の「安全」を確保しようとして手段をえらばず、ソ連以外の社会主義国の防衛力強化を妨げることとなり、アメリカ帝国主義の「中国封じこめ」政策に事実上協力することになる部分核停条約をむすんで、無原則的な対米追従路線をすすんでいった。だが、それは、けっきょく、アメリカ帝国主義を利し、世界人民の根本的利益をまっこうから裏切ることとなり、国際共産主義運動、国際民主運動の不団結を拡大し、ひいては、ソ連の安全と社会主義建設をさえ、おびやかす危険をまねいた。このような部分核停条約を結び、それをほめたたえ、その支持を平和、民主勢力におしつけ、それに正しく反対した党をののしり圧迫したソ連共産党指導部の重大な責任は、フルシチョフを解任しても消えるものではない。

 わが党は、ソ連共産党指導部や、それに追随した諸党と異なり、部分核停条約締結にきいし、自主独立の党として、日本人民の闘争に責任をもつ党として、これを支持しない態度をとった。このわが党にたいして、米日反動勢力をはじめ、右翼社会民主主義者、内外の現代修正主義者は、いっせいに攻撃を集中した。志賀義雄は、フルシチョフの指揮棒にすすんで身をまかせ、「ソ連政府のイニシアチブによって結ばれ」たこの条約こそ、「世界人民がかちとった平和共存への第一歩」(1964年5月15日「みなさんに訴える」)であると声明して、わが党を裏切り、フルシチョフと部分核停条約にその政治生命をかけた。ソ連共産党指導部は、自分の裏切りをたなにあげて、おこがましくも「日本共産党の指導者たちはみずから自分たちの党を孤立させ」、「まさに、損をしています」(前掲「1964年4月18日付書簡」)と、笑止な「忠告」をわが党におこなった。

 だが、人民から孤立したのは、わが党ではなく、フルシチョフ一派の手先、志賀・神山一派であった。そのことは、最近の参議院選挙、東京都議会選挙におけるわが党にたいする人民の支持のいちじるしい増大とかれらのみじめな敗北とが、かさねてはっきりと証明している。

 もし、わが党が、フルシチョフらの「忠告」にしたがい、志賀義雄にしたがって、部分核停条約を支持していたら、どうなっていたであろうか。わが党は、日本人民にアメリカ帝国主義の政策にたいする幻想をあたえ、F105D水爆戦闘爆撃機の日本配備、米原子力港水艦の日本「寄港」、日韓会談の強行、ベトナム侵略等々にたいする反対闘争に人民をただちに決起させ、正しく闘争を組織して、その先頭にたってたたかうことができなかったであろう。わが党は、中国核実験に抗議するという誤った立場をとらざるをえず、そのことによって日本の核攻撃基地化と核武装をおしすすめているアメリカ帝国主義の核戦争政策に事実上手をかす役割をはたさざるをえなかったであろう。わが党は、日本の原水爆禁止運動が、アメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策に反対し、核兵器禁止の旗をかかげてすすむ偉大な運動として発展することを、妨げる役割をはたすこととなっていたであろう。

 わが党は、日本の労働者階級の前衛としての自己の責任にきびしくしたがって、このような誤った路線にしたがわず、内外の修正主義者や分裂主義者と妥協することなくたたかい、部分核停条約に断固として反対し、日本人民の真の利益を守り、日本人民に正しい前進の方向を示してきたことを、心から誇りとするものである。

四、平和共存と民族解放闘争との関連について

 戦争と平和の理論にかんする論争問題のなかで、歴史の審判が下された第三の問題は、平和共存あるいは平和と、革命闘争あるいは民族解放闘争との関連の問題である。

 フルシチョフら現代修正主義者は、現代においては資本主義体制と社会主義休制との平和共存が絶対の至上命令になっており、熱核戦争の回避こそ、革命闘争や民族解放闘争はもちろん、すべての闘争に優先する第一義的任務であると称して、実際には、米ソ間の「平和共存」を確保するためと称する対米迫従政策に、いっさいの闘争を従属させようとしつづけてきた。

 まず、フルシチョフは、今日のいっさいの革命的闘争を熱核戦争を回避する闘争と結びつけ、もっぱらその点から評価すべきだと主張した。

 たとえば、「キューバ危機」ののち、フルシチョフは、「平和のため、平和共存のための闘争と、世界での社会主義の勝利のための労働者階級と勤労者全体の革命闘争との相互関連」について、すべての闘争を世界熱核戦争を回避する闘争と結びつけるという、新しい戦術を「発見」したとして、つぎのようにのべた。

 「今日では、平和のための闘争は、社会主義のための闘争のもっとも重要な条件となっています。現在では労働者階級の革命運動と民族解放運勧のどんな問題も、平和を守り、世界熱核戦争を回避する闘争と切り離して考えることはできません。これこそ、カリブ海域での最近の出来事から、世界の共産主義運動が学ばなければならない戦術上のもっとも重要な教訓です」(1963年1月16日「ドイツ社会主義統一党第6回大会における演説」、『国際共産主義運動論争主要問題』1、『世界政治資料』169号、ゴシックは引用者)

 フルシチョフのこの主張は、『コムニスト』主張が、よりあけすけにのべたように、実は、今日では、すべての闘争は、なによりもまず、いっさいの進歩の前提としての、熱核戦争を阻止する闘争に関連させてのみ、評価されなければならないということを意味していた。

 「世界熱核戦争の破局を阻止することが、いっさいの進歩の欠くことのできない前提であり社会的、政治的、民族的基本問題を成功のうちに解決するもっとも重要な条件であることは、明白である。だから現在では資本のくびきをかなぐりすてた国ぐににおける社会主義および共産主義の建設、資本主義諸国における労働者階級の革命勢力の闘争、民族解放運動は、世界熱核戦争を阻止するための闘争との関連においてのみ検討されうるのである」(『コムニスト』誌1963年11号巻頭論文「世界共産主義運動の路線の修正に反対し、創造的マルクス・レーニン主義の勝利のためにたたかおう」 『国際共産主義運動論争主要問題』2、『世界政治資料』179号、ゴシックは引用者)

 しかもフルシチョフによれば、全世界の平和共存を保障するものは、なによりもまず米ソ2大国間の「平和共存」なのである。

 「もし資本主義世界のもっとも強大な国であるアメリカと、社会主義諸国のうちでももっとも大きく強力な国であるソ連が、善隣関係をうちたて、そしてさらに一歩すすんでわれわれが望むような親善に成長転化する協力関係がどのようになるか、ちょっと考えてごらんなさい。かつてD・アイゼンハワー氏は『米ソ両国がたがいに信頼しあっておれば、他の諸国の間でどんな意見の対立が起こったところで、全体的な一致や平和にはひびかない』と書いたことがあるが、私はこの言葉に賛成である」(1959年9月24日、ピッツバーグ市実業家、社会人代表との会見での演説、『世界政治資料』81号)

 ここからでてくる結論はただ一つである。すなわち、フルシチョフらは、今日、熱核戦争の阻止が、全世界の平和、民主勢力にとって、非常に重要な任務となっているという、きわめて明白なことを口実として、実際には、熱核戦争をふせぐためには、米ソ間の「平和共存」をうちたてることこそが必要であり、革命闘争と民族解放闘争をふくむすべての闘争は、この第一義的任務に従属しなければならないという結論をひきだしたのである。そして、革命闘争や民族解放闘争を米ソの「平和共存」に従属させ、事実上これに解消すること――このことは、ただ、フルシチョフがもし革命や民族解放闘争がすこしでも世界熱核戦争の危険をはらみ、米ソ間の「平和共存」と矛盾するとみなした場合には、それを口実にして、ちゅうちょなく前者を抑制することを意味している――こそ、けっきょくは革命闘争や民族解放闘争の新しい発展をかちとることなのだそうだ。志賀義雄らわが国の反党修正主義者たちも、フルシチョフに盲従して、至高の任務としての「平和共存」=対米追従という路線をかつぎまわってきたことはいうまでもない。

 わが党は、これまで一貫して、核戦争阻止の任務はきわめて重大なものであるとみなしてきた。わが党は、アメリカ帝国主義による原水爆の被爆を三たびうけた国の前衛党としての責任の深い自覚に立って、核戦争阻止、核兵器の全面禁止(使用、実験、製造、貯蔵の全面禁止)、被爆者の救援の旗をたかくかかげて、日本と世界の原水爆禁止運動の発展のために、内外の平和勢力とともに大きな系統的努力を払ってきた。

 わが党は、こうした核戦争防止の任務はもちろんのこと、社会体制の異なる諸国の平和共存をかちとる任務をいさきかでも軽視する傾向にたいしては、断固としてたたかってきた。

 世界熱核戦争を防止し、社会体制の異なる諸国家間の平和共存を実現することは、世界平和の確保と諸民族の主権を守るための重要な任務である。だが、「平和共存は社会主義と資本主義の階級闘争の一形態」(1960年の声明)であって、マルクス・レーニン主義の平和共存政策の核心は、帝国主義の戦争政策との不断の闘争によって、社会体制の異なる諸国家間の平和共存を実現し、確保することにある。平和共存は、社会主義諸国と各国人民が共同して帝国主義の戦争政策とたたかい、その侵略の手をおさえつけることによって、はじめて帝国主義におしつけることができるものであり、また、たとえ闘争によって帝国主義にある程度の平和共存をおしつけたのちにおいても、たえず平和共存を破壊しようとする帝国主義とたたかいつづけることによって、はじめて確保しうるものである。

 マルクス・レーニン主義の原則をまもったこうした立場かち、わが党は、党綱領に、「党は、世界の平和と、社会制度の異なる諸国の平和共存をめざしてたたかう」ことを行動綱領の基本の一つとして明記し、昨年の第9回党大会にたいする中央委員会の報告のなかでも、わが党の当面する六つの課題の第二に、「アジアと世界の平和を守り、社会制度の異なる諸国の平和共存をかちとる課題」をあげている。同時にわが党は、こうして正しい平和共存政策を擁護すると同時に、平莉共存を誤った対米追従路線にすりかえ、「米ソ2大国による平和の確保」を最高の玉座にまつりあげ、無原則的な対米追従路線に人民の革命的闘争を従属させようとするフルシチョフの議論にたいしても容赦なくたたかってきた。なぜならフルシチョフらのような主張は、正しい平和共存政策を「米ソ2大国による平和」にわい小化しているだけでなく、帝国主義に重大な打撃をあたえる革命闘争や民族解放闘争もまた、広範な平和擁護闘争、社会主義建設の闘争などと肩をくみ、ともに合流して恒久平和を実現する世界史的任務をになう闘争であることを見おとしたものであるからである。それは、革命闘争や民族解放闘争自身を弱めるだけでなく、平和のための闘争そのものをも弱め、帝国主義の戦争政策を力づける結果を生む。フルシチョフらの主張は、真の平和共存を日和見主義的な対米追従に変質させ、そのことによって、熱核戦争を防止する事業をも裏切るものにほかならない。

 「『平和共存』の名のもとに、民族解放運動を抑制し、あるいはこれを支持することに消極的態度をとるフルシチョフの『平和共存』路線は、世界平和と平和共存のための闘争の真の利益に背をむけ、実際には世界戦争の危険を増大させるものである」(評論員「フルシチョフの『平和共存』路線の本質について」、『日本共産党重要論文集』2、24ページ)

 フルシチョフら現代修正主義老の議論がまったく誤ったものであり、わが党をはじめとする真のマルクス・レーニン主義党の批判と主張こそ、平和と平和共存のための闘争と、革命闘争、民族解放闘争との真の関連を把握したものであったこともまた、最近の国際情勢の発展と人民の闘争の実践、なかでもアメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対するベトナム人民の闘争のなかで完全に明らかにされた。

 第一に、アメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策にたいする人民の闘争をめぐるすべての経験は、フルシチョフのような無原則的な妥協の政策によっては、実際にはけっして帝国主義の戦争と侵略をふせぎ、平和をかちとることができないことを明らかにした。

 フルシチョフは、これまでしばしば、アメリカ帝国主義との無原則的な妥協政策をおこなって、「平和」の名で革命闘争や民族解放闘争を抑制し、アメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策をたすけてきた。なかでも、1960年7月、国連安保理事会で、アメリカのコンゴにたいする「国連軍」派遣に賛成して、アメリカ帝国主義のコンゴ侵略をたすけたこと、1962年10月、いわゆる「カリブ海の危機」にさいして、アメリカのキューバにたいする「国際査察」要求にたいし、キューバ政府との事前の協議もおこなわずにこれをうけいれて、アメリカ帝国主義のキューバ侵略の陰謀をたすけようとしたこと、1963年8月、すでにくわしくのべたように、部分核停条約締結に賛成して、アメリカ帝国主義の核戦争政策とアジア侵略政策に協力したことなどは、もっとも重大な影響をもたらしたフルシチョフの無原則的妥協政策の実例である。

 フルシチョフは、このような無原則的な妥協を、つねに、現在のような社会主義が優位に立つ力関係のもとでは、必要な妥協をともなう平和共存政策をとりさえすれば、帝国主義の侵略政策をおさえることができるという日和見主義的議論によって合理化しようとした。たとえば、「カリブ海の危機」のあと、フルシチョフはこうのべている。

 「現在、世界の力関係のもとでは、平和と社会主義の勢力が、侵略的な帝国主義勢力の手をおさえ、かれらに諸国人民の意志を尊重させることができます。……帝国主義者は、社会主義諸国の力を重視しなければならなくなっています。平和を守り、社会主義の偉大な成果を守るためには、われわれは、マルクス・レーニン主義学説の原則をしっかり守りながら、合理的な政治的妥協におうじる用意があり、またじっさいに応じています」(1962年12月12日「ソ連最高ソビエト会議における報告」、『国際共産主義運動論争主要問題』1、『世界政治資群』164号)

 もちろん、帝国主義に反対する人民の闘争に依拠して、帝国主義とのあいだに一定の「政治的妥協」を達成することが必要となるばあいはしばしばある。マルクス・レーニン主義者は、けっしてそれを否定せず、それが積極的意義をもつ場合には、無原則的な妥協をおこなおうとする右翼的傾向とともに、「いっさいの妥協を排する」という極左的傾向ともたたかいながら、帝国主義とのあいだに必要な協定を実現するために努力するであろう。

 1954年のジュネーブ会議は、フランス帝国主義にたいするベトナム人民の英雄的闘争の勝利がかちとった偉大な成果であると同時に、若干の政治的譲歩をもおこないつつ、平和と社会主義の勢力が帝国主義におしつけた、インドシナにかんする独立と平和のための協定だった。しかし、事実が示すように、この協定はたんにそれだけでは、その後、アメリカ帝国主義が南ベトナム侵略を開始する「手をおさえ」ることはできず、かれらに「諸国人民の意志を尊重させる」ことはできず、ベトナムの平和的統一を達成することはできなかった。アメリカ帝国主義者にジュネーブ協定を守らせるためには、ベトナム人民の英雄的な闘争をはじめ、世界の人民の闘争のいっそうの発展と勝利が必要とされている。すでに「現在の世界の力関係のもとで」、平和と社会主義の勢力が「合理的な政治的妥協におうじる」ことによって「侵略的な帝国主義勢力の手をおさえ、かれらに諸国人民の意志を尊重させることができる」というフルシチョフの主張は、反帝国主義の勢力が帝国主義を追いつめつつあるということを口実として、帝国主義の侵略性をことさらに過小評価し、世界の人民の総力を結集した闘争がなくても、ソ連政府の対米追従政策にたよって帝国主義の侵略をおさえることができるという、共産主義者としてあるまじき無責任な幻想にすぎない。現実によってすでに完全にこの日和見主義的幻想は崩壊した。そしてこの日和見主義的な主張がくずれるとき、フルシチョフの「平和共存」論全体もみじめに崩壊する。

 今日の世界の力関係の真の姿は、フルシチョフがバラ色にえがいてみせたほど、単純なものではない。すでにのべたように帝国主義者がすでに余儀なく平和共存をうけいれたとみなしているフルシチョフにとっては、当然、「事実上、平和共存はすでに現実となっており、国際的に承認されている」既成事実だそうであって、これから勝ちとるものではない。だから、「いまの問題」はただ、「どのようにして平和共存を確実なものにするか、しばしば危険な国際紛争を生みだしている平和共存からの逸脱を、どのようにして許さないようにするか」(1960年9月「戦争と抑圧のない世界を」、『世界政治資料』109号)ということだけであった。この命題の誤りは、反駁の必要のないほど明白なものである。今日の世界の力関係は、1960年の声明が指摘するように「社会主義の世界陣営、国際労働者階級、民族解放運動、戦争に反対するすべての国、すべての平和愛好勢力が共同で努力をすれば、世界戦争を阻止することができる」という希望にみちた見通しが生まれてはいるけれども、同じ声明が指摘するように、同時になお「帝国主義は、全人類に重大な危険をもたらして」おり、「局地戦争をぼっ発」させることができるのであり、また、もしも平和と社会主義の勢力が共同でたたかうことができず、その団結が破壊されれば、熱核戦争の危険さえ増大するような力関係なのである。だからこそ1960年の声明は「平和共存の可能性の過小評価がおこらないように、同時にまた戦争の危険の過小評価がおこらないように」といましめながら、全世界の人民に、アメリカ帝国主義を先頭とする侵略と戦争の勢力にたいする断固とした闘争をよびかけ、さらにすすんで「社会生活から世界戦争をなくす現実的可能性が生まれる」のは、「平和と社会主義の勢力」が、社会主義建設、資本主義諸国の労働運動、植民地および従属国の民族解放運動などにおける数多くの「新しい成功」をおさめ、「社会主義と平和の勢力の優位」を絶対的なものとしてかちとった、将来の段階であることを明らかにしたのである。フルシチョフは、帝国主義に平和共存をおしつけるために必要な、これら帝国主義にたいする世界史的闘争への総決起を、全世界の人民によびかけることをせず、現状を「平和共存」と名づけて、現状維持をはかり、もっぱら帝国主義にたいする無原則的な譲歩と妥協をよびかけたのである。このような政策、現状さえ維持することができず、かえって帝国主義者の戦争と侵略の政策とたたかう力を弱め、侵略戦争の危険を強めることとなるのは不可避的であった。ベトナムの事態は、いくらソ連が強力な核兵器をもち、物質的成果を誇り、またはアメリカ帝国主義にたいして懸命になってフルシチョフ流の「合理的な政治的妥協」――実は無原則的な政治的妥協とやらをこころみても、アメリカ帝国主義の侵略政策を変えることはできないこと、そればかりか、ますますかれらはソ連の対米追従政策につけこんでその侵略を拡大し、核戦争放火の意図さえ公言しはじめたことを示している。

 第二に、コンゴ、キューバ、ドミニカ、ベトナム、ラオス、北カリマンタンなど、この期間にたたかわれたアジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国の人民の闘争が、平和共存あるいは平和と、民族解放闘争との関連の問題にかんして明らかにしたきわめて重要な結論は、「平和共存」あるいは「平和」の課題だけを民族独立の課題と切り離し、唯一最高の任務として追求することは、人民を裏切るきわめて重要な誤りにさえみちびきうるということである。

 真の世界平和を確立するためには、諸民族の独立の達成と主権の尊重が前提であり、諸国家間の平和共存は、いわゆる平和共存の5原則(領土の保全と主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)およびバンドン会議の平和10原則にも明らかなように、独立と主権の問題と切りはなすことができない。このことをもっとも集中的に示しているのがベトナム人民の闘争である。

 現在、ベトナムに「平和」が失われており、ベトナムを中心とする地域で、アメリカ帝国主義の侵略戦争によって、帝国主義と社会主義とのあいだの「平和共存」が失われていることは、明白である。だが、もし、フルシチョフのように、熱核戦争の防止だけを「第一義的任務」と考えれば、現実に熱核戦争の危険さえはらまれるにいたったベトナム戦争を、なにがなんでも即時停戦させ、話し合いによって「平和」と「平和共存」を即時回復することが、人類とその文明を守り、社会主義を守るうえで、もっとも緊急の任務とならざるをえない。

 しかし、ベトナムで失われているものは、「平和」と「平和共存」だけではない。アメリカ帝国主義の侵略によって、ベトナム民族の独立と主権が、民族の統一が、領土保全と人民の生活と生存が、すべての基本的な民族的権利がうばわれている。そして、「平和」と「平和共存」が失われているのも、アメリカ帝国主義のこうした侵略、ベトナム民族の民族的威信と権利にたいする凶暴な侵犯の結果なのである。ベトナムにおける独立と平和は、このアメリカ帝国主義の侵略の排除なしにかちとることができないことは、明白である。したがって、ベトナムで現に生まれている核戦争の危険も、その危険を計画的につくり出しているアメリカ帝国主義のベトナム侵略を排除し、ベトナムはもちろんアジアにおけるアメリカ帝国主義の核攻撃基地と核戦争態勢を一掃することによって、はじめて根本的に防ぐことができる。もしもベトナムで、核戦争の危険だけに目をうばわれ、それを口実にして無原則的な妥協をおこなおうとすれば、それはアメリカ帝国主義の核脅迫を成功させ、それに油をそそぐことになるだけである。そのような無原則的妥協は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略を排除するのに役立たないことはもちろん、なんら核戦争の危険を回避することにも役立つものではない。

 このような具体的状況のなかで、アメリカ帝国主義の侵略とたたかうことをぬきにして、ただベトナムにおける「平和」の回復だけを追求しようとすることは、なにを意味するか。

 それは、アメリカ帝国主義の核脅迫に屈服して、ジョンソンの「名誉ある平和解決」「無条件討議」という欺まん的提案に直接呼応し、「北爆中止」とひきかえにアメリカ帝国主義の南ベトナムへのいすわりと侵略の継続を容認し、ベトナム民族の独立と統一を売りわたすものである。しかも実際それは、南ベトナムにどんな「平和」をももたらすことができない。たとえそれによって「停戦」が実現したとしても、アメリカ帝国主義が南ベトナムにいすわるかぎり、ジュネーブ協定以後の事態がすでに示しているように、南ベトナム人民にたいする大量殺りくはいっそう強化され、かれらに、いっそう大規模な戦争と侵略を再開する態勢をたて直させることとなり、それにたいするベトナム人民の英雄的闘争が、ふたたび発展することは不可避的であるからである。

 このような種類の「平和解決」なるものは、ベトナム問題をなんら解決するものではない。ベトナム問題の根本的解決は、1965年3月22日の南べトナム解放民族戦線の声明や、1965年4月8日のベトナム民主共和国政府の4項目の要求が明らかにしているように、アメリカ帝国主義のベトナム侵略の中止と、南ベトナムからの撤退によって、ベトナム問題をベトナム人民自身の手にまかせること以外にはないからである。しかし、このことは、いっさいの交渉や国際会議が無意味であり、すべて拒否すべきだということを意味しはしない。ベトナム民主共和国の国会決議が明らかにしたように、4項目の基礎が認められてはじめて、「ベトナム問題の平和的解決を順調にすすめる条件が生まれ、1954年のベトナム問題にかんするジュネーブ会議の方式による国際会議の開催について語ることができる」のである。したがってベトナム問題を真に解決するためには、世界の人民の侵略反対闘争によってアメリカ帝国主義の凶暴な侵略政策をうちやぶり、ベトナムから撤退せざるをえないところまで、かれらを追いつめることが必要である。こうしてはじめて、たとえばジュネーブ会議方式の国際会議をも、ベトナム問題の解決に利用する現実的可能性が生まれるのである。

 さる2月8日の「北爆」開始後、半年間にわたって展開された、ベトナム戦争をめぐる諸勢力の複雑な闘争の進行のなかで、いわゆる「ベトナムの即時停戦」「即時国際会議をひらいてベトナム問題を解決せよ」などというスローガンの誤りが、ますます明確になり、現代修正主義者の、対米追従によるベトナム問題の「平和的解決」の策謀が封じられてきたことは、フルシチョフの無原則的「平和共存」論に最後のとどめをさすこととなった。

 このことは、あらためて平和と独立という二つの課題の深い結びつきを教えるものとなった。「平和」や「独立」、あるいは「民主主義」や「社会主義」などの現代の重要な諸課題が不可分で一体のものとなり、相互に強めあうものであること、その深い関連を切り離して、「平和」や「平和共存」だけを特別の地位にまつりあげるフルシチョフ修正主義は、けっきょく帝国主義を利し、人民を裏切るものであることが、ベトナム侵略という国際的事件のなかで、かさねて明らかになった。

 コンゴ、キューバをはじめ、アメリカをかしらとする帝国主義の侵略と抑圧とたたかっているすべての人民の闘争もまた、ベトナム人民の闘争と同じように、独立なしには真の平和がありえないことを示している。

 わが国においても、平和の課題と独立の課題は、かたく結びついている。日本をアメリカ帝国主義に従属させて、日本の独立をうばっている日米安保条約は、同時にわが国をアメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策にかたく結びつけ、沖縄・本土の基地をベトナム侵略の直接の攻撃基地とし、佐藤内閣をベトナム侵略に加担させ、日本から平和をうばう根源となっている。「独立なしに真の平和はありえない」というベトナム人民のスローガンは、同時に日本人民のスローガンでもある。

 そして第三に、ベトナムをはじめとする最近の各国人民の闘争は、独立と平和をかちとるために、帝国主義の侵略と断固として対決し、その手をしばりあげることのできるもっとも基本的な力もまた、帝国主義の支配や侵略を一掃するために断固としてたたかう、労働者階級と人民の不屈の闘争であるという不変の真理を、もう一度実証した。

 ジュネーブ会議以後、ベトナム人民が幾十万の尊い人命を犠牲にして血であがなった教訓は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略の手をおさえ、ベトナムから手をひかせて、ベトナム人民の独立と平和をたたかいとる主力は、熱核戦争回避を口実としたフルシチョフの無原則的な対米追従政策や、人民の闘争に依拠せずに、帝国主義と社会主義との国際的な力関係の変化のうえに安住した外交的かけひきなどではけっしてなく、ただアメリカ帝国主義の凶暴な侵略にたいする、ベトナム人民自身の組織された武装闘争・政治闘争であり、その民族解放闘争にたいする、世界の人民の具体的な支援闘争であるということであった。

 1960年の声明は、「今日の時代における人類社会の歴史的発展の主な内容、主な方向、主な特徴を決定しているものは、社会主義世界体制、帝国主義に反対してたたかっている勢力、社会の社会主義的変革のためにたたかっている勢力である」とのべ、「反戦闘争をおこなっている」「偉大な組織された勢力」として、「科学・技術の決定的部門で世界一の地位をしめた強大なソビエト連邦、膨大な物質力と政治力を平和のために使っている全社会主義陣営、平和の維持に深い特別な利害関係をもっているアジア、アフリカ、ラテンアメリカのますます増大する平和愛好諸国家、国際労働者階級とその組織、なによりもまず各国共産党、植民地、従属国の民族解放運動、世界的な平和擁護運動、戦争挑発の帝国主義的方針にくみせずに平和共存を主張している中立諸国など」をあげた。ところが、フルシチョフらは、世界史の発展方向を規定するものを、主として社会主義世界体制、なかんずくソ連の社会主義建設にわい小化し、反戦平和の勢力をもまた、ソ連の物質力と「平和共存」政策、およびそれを支持する平和擁護運動だけにわい小化してきた。

 だが、このわい小化は、二重、三重の誤りだったことが、世界の人民の実践のなかで暴露された。

 資本主義諸国における労働者階級の革命闘争、植民地・従属国における民族解放闘争は、国際労働者階級の生みの子である社会主義世界体制とともに、現代世界における三つの基本的な革命勢力であるだけでなく、帝国主義の戦争と侵略の政策とたたかう、反帝平和のたたかいの基本的な三つの力である。これらの革命的闘争は、平和の擁護をその直接の任務としたもっとも大衆的な運動としての世界平和擁護運動と結びついて、「アメリカ帝国主義に鼓舞される侵略と戦争の帝国主義政策とたたかう平和擁護者のもっとも広範な統一戦線」(1960年の声明)をかたちづくっている。

 ベトナム人民の闘争をはじめ、キューバ、コンゴ、ドミニカの人民の闘争、またわが日本人民の闘争の経験は、アメリカ帝国主義の植民地支配を打倒し、他民族への抑圧を一掃する闘争が、世界平和の強化という歴史的事業にも巨大な役割をはたすものであるという真理をあらためて明らかにした。この闘争は、帝国主義の本国での、その反動支配に反対する労働者階級と人民各層の闘争とともに、帝国主義者にその戦争と侵略の政策の拠点でもっとも重大な打撃をあたえ、それによって世界平和の強化の事業にも決定的貢献をおこなうのである。おそらくベトナム人民の今後の闘争とその結果は、帝国主義の他民族への侵略と支配を阻止し、うちたおすことをめざす人民の不退転の決意と団結のみが、真の平和を実現するという偉大な教訓を、世界人民のまえに明らかにするであろう。

 フルシチョフらは、革命闘争や民族解放闘争は、ただ「世界熱核戦争を阻止するための闘争との関連においてのみ検討されうる」(前掲『コムニスト』誌巻頭論文)と主張したが、事態はむしろ逆である。わが党がかつて批判したように、広範な人民を平和を守る課題のもとに結集する平和擁護運動こそが、帝国主義の戦争政策に反対する運動として、帝国主義の一掃をめざす世界人民の革命的な事業との結びつきのなかに、正しく位置づけられなければならない。

 「帝国主義を一掃して全世界における民主主義、社会主義の勝利をつくりだすすべての革命的事業、すなわち帝国主義本国において帝国主義の支配をくつがえす革命闘争や、アジア、アフリカ、ラテンアメリカにおいて帝国主義の植民地的奴隷制度を廃止しその支配を駆逐する民族解放闘争の勝利が、世界の力関係を反帝平和の勢力にいっそう有利に変化させ、平和擁護の事業をいっそう前進させるとともに、恒久平和を実現する世界史肘任務に決定的貢献をおこなうことはいうまでもない。この意味では革命闘争や民族解放闘争は、究極的にみれば、平和のためのもっとも戦闘的な闘争の意義をもつものであり、現代修正主義者が『第一義』という口実で宣言するように、すべてに優先する平和闘争によって規制され抑制されるものではなく、むしろもっともさし迫った任務の一つという意味で『第一義的な課題』(「モスクワ声明」)といわれる平和擁護闘争自身が、帝国主義を打倒し駆逐するこれらの世界史的革命闘争との結びつきのなかに正しく位置つけられるべきものである」(無署名論文「原水禁運動と分裂主義者の理論と実践」、前掲『日本共産党重要論文集』1・下、355ページ)

 わが党のこの論文「原水禁運動と分裂主義者の理論と実践」がくわしくのべたように、第一に、「帝国主義という同じ敵をもち、同じ帝国主義政策とたたかって、平和、独立、民主主義、生活向上の一般民主主義的目標を実現する」闘争として、平和闘争、民族解放闘争、民主主義擁護闘争、生活擁護闘争は、「たがいに結びつき、からみあい、たがいに支持しあう」闘争である。第二に、平和闘争は「帝国主義の戦争政策の一つひとつに打撃をあたえ、挫折させ、後退させ、戦争勢力と平和勢力の力関係を後者に有利に変化させ、帝国主義の世界支配の基礎を具体的に掘りくずす」闘争として、「帝国主義の世界支配の基礎そのものをくつがえす」革命闘争や民族解放闘争と結びついている。したがって、問題はまさに、これらすべての反帝闘争が合流して、帝国主義とたたかう反帝勢力の壮大な国際的統一を実現することにある。1960年の声明はこうのべていた。

 「帝国主義的な抑圧と搾取に対抗して、すべての革命勢力が統一されつつある。社会主義と共産主義を建設している諸国民、資本主義諸国における労働者階級の革命運動、被圧迫諸国民の民族解放闘争、一般民主主義運動など――現在のこれらすべての偉大な諸勢力は一つの流れに合流して、帝国主義世界体制を浸食し、これを破壊しつつある」

 フルシチョフがおこなったのは、これらの反帝闘争のなかから、「一般民主主義運動」の一つである平和運動だけを切り離して最高の地位にまつりあげ、他のすべてをこれに従属させようとした誤りだけではなかった。

 フルシチョフがおこなったのは、平和闘争をふくむこれらすべての反帝闘争を、帝国主義との無原則的な妥協と屈服の路線であるかれの「対米追従」に従属させようとした誤り、すなわち、帝国主義の核脅迫におびえ親帝国主義的な「平和共存」路線によって、すべての反帝闘争をおさえつけ、平和闘争をも弱めようとした誤りだった。

 わが党の評論員論文「ケネディとアメリカ帝国主義」は、現代修正主義者のこのような議論について、かつてこうのべた。

 「この議論をつらぬいている……根源的な思想は、全面核戦争が最大の悪であり、最大の悲惨事である以上、全面熱核戦争を防止することが人類の第一義的な課題なのであって、そこまで達しないすべての帝国主義政策およびそれとの闘争は、もはや第二義的な意義しかもたなくなったとする考え方、いいかえれば、熱核戦争による『人類絶滅』の危険の前には、帝国主義も社会主義も、独立も民主主義も、民族闘争も階級闘争もその意義を喪失するという考え方であるが、これこそ、帝国主義の核脅迫にたいする全面的な屈服の思想にほかならない。だが現在、まさに『人類絶滅』の脅迫によって、反帝勢力を分断し、帝国主義への譲歩と屈服を強要する核脅迫政策こそ、アメリカ帝国主義の世界政策の主柱の一つなのである。一歩でもその核脅迫に屈服することは、アメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策に油をそそぐこととなるだけである」(『日本共産党重要論文集』1・下、197ページ)

 フルシチョフらの議論が、けっきょくはアメリカ帝国主義の核脅迫にたいする屈服から発したものであることは明白である。

 「キューバ危機」、部分核停条約締結から、ベトナム侵略戦争の凶暴な拡大にいたる、この3年間は、フルシチョフを中心とする現代修正主義者の、アメリカ帝国主義の核脅迫にたいする屈服が、いかにアメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策に油をそそいだかを、事実にもとづいて、あますところなく示しつくした。この歴史の教訓からなにごとをも学ぼうとせず、今日にいたってなお、フルシチョフの「平和共存」論がはたした犯罪的な役割にたいして、目をおおい、それを弁護し、さらにそのみにくい残がいをひろって無原則的な対米追従路線を、ベトナム問題をめぐって復活させようとするものは、歴史の審判だけでなく、たたかう人民によるきびしい審判を受けなければならないだろう。

五、現代修正主義の克服と反帝平和闘争の勝利のために

 以上のように、フルシチョフを先頭とする現代修正主義者の戦争と平和の理論にたいして下された歴史の審判は、徹底的でかつ明白なものであった。

 この数年間の歴史的経験は、アメリカ帝国主義をかしらとする帝国主義勢力との闘争にかんして、争う余地のない重要な結諭をひきださせた。それは、ただ社会主義国家の外交政策だけにたより、しかも譲歩や妥協の政策にたよるだけでは、帝国主義の戦争と侵略をおさえることはできないという結論である。フルシチョフが考えたように、核兵器をもつアメリカ帝国主義にたいして、「軽率な態度をとってはならず」、「相互に妥協することが必要」(前掲「ソ連最高ソビエト会議における報告」)であり、こうして対米追従によって米ソ間の「平和共存」を実現し、「平和的経済的競争で社会主義が資本主義に勝利するためにもっとも有利な条件を確保する」(前掲「ドイツ社会主義統一党第6回大会における演説」)という路線は、けっきょくのところ、勝利の保障である反帝平和勢力の国際的団結を掘りくずし、アメリカ帝国主義につけこむすきをあたえ、その戦争と侵略の政策に油をそそいだだけだった。その路線は、当の米ソ問の「平和共存」を維持することさえ困難にしつつある。

 そして、この数年間の歴史的経験があたえた、もう一つの、さらに重要な結論は、帝国主義の戦争と侵略に反対する、世界人民の真剣な断固たる闘争だけが、諸民族の独立と世界の平和をかちとる真の力であるということである。

 ジョンソンが7月28日の記者会見で発表したように、現在アメリカ帝国主義は、南ベトナムの米軍を12万5000に増強し、徴兵を倍増する計画にのりだしている。アメリカの新聞は、南ベトナムの米軍が本年末までには20万となり、遠からず30万に達するだろうと観測している。だがたとえ50万、100万の米軍を南ベトナムにつぎこんでも、アメリカ帝国主義は勝利できない。そこでは、核兵器をもった世界最強の帝国主義⊃世界一のゆたかさを誇るアメリカ帝国主義が、ほとんど素手で戦いを開始した人民1400万の南ベトナム人民の闘争にうち破られ、南ベトナムから撤退せざるをえないという、帝国主義者が直面するのをおそれている真理が、早晩実証されるであろう。もちろんアメリカ軍の南ベトナム撤退は、そのまま自動的に、東南アジアからのアメリカ帝国主義のひきあげに直結するものではない。当面は、アメリカ帝国主義の南ベトナムからの撤退は、タイ、ラオス、「マレーシア」、南朝鮮などでの戦争と侵略、新植民地主義の政策の新たな強化をひきおこすこととなるであろう。しかし、ベトナム人民の勝利が、これらの地域の人民の闘争にかぎりない激励をあたえ、これらの地域でもアメリカ帝国主義は、南ベトナムで直面したのと同じ事態におちいらざるをえないであろう。

 アメリカ帝国主義は、ドミニカの人民の闘争にたいしても、共産主義者の侵略から自由を守るというおきまりの口実で3万の米軍を鎮圧のために送りこんだ。だが、そこでも、ただ、アメリカ帝国主義がドミニカ人民から孤立し、ラテンアメリカ人民から孤立するという結果がみちびき出されただけである。

 平和と独立をのぞむアジア、アフリカ、ラテンアメリカの人民は、キューバ革命にひきつづき、ベトナム人民とドミニカ人民の闘争の実例から、「世界の反動の主柱」であるアメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策、抑圧と反動の政策と、どのようにしてたたかわなければならないかを、深刻に学びつつある。コンゴでも、タイでも北カリマンタンでも、ベネズエラ、ボリビアその他の諸国でも、人民の解放闘争が拡大し、発展しつつある。

 アメリカ帝国主義は、現在、全兵力約265万のうち4分の1以上の70万人を世界各地に派遣している。しかし、どんなにアメリカ帝国主義が核兵器の威力を誇示し、世界最大の軍事力による凶暴な侵略をおこなっても、面積ではアメリカ合衆国の55分の1にすぎない南ベトナムでの人民の闘争にも勝利できない以上、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの各地の人民の解放闘争の発展を軍事力で弾圧することはまったく不可能である。逆にかれらの凶暴な侵略は、ますます広範な人民の決起をよびおこし、けっきょくアメリカ帝国主義自身の墓穴を掘り、その没落を促進するだけである。コンゴ、ベトナム、ドミニカで、歯まで核兵器で武装して荒れ狂っているアメリカ帝国主義の侵略行為は、ちょうどヒトラーの侵略的電撃戦がそうであったように、実際には、世界人民の眼前で演じられている、アメリカ帝国主義の歴史的没落というドラマの一幕なのである。

 だが、アメリカ帝国主義の「理性」に期待して、その侵略政策の放棄をのぞむことはできない。アメリカ帝国主義が知るのは、ただ力の言葉であり、人民の闘争の力、団結の力だけが、その戦争と侵略の政策をおさえ、しばしば後退させ、交渉をおしつけ、譲歩をかちとることができるのである。

 こうして今日では、フルシチョフの路線を基本的になおひきつごうとしている人びとでさえ、もはやフルシチョフと同じ言葉では、戦争と平和にかんする問題を語ることはできなくなっている。

 だが、このことは、現代修正主義の国際的潮流が、フルシチョフの無原則的な「平和共存」論を根本的に清算し、日和見主義的な対米追従路線をきっぱりと捨て去ったことを意味してはいない。

 そのことを示す明白な証拠は少なくない。

 まず、アメリカ帝国主義自身が、依然として現代修正主義の国際的潮流の対米追従路線に、公然と期待をかける態度をかくしていない。たとえば、アメリヵ国務省は、対独戦勝20周年記念日にあたり、ソ連共産党中央委員会、最高会議幹部会、政府が、世界各国の政府、議会、国民にあてたメッセージを発表して、アメリカのベトナム侵略を非難したのにたいし、5月13日わざわざ声明を発表して、「このような主張は米ソ両国関係を危険におとしいれる」と反論した。アメリカ帝国主義者は、フルシチョフを中心にしたソ連共産党指導部が国際共産主義運動の団結を犠牲にしてつくりだした対米追従路線を逆手にとり、そのベトナム侵略をおおいかくすのに利用するだけでなく、さらにソ連共産党指導部の対米非難を「約束がちがう」といっておどかしているのである。これは、フルシチョフの無原則的な対米追従路線のゆきつく果てをみじめなまでにはっきりと示している。帝国主義への屈服は、これほどまでに帝国主義者をつけ上がらせることとなった。

 ソ連共産党指導部は、ベトナム問題での自分たちの立場が確固としたものであることを証明するものとして、ソ連政府によるベトナム民主共和国への援助の意義を、しばしば強調している。もちろん、帝国主義国の軍事侵略をうけている社会主義国にたいし、他の社会主義国が援助をおこなうことは、社会主義陣営の一員としての当然の義務であり、それが私心なく積極的におこなわれるならば、われわれは、大いにこれを歓迎するものである。しかし、もしソ連共産党指導部が、このことによって、自分たちの誤った行動までが正当化されると考えているのだとしたら、それは根本的なまちがいである。現代修正主義の潮流に期待をかけたアメリカ帝国主義の指導者たちの言動で端的に示されているように、アメリカ帝国主義のベトナム侵略に反対する闘争の正しい路線と、全世界の平和民主勢力の団結をそこなってきたソ連共産党指導部の行動は、現実に、アメリカ帝国主義につけこむすきをあたえ、その侵略政策を利する役割をはたしており、ソ連政府による援助の意義そのものを、客観的には大きく減殺する結果となっているのである。

 また、ソ連共産党指導部は、依然としてアメリカ帝国主義に基本的に同調して「核拡散防止」を主張し、アメリカ帝国主義の核戦争政策がいっそう強化されている現状のもとで、事実上ソ連以外の社会主義国が防衛的核兵器をもつことに反対する態度をとりつづけている。たとえば、5月19日のソ連・インド共同声明は、外国軍事基地の廃止、核兵器の使用禁止などとともに、とくに核兵器拡散防止の重要性を強調している。

 核拡散防止が、部分核停条約の直接の継続にほかならないことについてはすでにのべた。この意味で、われわれは、7月27日にジュネーブで再開され、アメリカ帝国主義が地下核実験禁止協定と核拡散防止条約の締結を提案しようとしている18ヵ国軍縮委員会の討議の経過と結果について、重大な関心をもってこれを見守るものである。

 これらの特徴的な事実は、ソ連共産党指導部が、口では「統一と団結」をとなえながら、志賀義雄、神山茂夫らわが国の反党修正主義者をそそのかし、かれらと結託して、わが国および日本原水協、日ソ協会などわが国の民主団体にたいする許しがたい干渉をおこなっている事実などとともに、ソ連共産党指導部が、フルシチョフの路線のあまりに不手ぎわなゆきすぎについて若干の訂正をおこないながら、新しい形態でその日和見主義、分裂主義、大国主義の路線をおしすすめていると見ざるをえない一定の根拠をあたえるものである。

 しかし、こうした日和見主義、分裂主義、大国主義の立場は、いたるところで新たな失敗に直面している。

 ヘルシンキ平和大会では、アメリカ帝国主義との闘争をさけ、帝国主義との協調による「平和共存と完全軍縮」をおしつけ、ベトナム問題については「ベトナムに平和を」というようなあいまいな路線をおしつけようとした日和見主義の路線はしりぞけられ、「一般声明」と、「ベトナムにかんする決議」が圧倒的多数で採択され、ベトナム人民の正義のたたかいを積極的に支持し、世界各国人民を帝国主義の戦争と侵略に反対する闘争に結集するようよびかけがおこなわれた。昨年の第10回原水禁世界大会で、分裂主義者と結託して世界大会から退場して分裂集会に出席し、原水爆禁止運動の分裂策動を公然とおこなったソ連平和委員会は、日本原水協が原則的態度を明らかにし、さらに5月にガーナのウィネバで開かれた第4回アジア・アフリカ人民連帯会議が全員一致で第11回原水禁世界大会の全面的支持を決議し、ヘルシンキ平和大会でも、日本の平和運動への不当な干渉が国際的に問題になったため、熊度決定に苦慮したあげく、ことしの第11回原水禁世界大会にさいしては、世界大会と分裂集会の双方に代表を送って撹乱するという、昨年同様の策謀をくりかえすことができなくなってしまった。一方、第11回原水禁世界大会は、たたかうベトナム人民の、直接の深い連帯のもとにかつてない規模と内容をもった世界大会となり、世界各国人民の平和と民族解放の運動に大きな貢献をなしとげたのである。

 国際民主運動におけるこれらの経験は、帝国主義とたたかう世界の平和、民主勢力の団結をかため、国際共産主義運動の当面の行動の統一への道を本当にきりひらくためには、現代修正主義の潮流の日和見主義、分裂主義の路線との闘争が必要なこと、この闘争を団結のための努力と正しく結びつけることによって、はじめて、帝国主義の侵略に反対する全世界の共産主義者と反帝平和勢力の当面の行動の統一を実際に実現できることを、はっきりと教えている。

 こうした事態はまた、ソ連共産党指導部が、真剣にアメリカ帝国主義のベトナム侵略とたたかい、真剣に国際共産主義運動、国際民主運動の団結に貢献しようとするのであれば、どうしてもフルシチョフの日和見主義、分裂主義、大国主義の路線の根本的な再検討を避けることはできないことを、はっきりと教えている。

 フルシチョフが、どんなに集団指導を無視してふるまったとしても、かれは11年間にわたってソ連共産党指導部の第一書記であったし、6年間にわたってソ連政府の首相であった。かれの言動は、ソ連共産党を代表しておこなわれたものであり、かれの政策とかれの方針に、ソ連共産党指導部として責任を負っていることは当然のことである。フルシチョフの誤りを、フルシチョフ個人だけに負わせることはできない。

 もしもソ連共産党指導部が、公然と、卒直に、事態を根本的に再検討することをさけ、部分的に、なしくずしに、若干の局面だけを訂正することによって、事態を救おうとしても、それはマルクス・レーニン主義にもとづいて国際共産主義運動を団結させ、前進させることには役立つものではない。

 すでに指摘したように、問題は公然と全世界の共産主義者と人民のまえに提出され、この数年間はげしい国際的論争と国際的闘争がおこなわれてきた。とくにフルシチョフの対米追従を軸とした理論と実践は、反帝平和勢力の共同の事業に重大な混乱と重大な損害をあたえてきた。その事実に目をおおって、自己批判ぬきに、正しい総括ぬきにして、なにもかもうやむやのまま、なしくずしに不団結を改善していくことはできない。それは共産党の指導者のとるべき態度ではない。われわれの偉大な教師レーニンが教えたように、「誤りを公然と認め、その原因をあばきだし、それを生んだ情勢を分析し、誤りをあらためる手段を注意ぶかく討議すること、これこそ、まじめな党の目じるしであり、これこそ党が自分の義務をはたすことであり、これこそ、階級を、ついで大衆をも教育し、訓練すること」(「共産主義内の『左翼主義』小児病」、全集31巻、43ページ)である。誤りを公然と認めず、原因をあばきださず、それを生んだ情勢を分析せず、誤りをあらためる手段を討議しないならば、一時的、なしくずしに若干の訂正がおこなわれたとしても、党も、階級も、大衆も、真に教育されず、同じ誤りがくり返されない保障は、どこにもないということとなる。

 ソ連共産党指導部は、つぎの問いに答える義務を負っている。いったい、フルシチョフを中心とするソ連共産党指導部による、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンら、「アメリカ帝国主義者の理性派」の礼賛は正しかったのか、正しくなかったのか。大統領選挙でジョンソンの勝利を支持したのは正しかったのか、正しくなかったのか。すでにアメリカ帝国主義は「力の立場」に立つ政策を実施する物質的地盤を失い、平和共存をうけいれているといったのは、正しかったのか、正しくなかったのか。

 いったい、フルシチョフを中心とするソ連共産党指導部による、部分核停条約の締結は正しかったのか、正しくなかったのか。この条約に反対した社会主義諸国や兄弟党を、熱核戦争をのぞむものとして非難したのは正しかったのか、正しくなかったのか。この条約によるソ連とアメリカの指導者の「相互信頼」と「相互模範」をたたえ、この条約の締結を国際緊張め全般的緩和への出発点として評価したのは、正しかったのか、正しくなかったのか。ソ連以外の社会主義国、たとえば中国が、アメリカ帝国主義の核脅迫に直面し防衛的な核実験をおこない、核兵器を保有することに反対したのは、正しかったのか、正しくなかったのか。

 いったい、フルシチョフを中心とするソ連共産党指導部が、平和共存を対米追従にすりかえ、「米ソ2大国による平和」を最高の地位へまつりあげたのは、正しかったのか、正しくなかったのか。いっさいの革命闘争も、民族解放闘争も、ただ熱核戦争防止との関連においてのみ評価さるべきだといったのは、正しかったのか、正しくなかったのか。今日の力関係のもとで、「合理的な政治的妥協」に応じさえすれば帝国主義戦争と侵略をおさえることができるといったのは、正しかったのか、正しくなかったのか。

 アメリカ帝国主義をかしらとする帝国主義の戦争と侵略の政策とたたかい、諸民族の独立と世界の平和をかちとってゆく共同の事業の成否は、帝国主義に反対する国際的統一戦線の団結を破壊し、その反帝闘争の路線を日和見主義的な対米追従路線へそらしてゆく、現代修正主義の国際的潮流の日和見主義、分裂主義との闘争の成否とも不可分に結びついている。それは、ちょうど第1次世界大戦にさいして、帝国主義戦争に反対し、人民の解放をかちとってゆく国際的闘争の成否が、「祖国擁護」を口実に帝国主義者と同盟した第2インタナショナルの修正主義的裏切者たちとの闘争の成否とも不可分に結びついていたのと同じことである。

 アメリカ帝国主義との闘争と、現代修正主義に反対する闘争という、性質の異なった二つの闘争がはげしくたたかわれたこの数年間は、全体として国際共産主義運動を政治的にも思想的にも鍛練し、真のマルクス・レーニン主義を強化した。この数年間は、国際共産主義運動の歴史のなかでも歴史的意義をもつ数年間として記憶されることとなるであろう。マルクス・レーニン主義は、二つの闘争を結びつけてすすめたこの数年間に、アメリカ帝国主義を掘りくずし、現代修正主義を克服する戦闘的な力量をますます強化し、成長させつつある。

 わが党にとっても、また、この数年間は、党史のうえで重要な意義をもつ数年間であった。わが党は、この期間に、日本をなかば占領しているアメリカ帝国主義との闘争を回避しようとした春日庄次郎、内藤知周ら反党修正主義者の日和艮主義、解党主義の理論を粉砕し、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟する日本独占資本の「二つの敵」とたたかい、反帝反独占の人民の民主主義革命の勝利をかちとるという、マルクス・レーニン主義を世界と日本の現実に正しく適用した党綱領を確定した。

 わが党はこの期間に、フルシチョフら現代修正主義の国際的潮流と、それに盲従する志賀・神山ら売党修正主義者と断固としてたたかい、マルクス、レーニン主義の原則とプロレタリア国際主義を守り、1957年の宣言と1960年の声明の革命的路線と、党綱領の路線を守りぬいてきた。

 わが党は、この期間に、世界とアジアの人民とかたく連帯して、アメリカ帝国主義の戦争と侵略、抑圧と反動の政策と徹底的に対決してたたかい、日米安保条約を改定してアメリカ帝国主義との共同作戦態勢をかため、そのベトナム侵略に積極的に協力してきた日本独占資本の軍国主義、帝国主義復活政策とたたかい、独立、民主、平和、中立、生活向上をめざす日本人民の闘争の先頭にたって前進してきた。

 最近の参議院選挙と東京都議会選挙におけるわが党の躍進が示すように、これらの闘争のなかで、わが党は自覚的な平和、民主勢力のいっそう広範な支持と信頼をかちとり、新しい発展をとげつつある。内外の修正主義者のわが党にたいする党破壊策謀は日本人民から見はなされ、みじめに失敗し、日本共産党と人民との結びつきはいっそう強いものとなった。真のマルクス・レーニン主義は、日本でも勝利の基礎をきずきつつある。日来安保条約を廃棄してアメリカ帝国主義を日本から撤退させ、米日反動勢力を打倒して人民の新しい民主主義的権力をうちたてることをめざす日本人民の闘争は、かならず勝利するであろう。

 レーニンは、死の直前に「社会主義の終局的な勝利は、完全にまた無条件に保障されている」として、つぎのようにのべた。

 「闘争の結末は、全体としてみれば、地球上の住民の絶大な多数が、結局のところ、当の資本主義によって闘争するように訓練され、教育されるという根拠にもとづいてのみ、予見されることができる。闘争の結果は、けっきょくのところ、ロシア、インド、中国などが、住民の圧倒的多数を占めていることにかかっている。ところがまさにこの多数の住民が、近年、異常な早さで、解放闘争にひきいれられており、したがって、この意味では、世界的闘争の終局的解決がどうなるかについては、いささかの疑問もありえない。この意味では、社会主義の終局的な勝利は、完全にまた無条件に保障されている」(「量は少なくても、質のよいものを」、全集第33巻、522-3ページ)

 アメリカ帝国主義をかしらとする帝国主義の戦争と侵略、抑圧と反動、搾取と収奪の政策は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの住民をはじめ全世界の人民を闘争するように訓練し教育しつつある。そして、この帝国主義に追随した現代修正主義の裏切りは、マルクス・レーニン主義者だけでなく、労働者階級と人民を実例によって訓練し、教育しつつある。労働者階級と人民に依拠し、これとかたく結びついた国際共産主義運動が、現代修正主義の日和見主義、分裂主義、大国主義の路線を最終的に克服し、国際共産主義運動の統一をかちとり、いっそう強大な前進と発展をかちとって、帝国主義との闘争に最終的な勝利をおさめることはうたがいない。社会主義と共産主義の終局的な勝利は、文字どおり完全にまた無条件に保障されているのである。

(『日本共産党重要論文集』第3巻より)