日本共産党資料館

国際政治は湾岸戦争から何を教訓にすべきか

一九九一年三月六日付「赤旗」論文

 湾岸戦争は二月二十八日、事実上終わった。イラクによるクウェート侵略・併合に終止符が打たれ、イラクは侵略・併合の無効、それにたいする賠償責任などを定めた一連の国連安全保障理事会(安保理)の決議の受諾を表明した。これは、歓迎すべきことである。だが同時に、この湾岸戦争を無条件で肯定できるのかという疑問も、まちがいなく広範な世論が実感しているところである。独裁者フセイン大統領のもとでイラク国民のこうむった災厄は、はかりしれないものがある。しかもこの戦争は、イラク国民に災厄をもたらしただけではない。原油の流出や油井の炎上、それらによる経済的損失と海洋、大気など自然環境の破壊の問題もある。ワルシャワ条約機構の事実上の解体にもかかわらず、湾岸戦争の結果によって、軍事同盟、軍事力、さらには核戦力までもがその「有効性」を実証したかのような観を呈している。アメリカが「世界の「警察官」としてふるまい、日本などはそれに無条件で財政的支援をあたえることが当然であるかのような雰囲気もかもしだされている。
 いったい、この戦争はなんだったのか、どういう戦争だったのか、この戦争から何を教訓とすべきなのか、これを冷静にみきわめておくことが重要である。それは、いかなる地域においても二度とこのような事態―イラクのような蛮行や戦争行為をくりかえさせないためにも、また、関係諸国の戦後の復興問題、中東地域の真に公正な平和の実現のうえでも、さらにこんごの国際政治のあり方という大きな問題にとっても、重要不可欠の課題になっている。

  一 イラクの侵略主義、覇権主義を助長したもの

 湾岸戦争問題の元凶がイラクであることは、いうまでもない。イラクのクウェート侵略がなかったら、この戦争はもともとありえなかった。イラク・フセイン政権は昨年八月二日、とつじょ大軍を動員して石油資源に富む隣国クウェートを侵略し、占領した。そして「イラクの第十九番目の州」として、これを併合してしまった。すべての事態は、ここから発している。
 それから半年余りの後、同政権は、経済制裁とこんどの戦争によってはかりしれない打撃をこうむったうえに、このクウェートを手放すのはもとより、クウェートにあたえた損害などへの賠償をも課せられることになった。イラクが得たものは何もなく、失ったものは巨大である。クウェート侵略をあえておこなったフセイン政権の側に、自国の軍事力への過信、アラブ諸国民の支持をえて「アラブの盟主」たらんとする自己への過信など、重大な誤算があったことは、あきらかである。
 フセイン政権のクウェート侵略という蛮行はなぜおこったのか。なによりも重大なこととして、侵略主義や覇権主義が徹底的な反撃をうけることなく、それがかえって育成されてきたという国際的背景を見落とすことはできない。そうしたなかで形成されてきた軍事的、覇権主義的なフセインの体制が、クウェートへの侵略を生み、湾岸戦争を招来したのであり、最後まで頑迷かつ固陋(ころう)だったのである。
 フセインの覇権主義は、はやくから指摘されてきた。彼は、一九七九年七月に大統領に就任する以前から革命評議会副議長として実権をにぎり、一九七九年五月のイラク共産党の非合法化や国内の少数民族クルド族の弾圧などで、その覇権主義をしめしてきた。決定的なものは、一九八〇年からのイランへの侵略戦争だった。フセインは、イランとの国境をきめたアルジェ協定(一九七五年)を破棄し、公然としたイラン領への攻撃によってイランへの侵略戦争を開始した。これは、フセインの覇権主義の最たるものだった。しかし、この侵略は国際的な糾弾をうけるどころか、フセインは大国から援助されたのである。こうした経験から、フセインは、こんどのクウェート侵略の蛮行がこれほどの国際的反撃をうけるなどとは考えてもみなかったのである。
 この戦争の前年一九七九年に、イラクの隣の大国イランでパーレビ王政が打倒され、イスラム教シーア派のホメイニ政権が生まれるという、いわゆるイラン革命が起こった。パーレビ王政は、アメリカと相互防衛条約で結ばれ、アメリカの中東戦略の重要な柱だった。新政権は、この条約を破棄し、アメリカの中東支配の道具であった中央条約機構(CENTO)を脱退し、アメリカと対立した。このイラン革命の翌年、イラクはイランに大規模な攻撃をしかけたのであり、それ自体、イスラム教シーア派の伸長を阻止し、また、中東でのイラクの地位強化をはかるという、覇権主義そのものに発するものだった。
 ところが、このイラクの侵略にたいし、諸大国も国連も、原則的な態度をまったくとらなかったばかりか、諸国はこぞってイラクに軍事援助をあたえたのである。イラン新政権の弱体化をのぞむアメリカは、一九八三年いらい、従来ソ連に近くアメリカと対立することの多かったイラクに積極的に軍事援助をあたえるようになった。すでに一九七二年に軍事的内容をもつ友好条約をイラクと結んでいたソ連はもちろん、フランスなどもイラクへの軍事援助をつよめた。イラクへの最大の軍事援助国はソ連だった。こうした結果、イラクは対イラン戦争開始時に二十二万の兵力が、戦後には百万にとふくれあがり、中東随一、世界有数の軍事大国にのしあがった。そして、フセインの侵略主義者としての頑迷ぶりも増長の度をくわえ、国際的な民主的概念など眼中にない横暴ぶりにたっしたのである。
 このイランへの侵略の問題とともに、もう一つあげなければならないのは、パレスチナ問題、とくにイスラエルの不法な占領の問題である。第二次大戦の直後から、パレスチナの地にユダヤ人国家とアラブ人(パレスチナ人)国家を建設する問題、いわゆるパレスチナ問題をめぐって、四次にわたる戦争(中東戦争)がくりかえされてきたが、問題の公正な解決はいまだになされていない。これは、中東全体の根本問題である。とくに一九六七年の第三次中東戦争いらい、イスラエルがヨルダン川西岸地域、ガザ地区、ゴラン高原の一部を占領しつづけている問題は、同年十一月の国連安保理決議二四二号が「最近の紛争で占領された領土からのイスラエル軍の撤退」を要求しているという、きわめて具体的な問題であるにもかかわらず、まったく解決されず、不法不当な占領がいまも継続している。
 国連は、イラクのクウェート侵略にたいしてとはまったく異なって、二四二号決議いらい、イスラエルの占領地からの撤退をもとめる決議、しかるべき措置をとれという勧告などをくりかえしてはきたが、そのための積極策をこうじることはついになかった。それが、イスラエルときわめて密接な関係にあるアメリカの策動の結果であることはいうまでもない。イスラエルは、中東地域におけるアメリカのもっとも親密な国、同盟国に近い存在として、アメリカの中東政策の柱である。アメリカは、そういうイスラエルの侵略主義、覇権主義を容認し、支持し、パレスチナ問題、イスラエルの不法な占領問題の解決を一貫して妨害してきたのである。たとえば、昨年十一月二十九日に国連安保理がアメリカなどにイラクへの武力行使を容認する決議を採択してから一週間後の十二月六日、国連総会は、占領地からのイスラエルの撤退などを原則とするパレスチナ問題の解決のため、中東国際和平会議の開催をよびかける決議を百四十四カ国の賛成で採択したが、これに反対したのはイスラエルとアメリカの二国だけだった。
 フセインは、中東での覇権をめざすなかで、その「大義名分」としてパレスチナ問題の解決を掲げ、今回のクウェート侵略のなかでも、クウェートへの侵略から十日目の昨年八月十二日いらいつい最近まで、クウェート問題解決の前提としてパレスチナ問題の解決をもとめる「リンケージ(関連づけ)」論を展開し、アメリカの行動が対イスラエル、対イラクでまったく異なるではないか、「二重基準」ではないかと非難しつづけた。もちろんこれがみずからの侵略の合理化論にすぎないことは明白であるが、それにしてもパレスチナ問題の解決を妨げてきたアメリカの態度によって、フセインの主張はアラブ諸国民のなかに一定の影響をもちえたのである。パレスチナ問題をめぐるアメリカや国連の長年の態度が、フセインの侵略主義、覇権主義を助長したことは、あきらかである。
 以上のような事情が、フセインのイラクの侵略主義、覇権主義を物質的にも励まし、昨年八月のクウェート侵略へとみちびいた。これまでの中東世界で、侵略主義、覇権主義が、事実上野放しにされ、ときには支持・奨励されてきたという厳然た事実、そして、そのうえで国連および国連安保理常任理事国である大国が重大な問題をもっていたという事実――これは、湾岸戦争をふりかえる場合、元凶を元凶たらしめた問題として、決定的に重大な教訓とされなければならない。

  ニ イラクのクウェート侵略への世界の一致した糾弾の意義――なぜ帝国主義戦争といわないか

 イラクのクウェート侵略にたいし、パレスチナ問題やイラン・イラク戦争などの場合と異なって、国際社会がきわめて敏速に反応したのはなぜか、さらに武力行使というやり方についても、これに一定の諸国が参加し、さらに多くの国が支持したのはなぜか、という問題がある。
 前提問題として、イラクのクウェート侵略があまりにも野蛮なむきだしのものであり、フセインの態度の傲慢(ごうまん)さがそれをいっそううきぼりにしたことがあげられる。経済的に豊かな隣国を力で蹂躙(じゅうりん)したばかりか、そこに自分のいいなりになるかいらい政権をうちたてて間接的に支配するというやり方でさえなく、直接自国に併合してしまうなどという侵略は、第二次世界大戦後の世界では例をみないものである。このような無法を許してはならないという世論が、世界的に急速につよまった。しかも、その世界の糾弾にたいするフセインの対応は、無法このうえない「人質作戦」の展開であり、大言壮語や不誠実きわまりない態度であった。世論の糾弾がいっそうつよまったのは、当然である。
 そのうえに、米ソそれぞれに思惑や事情はあるにせよ、戦後はじめて国連で米ソ協調体制ができつつあったことが、重要な条件となった。米ソはともに、「冷戦後の新しい世界秩序」の形成を口にし、イラクのクウェート侵略問題への対応はその「試金石」であるとの立場をとった。それは、現実には、ワルシャワ条約機構の事実上の解体のなかで、「世界の警察官」として第三世界をふくむ全世界に君臨しようとするアメリカの世界戦略に、「新しい思考」路線にたつソ連が積極的に協力するという意味での、アメリカ主導の米ソ協調によるイラク問題への対応であった。
 そのもとで、国連安保理はイラクのクウェート侵略が発生したまさにその日、昨年八月二日にイラクの行動を「侵攻」と断定し、イラクの即時無条件撤退を要求する決議六六〇号を採択したのを手始めに、事態の発展に即して次つぎと合計十二本の決議を採択した。そのうち十一番目の決議までは、国連を中心にして、しかも非軍事的手段、世論による包囲と経済制裁の徹・強化によって、イラクを追いつめてゆくことを基本とするものであり、国連憲章の精神にも基本的に合致する正しい対応であった。そうであるからこそ、これらは世界の世論の結集と高揚に役立った。不法な侵略にたいし、事情や経緯がどうであれ、国連がこうして迅速に基本的に正当に対応したのは、国連の歴史にてらして画期的といえるものだった。
 しかし、昨年十一月二十九日に採択された十二番目の決議六七八号は、それまでの基調と大きく異なるものとなった。そこでは、イラクが一九九一年一月十五日までにクウェートから撤退しない場合、「クウェート政府に協力している〔国連〕加盟諸国」(いわゆる「多国籍軍」参加諸国ということになる)に、「安全保障理事会決議六六〇一九九〇年)とそれに続くすべての関連決議を支持、実施し、当該地域における国際の平和と安全を回復するうえで必要なあらゆる手段を行使する権限を付与する」ということがうたわれた。これは、文面からあきらかなように、これまでの決議の延長線上にたつ形をとりながら、国連中心ではなく、特定の諸国、アメリカを中心とする「多国籍軍」参加諸国に権限を付与し、委任する、2非軍事的手段、経済制裁の強化ではなく、「あらゆる手段」、すなわち軍事的手段を容認するの二点でそれまでの十一本の決議と根本的に性格を異にするものだった。
 日本共産党は、アメリカがこうし決議の実現のためにさまざまな外交工作をおこなっている段階で、安保理十五カ国政府にたいし、このような決議を採択しないように訴え、決議が採択されたことにたいしては、ただちにこれに厳重に抗議し、この決議でも第五項で「問題の検討を続ける」と確認されていることもふまえ、ひきつづき平和的解決の実現のための努力をよびかけた。さらに、決議がイラクのクウェート撤退の期限とした今年一月十五日の直前にも、安保理十五カ国にたいし、フランス提案にもとづく平和解決の具体的努力を要請してきた。しかし、周知のように一月十七日には戦争が開始され、それは最後の四日間の地上戦闘もふくめ四十三日間にわたってつづいたのである。
 この戦争には、世界の二十八カ国が直接軍隊や艦船を送ってこれに参加した。少なくない国がこの戦争を積極的に支持した。わが国にかんしても、国民のなかにとまどいはあるものの、事態の進行のなかで、やむをえないものという意味でこの武力行使を支持する人が少なくなかったことを、世論調査の多くの結果がしめしたが、これは、けっして理由のないことではない。
 この戦争は、まず第一に、戦争に参加した個々の国にそれぞれの思惑や目的があるなどさまざまな問題はあっても、その中心目的にイラクのクウェートからの撤退の実現を掲げた戦争であった。そして、その目的は、現実の結果としても達成され、達成されたところで戦争は基本的に終了したのである。この戦争の展開のなかで、バグダッドなどイラク領内への爆撃その他がおこなわれたことをもって、イラクのクウェートからの撤退実現という戦争目的が変更された、戦争が変質したとみるのは、妥当ではない。また、アメリカを中心とする「多国籍軍」の軍事活動自体も、大局的には、この中心目的に制約されざるをえなかった。この戦争を「多国籍軍」側の帝国主義戦争、侵略戦争などと定義づけることは誤りである。そのことを、厳密にみておく必要がある。
 第二に、この戦争は、国連そのものがおこなった戦争ではけっしてなかったが、同時に国連決議にもとづく形をとって、国連の支持のもとにおこなうという状態を、少なくとも形式上はもっていた戦争である。そしてその国連はイラクのクウェート侵略にたいしては、昨年十一月までは基本的に正しい対応をしてきた。国連決議がしめした目的がまちがっていなかったことをも加味して考えるなら、この戦争が国連の戦争でないにしても、それに近いもの、不正義を制裁する性格を帯びたものとしてうけとられたとしても、不思議ではなかったのである。
 こうしてこの戦争は、世界の歴史のなかにも類例をみない、きわめて特殊な性格の戦争であった。日本共産党は、戦争のこうした性格を正確にみて、これに厳密に対応してきた。戦後の問題をみる場合でも、こうした対応を堅持することが、重要である。

  三 戦争への批判点はどこにあるのか

 では、この戦争の問題点、われわれの批判点はどこにあるのか。結論を先にいえば、平和的解決への努力が不十分なままに急ぎ過ぎた戦争であり、しかも国連の責任と指揮のもとでおこなわれるのでなく、アメリカなどに全権を委任してしまった戦争であったという点である。
 国連憲章の基本精神は、紛争の平和的解決の徹底追求である。憲章第一条は、「国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって」実現することをもとめ、同第二条は、すべての加盟国にたいし「国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決することを強調している。また、紛争当事国にたいしてさえ、憲章第三十三条は、「いかなる紛争でも平和的手段による解決を求めなければならない」と義務づけている。
 イラク問題にかんして、国連が憲章第四十一条の経済制裁を発動して、イラクを追いつめる方向を追求した十一番目までの決議は、この憲章の基本精神にたったものだった。もちろん憲章は、以上のような基本精神にたちながらも、侵略者にたいする軍事的制裁がありうることを認めている。第四十二条では「安全保障理事会は、第四十一条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる」と定めている。あきらかなように、「第四十一条に定める措置」すなわち非軍事的制裁措置をつくしてもなおそれでは不十分であることを確認したときにのみ、軍事的制裁が発動される規定になっている。さらに、この武力行使が憲章の基本精神からみて重大であるだけに、憲章は、この武力行使が安保理の指揮、監督下でおこなわれるよう、第四十三条以下で武力行使発動のさいの手続きなどを具体的に定めている。
 したがって、イラクのクウェート侵略にたいしても、国連による武力行使が絶対的に否定されていたわけではなく、問題は、それが必要不可欠になったと判断され、必要な手続きを経ておこなわれたかどうかという点である。これは、国連憲章の基本精神にも直接かかわるきわめて重要な問題である。その点で、十二番目の安保理決議六七八号と、それにもとづく武力行使は、重大な問題をはらんでいた。
 国連による侵略国への武力制裁、武力行使は、国連憲章第四十二条の発動以外にない。そして、この第四十二条の規定にてらしてみてすぐあきらかになる重大問題は、「第四十一条に定める措置」すなわち経済制裁では「不充分であろう」、あるいは、「不充分なことが判明した」という認定が、国連安保理によってなんらなされてはいなかったということである。むしろ逆に、米議会での証言や多くの識者の判定であきらかになっていたことは、経済制裁の効果をみるにはほんらい少なくとも一年程度は必要であるにもかかわらず、イラクにたいする経済制裁は、短期間にその有効性を明白にしめしつつあったということである。安保理は経済制裁開始から四ヶ月もたたない十一月二十九日に、そうした検討はまったくぬきにして、関係加盟国にそれから一ヶ月半後の武力制裁の権限を委任したのである。これが、憲章の基本精神である、国際紛争の平和的解決への徹底した努力という立場に根本から反すること、そして武力行使への「急ぎ過ぎ」であることは、明白である。しかも、重大なことは、この「急ぎ過ぎ」ともかかわって、安保理はこの武力行使を発動するにあたり、六七八号決議の「問題の検討を続ける」という確認を実行せず、さらに国連憲章の第四十三条以下の手続き規定をも完全に無視して、安保理がこの武力行使を指揮監督するのでなく、米軍など「多国籍軍」に事実上全権限をあたえ、白紙委任してしまったということである。
 「問題の検討を続ける」という点にかんしていえば、一月十五日のイラクのクウェート撤退の期限切れ直前に、国連安保理は、フランスが提案した和平案をまともに検討することもなく、公式の会議を開くこともしないで、葬り去ってしまった。経済制裁の効果確認をなんらしなかったばかりか、平和的解決のための和平案の検討もなんらおこなわなかったのである。
 白紙委任の点にかんしては、デクエヤル国連事務総長のきわめて明確な発言がある。デクエヤル事務総長は、戦争開始から一ヵ月近くたった時点で、この戦争に事務総長としてなんらの実質的関与ができないことを事実上認めて、湾岸戦争は「国連の戦争ではない」と断言し、この戦争には「国連旗もなく、私はただ同盟国の報告で戦争の進行状況を知らされているだけだ。国連がこの戦争の責任を負っているとはいえない」とのべた(二月九日付フランス紙ルモンドとのインタビュー)。また、「この戦争は標準的な国連の戦争ではない。作戦には国連の指揮がなく……軍事参謀委員会の参画もなんらないのだ」「この戦争についてわれわれが知っていることは、関係している安保理の三カ国つまりイギリス、フランス、アメリカから聞くこと、行動がおこなわれた後、二、三日ごとに安保理に報告してくることである」(二月十一日付イギリス紙インディペンデントとのインタビュー)とものべている。
 こういうやり方の結果、戦争開始の時期、戦争にもちいる手段、戦争の規模、具体的作戦などの決定が、すべて事実上アメリカにまかされ、国連や安保理はそれらになにひとつ関与できないことになった。事実、国連は開戦の日時の決定にまったく参画していないし、地上戦突入の是非の決定や時期の選定などにもまったく関与していない。核兵器が使用されることになったとしても、国連としてその計画を事前につかむ保障はなにもなかったし、したがってそれを阻止する条件もまったくなかった。また、戦争突入後、国際的に和平の動きがでたさいも、その内容の吟味・検討や、停戦などの措置をふくむそれへの対応の決定にも、国連はまったく関与できず、それはすべて事実上アメリカにゆだねられたのである。
 国連安保理が、イラクへの経済制裁の効果をまともに検討することもなく、武力制裁を急がなければならない理由は絶対になかった。武力制裁にふみきるにしても、国連としての指揮監督の体制をなんらととのえることなく、特定の諸国にすべての権限をゆだねてしまわなければならないような理由もなかった。戦争を急ぎ過ぎたことが重大な問題をもっていることは明白であり、これは、湾岸戦争の結果がどうであったにせよ、不問に付することは絶対にできない問題である。  日本共産党は、「湾岸戦争反対」のスローガンを掲げてこの急ぎ過ぎの戦争に反対し、一貫して平和的解決を主張するとともに、日本政府がこの戦争に手をだすことに反対してきた。この態度こそが、国連憲章の基本精神にも、日本国憲法の平和原則にも正確に合致するものである。国連憲章は先にみたように、国際紛争の平和的解決を徹底して強調している。これは、同憲章前文がその冒頭で「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与え戦争の惨害から将来の世代を救い……」とのべているように、二つの世界大戦の痛苦の経験からみちびきだされたもっとも切実な教訓である。端的にいえば、それは、二度と戦争を許さないということである。平和を回復するためだから、無法者を制裁するためだからといった理由で、安易に戦争・武力行使に訴えるようなことを絶対に認めず、平和的解決にとことん力をつくすというのが、国連憲章の基本精神なのである。日本国憲法の基本精神もまた、この国連憲章の精神とまったく共通している。憲法前文はやはり冒頭で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し……」と明確にのべ、日本が第二次世界大戦の放火者となった反省にたって、ふたたび戦争を許さないという決意を内外に宣言している。日本国憲法第九条において、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を明確に規定しているのは、その点で国連憲章の精神をさらに徹底させるものにほかならない。この規定の誠実な実行は、まさにあの侵略戦争の誤り、日本国民自身にも、また、アジア諸国民にも巨大な災厄をもたらしたあの誤りを、絶対にくりかえさない最大の保障である。この第九条の厳守、誠実な実行を要求することが、あたかも、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という憲法の前文の規定と矛盾するかのようにいう海部首相らの主張は、この反省の視点をまったく忘却した議論にすぎないというだけでなく、国連憲章や日本国憲法が掲げる理想の全世界的な意義をなんら理解しえない幼稚な議論なのである。
 国連は、非軍事的手段をつくした後、ほんとうにやむをえない場合において、軍事力行使に訴える必要が生じうることを認めているが、そういう国連の武力行使にかんしても、それへの各国の参加、かかわりについては、憲章自身が「各自の憲法上の手続に従って」憲章第四十三条第三項)と規定しているように、画一的・無条件的参加をもとめる立場をけっしてとっていない。これも、諸民族、諸国家の同権と自決権の尊重こそが平和の保障であるという、第二次大戦への反省にたった、国連の理想から発している重要な立場なのである。
 以上のような国連憲章と日本国憲法の基本精神にてらしてみるなら、自民党、民社党、公明党などが、今回の湾岸戦争を「国連の戦争」であるかのように主張して、それへの日本の協力を当然視しているのは、二重にも三重にも誤っていることは明白である。第一に、この戦争が国連の戦争といえるものではなかったことは、国連事務総長自身が明確にのべているところである。第二に、国連が指揮監督する戦争であったとしても、国連憲章にてらしても、日本がその戦争に無条件に協力する理由はまったくないが、この戦争は、国連が指揮監督する戦争であるどころか、国連憲章の精神にも反した急ぎ過ぎの戦争だったのである。そして第三に、国連憲章と日本国憲法の共通する精神が、日本のため、また世界のために、日本にもとめているものは、経済大国となった日本が、他の大国と同様の道を歩むのでなく、まさに紛争の平和解決の大道を、堂々と歩むことなのである。

  四 アメリカはなぜ戦争を急いだのか

 戦争を事実上アメリカに委任し、国連の関与をみずから否定する昨年十一月二十九日の安保理決議六七八号は、アメリカ自身がその実現のためにあらゆる努力をつくし、十五の理事国すべてにたいする働きかけもおこなって、最終的にキューバとイエメンの反対、中国の棄権、他の十二カ国の賛成で成立したものだった。急ぎ過ぎの戦争がなぜおこなわれたのかという問題は、結局のところ、なぜアメリカは平和的解決を最後まで追求する立場をとらず、戦争を急いだのかという問題に帰着する。
 その点にかんしては、すでにこの決議の直前の昨年十一月二十二日、日本共産党第二回中央委員会総会での不破委員長の報告が、正確な分析をおこなっている。
 「アメリカやイギリスは平和的解決への努力をたちきり、軍事力の攻撃的な行使によるイラクの軍事的制圧という方向につきすすもうとしています」「アメリカはこの作戦をすすめるために、国連決議がなくてもこういう行動を開始できるように、そのための軍事的政治的準備をすすめる一方、あわよくば国連の軍事行動容認決議をえようとして、ソ連、中国への了解工作をはじめ、中的な外交活動を展開しています」「アメリカがこのように国連決議の枠をこえてイラクにたいする軍事的制圧をしきりに急ぐ根本には、第十九回党大会で指摘したアメリカの新しい世界戦略があります。米ソ接近という体制のもとで、アメリカの世界戦略をどう構築するか。それは、『世界の憲兵』の役割を果たすという名目で、アメリカが核戦力などを世界的に配備し西側の軍事同盟を維持再編する、そして、『力の政策』による世界の軍事的制圧をめざす、こういう危険な計画であります。これは、ソ連の側の軍事ブロックが解体傾向にあり、そしてソ連がアメリカ接近の政策をとっている状況を活用しての、あらたな軍事ブロック体制構築の計画であります」
 二中総報告はさらにつづけて、レガン米政権時代国防次官補をつとめた人物の論文を引いて、アメリカは「世界で残った唯一の超大国」であり、「ポスト冷戦時代」には、「国際的な無法行為」をおさえる力をもっているただ一つの国である、「何ものも、この決断力のある、意思明確なアメリカの指導力には代わりえない」、アメリカが湾岸危機にさいしてとった軍事行動に「弁解がましい気持ちになる必要」はさらさらない、むしろ「中東全域に持っている防衛関係の強化に思い切って歩を進める」べきだなどとのべていることを紹介し、「ブッシュ政権自体が、すでにこうした立場から、イラク制圧後の中東における新軍事同盟の構築まで日程にのぼせていることは周知のことであります」とのべている。
 こういう戦略を遂行するうえで、アメリカにとってもっとも望ましかったのは、国連がアメリカに軍事行動を白紙委任することによって、軍事行動の自由を確保するとともに、国連の容認という形の「大義」の旗を手にすることであった。まさにそれにかなうものとして、六七八号決議の採択にアメリカは全力をつくしたのだった。
 この決議の前から湾岸地域の米軍を大量に増強し、他の「多国籍軍」の増加ももとめていたアメリカは、この決議をえた後は、よりいっそう公然と、アメリカの主導のもとに、しかも軍事力の行使によって、イラクのクウェート侵略問題に決着をつけるという道を既定のものとしてつきすすんだといえる。
 一月十五日までにイラクがクウェートから撤退しなければ十六日以降は武力行使が可能になるという六七八号決議を背景にして、一月九日にはじめてイラクとアメリカの外相会談がジュネーブでおこなわれたが、アメリカはイラクにたいし、クウェートから撤退するかそれとも戦争かとせまっただけで、それ以上の交渉はすべて拒否した。
 期限切れを目前にした一月十四?十五日の国連安保理非公式協議のなかでだされたフランス提案は、戦争を回避し、平和的解決に道を開く可能性をもつものだった。この提案は、イラクのクウェートからの撤退を先行させ、その後にパレスチナ問題の解決などをふくむ中東国際会議の開催をうたったもので、クウェート侵略の合理化と継続をねらうフセインのリンケージ論とはまったく異なるものだった。同時に、パレスチ問題の解決にも方向性をしめすことで、フセインの侵略合理化論を打破し、アラブ諸国民の世論をもっとも効果的に結集しうるものだった。これを、安保理の意思として決定し、それをもってせまるならば、イラクを追いつめる可能性が大きく存在した。アメリカの意図にそって実現したものであるとはいっても、六七八号決議自体、十六日から武力行使をせよと定めたものではけっしてなく、フランス提案にそってイラクを非軍事的に追いつめる時間は十分にあったのである。
 日本共産党は、このフランス提案の内容を評価し、ただちに安保理十五カ国にたいし、この提案の方向で問題の平和解決をはかることをよびかけた。われわれのその後の調査によれば、フランス提案にたいし、安保理十五カ国のうち、十一ヵ国がこれを支持した。安保理理事国でない一連の諸国、ドイツ、イタリア、スペインなどアメリカの同盟諸国、エジプト、サウジアラビアなど「多国籍軍」参加のアラブ諸国もこれを支持した。イラクの国連大使も歓迎の意をあらわした。ところが、アメリカはイギリスとともに、この案が「リンケージ」であるとして強硬に反対し、この案を葬った。それによって、イラクのクウェートからの撤退期限切れ前の平和的解決の道を完全につぶしたのち、期限切れからわずか十数時間後に武力行使にふみきったのである。
 この事態の経過は、アメリカが、国連安保理の主導による平和的解決の可能性を絶対に容認せず、みずからの主導による軍事的解決のみを追求したことを、きわめて鮮明な形でしめしている。この間のフランス政府の言動にこの提案と矛盾する点がみられたとしても、事態の本質は明白であった。
 アメリカは、この戦争遂行にあたって、「多国籍軍」側の犠牲を最小限にするために努力したといっている。それは事実であろう。しかし、戦争による解決が追求される結果となったことで、イラク人民側の犠牲はどうだったか。これについてアメリカはなんら具体的な発表をしていないが、すさまじい規模での空爆と地上戦にはいってからのイラク軍せん滅作戦によって、非戦闘員をふくイラク側の死傷者数は、数十万の規模にたっするという見方もなされている。また、イラク側がやったことであるが、この戦争で油井の炎上、原油のたれ流しなど自然環境の破壊がもたらされた。イラクがクウェートから撤退したからといって、戦争を急ぎ過ぎたアメリカの態度を、無条件に容認するわけにゆかないことはあきらかである。たとえ解決に時間が多くかかったとしても、国連憲章にもとづく平和的解決の道が徹底的に追求されるべきだったという問題は厳然として残るのであり、大国の思惑を優先させてそれを断ち切ったという問題は、絶対にあいまいにされてはならないのである。
 また、こんごの中東の平和の構築にあたって、戦争の実績があるからということで、アメリカの一方的な思惑を優先させてはならないのである。

  五 ソ連はなぜ無原則的な態度をとったのか

 国連安保理六七八号決議は、アメリカに武力行使の白紙委任をあたえ、イラクのクウェート侵略問題の平和的解決の道を断ち切る役割を果たし、イラクのクウェートからの撤退の実現という基本目標のわく内ではあったが、湾岸戦争の基本性格を規定するものとなった。この決議が、それまでの十一本の決議と根本的に性格を異にし、国連憲章の基本精神を侵犯して武力行使を急ぐものであり、しかもそれに国連の権威だけをあたえ、国連の関与をうばうものであることは、決議の当時から明確なことだった。
 このような重大問題をもつ決議が、たとえアメリカの強力な働きかけがあったにせよ、安保理を通過してしまった背景の一つとして、イラクの蛮行への糾弾という国際的世論の高揚があったことを見逃すべきではない。しかし、さらに現在の世界政治の大問題の一つとして、次のような問題がある。
 国連憲章の規定からいって、安保理常任理事国の一つでもこれに反対していれば、それは拒否権の行使となって、この決議の実現ははばみえた。一月の武力行使の直前の段階で、フランスが安保理非公式協議に提出した和平案に、安保理十五カ国中十一ヵ国が賛成しても、アメリカが強硬に反対すれば成立が不可能だったように、十一月の安保理でもフランスにせよ、中国にせよ、ソ連にせよ、どれか一国でも反対を断固として貫いたなら、六七八号決議は葬ることができたのである。
 しかし、このときの安保理では、フランスはアメリカに同調し、中国は棄権し、ソ連は賛成した。安保理では、もともと五つの常任理事国すべての賛成がなければ決議は成立しないということが明文で規定されている(国連憲章第二十七条の三)。それを厳密に解釈すれば、中国は棄権したのだから、この六七八号決議は本来不成立だったのであり、米軍などの武力行使は、国連憲章とはまったく無関係だったことになるのである。実際は、この明文規定に反する長年の慣行によって、これが不成立とはみなされなかっただけである。こうした重要問題を、ただ慣行上容認されるとするようなやり方は、こんごの国際政治にあってはならないものである。
 最大の問題は、ソ連がこの決議に賛成したことである。なぜソ連はこの決議に賛成したか。ソ連の外交が、「新しい思考」などと称しながら、つまるところまともな原理原則もなく、場当たり的な実利主義にもとづく対米協調という路線を走っているからにほかならない。実際、アメリカや西側からの対ソ経済援助の強化やバルト諸国でのソ連の強硬策にたいする西側の沈黙などが、この決議へのソ連の賛成と取引きされたとの報道は数多いし、それを裏付けるような現実の事態の経過もある。しかもソ連は、一月の国連安保理非公式協議にフランス提案がだされたさい、アメリカやイギリスとともに、この提案をつぶす側についている。
 この湾岸危機、湾岸戦争の経過のなかで、ソ連の外交の無原則性はあますところなくあきらかになった。すでにみたように、ソ連は、イラクへの強力な武器援助国であり、イラクを軍事大国におしあげるうえで中心的な役割を果たした。イラク軍の主力戦車はソ連製であり、イラク軍の主力ミサイルも原型はソ連からのものだった。国連での態度としては、ソ連は当初、アメリカとともに、イラクへの経済制裁という基本的に正しい方向を推進した。しかし、その一方でソ連は、イラクに送り込んだ数千人の軍事経済協力要員をいっきにソ連に引き揚げてイラクへの強硬姿勢をみせるという道をとるどころか、できるだけ長期にイラクに滞在させる道をとり、さらにイラク軍人にソ連領内で訓練をほどこすなど、イラクにきずいたソ連の影響力をなんとか保持しようとつとめてきた。
 二月に入ってからソ連がイラクとの調停に動いたことについていえば、和平への意図を否定するものではないが、やはり実利主義にもとづくものといえよう。すなわち、一つには、大国としてなんとか和平に努力したという形だけととのえたいという思惑であり、もう一つには、ソ連が影響力をもつ政権をなんとか維持したいという思惑である。事実、ソ連が調停してイラクとのあいだで合意した和平案には、イラク軍の三分の二がクウェートから撤退したらイラクへの経済制裁を解除するとか、すべてが撤退したら国連の諸決議を無効にするなどという、イラク擁護の項目が明確にふくまれていた。
 これら、一連の事実からあきらかなように、ソ連はイラクを軍事大国におしあげるうえでソ連が果たした重大な役割に、なんらの反省もくわえることなく、イラクへの経済制裁に同意しつつ、その制裁を破り、アメリカに迎合して武力行使容認の重大な決議に賛成しつつ、イラクの体制の擁護をはかるという、まったく無原則的な態度をとりつづけてきたのである。

  終わりに

 湾岸戦争は事実上終結した。世界がもとめつづけてきたイラクのクウェートからの撤退は実現した。しかし、この結果をよしとして、この結果にいたる経過のすべてを肯定することは絶対にできない。
 二月二十八日、湾岸戦争の事実上の終結にあたって志位書記局長が発表した談話が次のようにのべていることの意味は、以上の論理から明白だろう。

 「国際社会が、この結果から、この地域に戦争による巨大な惨禍をもたらしたこれまでの経緯のすべてを是として、軍事的解決優先という結論をひきだすとしたら、それは世界政治の今後にとっても重大な錯誤となるであろう。国連憲章の基本精神は、あらゆる国際紛争にたいし、平和的解決を最優先させ、この可能性の実現のために可能なあらゆる努力をつくすところにある。日本共産党は、イラクのクウェート侵略をきびしく糾弾しつつ、国際社会がこの問題を非軍事的手段によって解決すべきことを一貫して主張してきたが、この基本的立場は、今後とも国際政治の諸問題に対処するうえで、ひきつづき重要な意義をもつことを確信している」

 同様に、中東の現実、湾岸危機と湾岸戦争にいたる経過のなかで大国が果たした否定的役割にてらして、湾岸と中東全体のこんごにかんして、同じ談話が次のようにのべていることの意味もまた、きわめて鮮明であるといわなければならない。

 「終戦処理と戦後の復興などの諸問題は、この地域のすべての諸国・民族の自決権の厳格な尊重を基礎に、特定の大国の覇権主義の思惑によらず、国連の責任のもとに推進されるべきであり、中東に真に公正な平和を回復することがもとめられている」