日本共産党資料館

ソ連邦の解体にあたって

一九九一年十二月二十三日 日本共産党中央委員会常任幹部会

 、十二月二十一日、アルマアタでひらかれたソ連邦構成共和国首脳会議は、十一ヵ国の参加のもとに、「独立国家共同体」の創設を決定、「ソ連邦を廃止する」通知文書を採択した。これによって、ソ連邦は名実ともに解体・消滅することになった。

 、政党としてのソ連共産党の解体と、連邦国家としてのソ連の解体とは、次元を異にする問題ではあるが、「歴史的巨悪」としての覇権主義が、解体にいたる決定的な要因となったことでは、共通の歴史的な状況がある。
 ソ連邦は、一九二二年十二月、その成立にさいし、諸民族の自発的な意思にもとづく連合および脱退の自由をふくむ民族自決権の徹底した尊重を宣言して、出発した。これらの原則は、スターリンの大ロシア覇権主義に反対するレーニンの闘争をつうじてかちとられたものであった。
 しかし、レーニンの死後、民族関係の民主的諸原則は、スターリンによって根本的にふみにじられるようになった。ヒトラーとの秘密協定にもとづくバルト三国の強制的な併合(一九四〇年)は、その最たるものだった。さらに、ソ連邦に加盟してきた諸民族のあいだでも、中央権力の官僚主義的・命令主義的支配によって民族の自主的権利がふみにじられるという状態が、長期にわたってつづいた。この状態は、ペレストロイカのもとでも、基本的に改善されなかった。むしろ、ゴルバチョフ指導部は、バルト三国の独立要求にたいする弾圧的な態度にみられたように、この問題でもスターリン、ブレジネフいらいの覇権主義をうけつぎ、諸民族の主権にたいする抑圧者としてふるまいつづけた。
 ソ連邦解体への動きは、八月のクーデターとその失敗以後加速されたが、その最大の根源は、スターリンいらいの覇権主義および、その害悪にたいするゴルバチョフ指導部の無自覚と無反省にあった。

 、ソ連邦が解体して「独立国家共同体」が創設されたことは、ソ連問題がこれで解決されたことを意味するものではない。連邦の解体後、それぞれの共和国が、経済危機の解決をふくめ、どのような進路をすすむかは、こんごにかかる問題である。この問題は、基本的にいって、その共和国の人民が、自身の国民的な体験をふまえて解決してゆくべき問題である。
 大局的にいって、ソ連邦の解体とともに崩壊したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、事態はいかなる意味でも、科学的社会主義の破たんをしめすものではない。しかし、ソ連共産党の覇権主義と命令主義の誤りが長期にわたり、また重大かつ深刻であっただけに、ソ連を構成していた諸国では、現在、社会主義そのものの否定論や資本主義待望論もつよくあらわれており、その前途には、多くの曲折や模索、さまざまな試行錯誤が、長い歴史的時期にわたってつづくことも予想される。
 十二月六日の党常任幹部会の見解「科学的社会主義の世界的な運動の発展のために」があきらかにしたように、日本共産党は、「歴史はここでも、真に人民多数の利益にそった社会的前進が、資本主義への復帰の方向にはありえないことを実証し、自主的で健全な社会主義の再建の道を探究することこそが、その社会と人民の切実な要求となる状況を、やがては生みだすであろう」ことを、長い視野にたっての展望とするものである。

 、世界平和にとって重要な問題は、ソ連がもっていた核兵器がどうなるか、の問題である。旧ソ連邦領内の核兵器は二万七千発にのぼるともいわれ、その処理をめぐっては、民族間紛争の可能性やさまざまな危機的な事態のおそれとも関連して、国際的にも危惧(きぐ)が表明されており、この問題は、新しい「独立国家共同体」が対応すべき緊急かつ最大の問題の一つである。
 日本共産党は、関係共和国が、核兵器の保有を前提とした議論や措置に終始するのではなく、核兵器のすみやかな完全廃絶を他の核保有諸国にもよびかけ、その方向で問題の抜本的な解決にあたることを、つよく希望する。また国際社会の全体にたいしても、ソ連邦の解体とともに生まれた新しい情勢を、核兵器廃絶にすすむ積極的な転機とするために、あらゆる努力をかたむけるべきことをよびかけるものである。

(「赤旗」一九九一年十二月二十四日)