日本共産党資料館

『週刊文春』のひきつづく反共記事とその破たん

一九九三年四月二三日 日本共産党国際委員会責任者 佐々木陸海

 日本共産党の佐々木陸海国際委員会責任者は四月二十三日、『週刊文春』の反共記事について次の談話を発表しました。

 「ソ連資金受けとってない」という反論に新たな裏付け

 、『週刊文春』四月二十九日号は、日本共産党がソ連共産党から多額の秘密資金をうけとったとするデマ攻撃をつづけているが、皮肉なことに、その内容は、日本共産党が党として資金を要請した事実はないし、党の財政にそういう資金が流入した事実もないというわれわれの反論の正しさに、新たな裏付けを与えるものとなっている。

 「日本の党中央」なるものは干渉でできた「北京機関」そのもの

 、今回、同誌が「新たな証拠」としてあげているものは、「日本共産党中央委員会北京局」なるものからの、紺野与次郎、河田賢治、袴田里見、西沢隆二の四人連名による一九五五年一月十三日付の資金要請書である。しかし、この「北京局」なるものこそ、まさに、党分裂時の分派組織、ソ中両党指導部の干渉のもとにつくられた「北京機関」そのものである。
 『週刊文春』の攻撃にたいする私の反論(四月十八日付「赤旗」)のなかで、この当時の資金援助とは、ここへの援助以外にはありえないと断じたが、今回同誌が提出した「新たな証拠」によってそれが裏付けられたのである。「証拠」の文書などに出てくる「日本共産党」、「日本の党中央」などの言葉も、「北京機関」およびそれにつながる分派組織以外のなにものをも意味しない。大村英之助名義の一九五二年九月六日の受領証も、「北京機関」の指導下の人物、組織への資金援助をしめすものである。

 五〇年問題の本質への無知をさらけだす

 、『週刊文春』は、ソ連文書にでてくる「日本共産党」や、「北京局」名での四人署名の文書などにでる「党中央」などが、正規の日本共産党そのものを意味しているとして、わざわざ傍点をうって重視してみせている。しかし、それは、『週刊文春』の執筆者が、日本共産党の歴史的な五〇年問題の当時の事態にまったく無知であることをさらけだしているだけのことである。ソ連、中国とも、スターリン、毛沢東をはじめとして、北京に亡命した日本共産党員の一群が日本共産党の正規の代表であるかのような誤った認知を前提にしていたことは、一九五九年に毛沢東が宮本書記長に正式に謝罪したことである。これは、五〇年問題の本質の一端であった。正規に開かれた第七回党大会以後、それが、組織的、系統的に解明されたのである。

 許せない「赫々たる党歴」の操作

 、日本共産党は一九五五年七月の「第六回全国協議会」を経て、一九五八年七?八月の第七回党大会で統一を回復したが、その際、分裂時に誤った立場をとったからといって個々の幹部を排除するのでなく、党分裂と極左冒険主義の誤りを認め党の統一を回復してたたかう意思をもつすべての人を結集する態度をとった。「北京機関」の代表者だった野坂参三や袴田らが、それを悪用してその後もさまざまに画策したことは、すでに明らかにしているとおりである。「北京局」として中ソに資金援助を要請した四人のうち、若干名が十数年の歳月を経て日本共産党の国会議員に選出されるにいたったのも、「北京機関」当時の行動が大衆的に是認されたからではなく、第七回党大会以後の五〇年問題の総括を経て、第八回党大会で確定した綱領の路線にもとづいてたたかったからにほかならない。『週刊文春』が「赫々たる党歴」としてもちあげて、これらの人物のソ連への資金援助要請に象徴される活動やその自主独立路線をふみにじる活動ぶりが、あたかもその「赫々」さのなかに入っているかのような印象を与える操作をおこなっていることは許せない。

 まとがはずれ、宮本議長の先見性をきわだたせるものに

 、『週刊文春』は、「北京機関」の四人連名の資金要請書や大村英之助への資金援助をもちだして、今度も宮本議長が「知らなかったはずがない」とくりかえしている。しかし、一九五〇年から五五年の時期は、日本共産党中央委員会は解体、分裂していたし、宮本同志は当時、徳田、野坂らの分派組織とそれにつながる「北京機関」なるものから徹底的に排除され、除名カンパニアの対象にもされていたのであるから、もともと「知るはずがない」ことである。それを、「知らなかったのは疑問が残る」などというのは、当時の党の解体・分裂状況への無知をさらけだすだけであると、重ねて指摘しておこう。
 『週刊文春』はまた、ナウカ書店に関連した袴田の個人的「口ぞえ」のソ連側懇談記録のなかに、宮本同志の名前があったことで、鬼の首でもとったように、「宮本議長が知っていた」ことにしようとしている。だが、これは、袴田が自分の個人的行動を党の公式の行動といつわるために、「野坂と宮本も同意した」と語ったものでしかない。懇談の当事者ペトロフ記者にさえ、それなら「どうして正式決定を出すことができないのか」と見抜かれているほどである。『週刊文春』は、今回の連載を、宮本議長の責任追及の場にしようともくろんだものの、ことごとくあてがはずれ、逆に日本共産党の自主独立路線とその先頭に立った宮本同志の先見性をきわだたせるものとなったのである。

 ソ連覇権主義の亡霊と手を結んだ反共雑誌の無能力さ

 、私は先の反論で、『週刊文春』が、旧ソ連共産党にあって日本共産党への干渉と攻撃の中心的実行者であったコワレンコを通じて、ロシアの「極秘資料」なるものを入手したことを指摘しておいたが、今週の同誌は、私の反論をうんぬんしているにもかかわらず、同誌とコワレンコとのみにくい癒着の問題についてはまったく口をとざしている。『週刊文春』が、旧ソ連共産党の覇権主義の典型の一つである秘密資金の問題で、よりによってそのソ連覇権主義の亡霊と手を結んで、覇権主義とたたかいぬいた日本共産党を攻撃するなどということは、ソ連覇権主義の害悪も、またそれとのたたかいの意義も、まったく理解できない反共雑誌の無能力さを告白するものとしかいいようがない。

 『文春』こそ雑誌倫理綱領への重大な背信行為

 、当時書記長であった宮本同志にかんしては、この時期の談話・論文集『新しい日本への道』全三巻(百七編)も証明しているように、ソ連共産党および中国共産党のそれぞれの露骨な干渉と全力をあげて文字どおり全党の先頭に立ってたたかってきた。こうした同志と全党の健闘があったからこそ、ソ連覇権主義を敗退においこむことができたのである。日本共産党にソ連、中国からの金が入っているという、当時もあったデマ攻撃への断固とした否定をふくめ、宮本同志は一貫して日本共産党の自主独立路線の理論的実践的活動をきりひらいてきた。それだけに今日の反共主義者は、『週刊文春』のように、宮本同志を標的として、手をかえ品をかえて攻撃をくわえてくる。しかし、無知とソ連覇権主義の亡霊とが手を結んでの今回の筋書きも、これまでの反共攻撃と同様に、もろくも崩壊したのである。『週刊文春』は、宮本同志の「背信行為」なるものを云々しているが、それはまったく見当違いの倒錯した議論である。このような反共主義的倒錯こそが、「真実を正確に伝え、記事に採りあげられた者の名誉をそこなうような内容であってはならない」という雑誌編集倫理綱領への重大な「背信行為」であることは自明である。
 この攻撃に、有田芳生が参加しているが、彼は一九九〇年に日本共産党を除籍された人物で、いまや反共主義の立場に完全に転落して参加している。ここにもどんな転落者をも利用する『週刊文春』の反共攻撃の醜悪さがしめされている。

(小見出しは赤旗編集局)

(「赤旗」一九九三年四月二十四日付)