「そぞろごと」 与謝野晶子
山の動く日来る。
かく云えども人われを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
ひとよ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女いまぞ目覚めて動くなる。
(来る=きたる 女=おなご と読む)
「君死に給うことなかれ」を斎藤孝は戦争批判の詩とし、この「そぞろごと」の詩を「官能派」の晶子らしいと解説している。すべて眠りしおなごが性を指すのか精神を指すのか誰か教えられたい。だが詩や芸術は右脳の産物である。革命や戦争について論理脳ー左脳でしか考えられない理屈やでは何一つ生まれないだろう。情動が人間を行動に駆り立てる。性ととるのも精神ととるのも左脳での判断ならば詩の生命は失われるのかもしれない。
僕はこの詩を昨日はじめて読んで感動している。
山のように動かないと思える天皇制と軍部の支配する時代も女達の目覚めた力でいつか必ず動き出すのだと。でないとまるで山は女のマグマを持った肉体のように取れ、まさかと思うのである。
僕の誤読、我田引水と笑われるかも知れないが、揺るぎもしないかのように見えるこの国の体制、ますます反動化し、戦争への坂道を滑り落ちていくように見える時代、日本共産党までが体制に取り込まれ戦争に反対しなくなった時代、それでも山は動くのだと僕は信じるのである。
歴史は天才や英雄,あるいは政治家が作るのではない。歴史は民衆が動かすのだ。民衆の力こそが偉大であり山をも動かし、海を真っ二つに裂けさせることもできるのである。
共産党が裏切った。だからどうだというのか。最後の砦といえる憲法についても共産党に期待してはならない。だからどうだというのだ。僕らは党が憲法問題でも屈服し人民を裏切ることを折込済みのことにして戦っていかねばならない。押せば押す、引けば押す。民衆が党を乗り越える。山は必ず動く。誰が信じなくとも。
山を動かす。この信念を凛として守り、生き抜いてやる。
天邪鬼に対する批判がある。しばらく待って出尽くしたところで答えさせてもらおう。