『編集部コメント』読ませていただきました。
現代日本において共産党がなお有している相対的進歩性について、『さざ波』編集部が決して軽んじているわけではないこと(もっとも、前回の投稿で私が言ったのは、ただたんに“改良主義であっても擁護するだけの価値がある”ということではなく、今日においては改良主義で“さえすら”反体制的で“あらざるをえない”のであり、それは今日の政治的危機の深刻さの現れである、ということであり、編集部の見解とはずれが生じています)、今後も党内にとどまり困難な戦いを継続される覚悟でおられること、理解しました。
その上でなお、疑問な点があるため、再度投稿します。
なぜ編集部は、共産党の革命的再生を“目指そうとすら”しないのでしょうか(ヒゲ-戸田氏の投稿への編集部コメントにははっきりと「「共産党の革命的再生」…戦略的目標とすることはできません。」とあります)。
共産党が、民主党並みに日本の支配層や保守世論にとって受け入れ可能な水準にまで転落した、というのであれば(それはもはや改良主義でさえないでしょう)、その革命的再生は“不可能である”ばかりか“目指す価値すら”ないでしょう。
あるいは、共産党がなお一定評価しえる存在だとしても「当該に、共産党に変わりうる社会主義的左翼勢力が、議会でも一定の地歩を築けるほど大衆的基盤を有しているなら…あるいはまた、社会全体が急進化し、人民の嵐のような運動が巻き起こ」り「右傾化した共産党が下からの運動によって投げ捨てられ」ようとしているのであれば(不破政権論 半年目の総括(下))共産党の革命的再生が“可能であろうと不可能であろうと”何もわざわざ全力を挙げて取り組む“必要のある”課題とはならないでしょう。
しかし現実には、共産党は「その右傾化にもかかわらず、なお広い意味での革新陣営の一部で」あり「今日においても、護憲勢力であるし、相対的に進歩的な勢力で」「今後も改良主義政党として相対的に進歩的であるだろう」政党です。一方、共産党に変わりうる有力左派政党は今日の日本には皆無であり、労働運動をはじめとする社会運動全般も衰退の一途をたどっています。
このような状況の中、一体なぜ『さざ波』が「(不破指導部から)思想的・イデオロギー的な意味で」党内の「救える部分は最大限救い出す」こと、「党員たち…が不破綱領の精神に毒されることなく、本来のマルクス主義、共産主義の立場を固持する」こと、「マルクス主義の立場とこれまでの革命的伝統を守り発展させ、そうした左派党員の陣地をできるだけ広げ」ること、そして「共産党の最良の部分を守」り「その部分的強化をもたらす」ことに、自らその目標を“限定”しなければならないのでしょうか。たとえ「共産党の最良の部分を守」り「強化」したとしても、共産党が改良主義政党であること自体を放置するのであれば、それはどこまでいっても“改良主義を部分的に補強するだけ”にすぎないのではないでしょうか。
近年、春闘において、主要労組が賃上げ要求そのものを掲げないことも、めずらしくなくなりました。雇用の維持が最優先、経営側から賃下げさえも提起される中、賃上げなど不可能、今の賃金水準、賃金体系の維持だけでも精一杯、…、…。では、賃上げを”要求しなかった”事で、果たしてどれだけの雇用が守れたのでしょうか。どれだけ賃金水準や賃金体系の破壊を阻止できたというのでしょうか。高い目標を“その高さのみをもってして”放棄したことで、果たしてどれだけの“現実的”成果がえられたというのでしょうか。
不破指導部は、社会主義革命を、天皇制や自衛隊の廃止を、当面実現不可能として、いつ来るとも知れない遠い未来に先送りすることで、日本全体の右傾化の前に屈服しました。ならば『さざ波』もまた、実現不可能であることを理由に、共産党の革命的再生を放棄したことで、共産党全体の右傾化の前に屈服したといえるのではないでしょうか。
「党の改革が結果的に可能なのか、不可能なのかということは、この基本路線とは無関係です。もし結果的に不可能であったとしても、党内部の左翼的世論を結集し、それを組織化し、党内部の議論を活性化させ、党員の政治的力量を高める活動は、結局のところ無駄にはならないのです。」(不破政権論 半年目の総括(下))とあるように、共産党の革命的再生を追求する活動は共産党が再生不可能な際に左派党員がとるべき行動と相反するものではなく、一連、一体のものなのです。だからこそ、共産党の革命的再生を目標とし、それに向かって活動することは、その目標の実現可能性が“証明できようができまいが”なんら否定されるものではないのです。
共産党に依然として革命的再生を図るだけの価値があり、なおかつ、今日の情勢において共産党の革命的再生が必要でもあるならば、どうしてそれを目標として“すら”掲げないのでしょうか。どうして党の内部においては「党員たち(が)…本来のマルクス主義、共産主義の立場を固持する」ために、そして「マルクス主義の立場とこれまでの革命的伝統を守り発展させ、そうした左派党員の陣地をできるだけ広げ」るために「常に意識的な働きかけ」をしておきながら、共産“党”自体は改良主義政党のまま留め置いてそれでよし、とするのでしょうか。
もう一度言います。共産党の右傾化に目を奪われるあまり、いたずらに動揺してはいけません。『さざ波』はその原則的立場を固持すべきなのです。
<編集部コメント>丸楠夫さん、再度の投稿ありがとうございます。ご質問の件について、またそれと関連する問題について、いちばん重要な論点を二つに絞ってお答えしたいと思います。
1、「改良主義でも反体制的であらざるをえない」点について……丸さんのおっしゃるように、資本主義の衰退期、政治的反動期においては、何らかの本格的な改良を目指すあらゆる試みは、必然的に反体制的なものにならざるをえないし、われわれがこれまで何度も述べてきたように、場合によっては資本主義の枠組みさえも突破せざるをえません。まさにそれゆえ、共産党指導部が展望している「資本主義の枠内での民主的改革」の路線は非現実的なのです。
しかし、このことから出てくるのは、共産党が本格的な改良主義を最後まで堅持して資本主義の枠組みと衝突することも恐れないだろうという展望ではなく、資本主義の枠組みと衝突したり、支配体制と本格的に衝突したりすることを避けるために、改良主義の内容そのものをもしだいに後退させていくだろう、という展望です。実際、共産党は、天皇制問題、自衛隊問題、労働運動の諸問題、消費税問題、その他多くの問題において次々とこれまでの水準を後退させていっています。これは、それぞれの実践的現場、とりわけ労働現場ではもっと深刻です。国労問題をはじめとして、共産党系の大衆団体は各地で労働者の利益を裏切る行動をとっています。指導部および党の中核部分に関しては、すでに真面目な改良主義からさえ脱落しつつあり、裏切り的「改良主義」に堕しつつあります。
2、「あくまでも党の革命的再生を目指すべき」という点について……物事には常に一定の限度というものがあります。共産党がどうなってもあくまでもその革命的再生を目指し続けるというのが、非現実的な対応であるのは明らかです。むしろこちらからお尋ねしたいのは、丸さんは、共産党がどこまで変質したら革命的再生の可能性がないと判断するのか、です。その客観的基準を教えていただきたいと思います。
党にとっての生命は綱領と規約です。規約が前回大会で全面改悪され、綱領が今回の大会で全面改悪されました。そして、いっそう問題なのは、これまでの共産党のすべての革命的伝統と理論的立場を否定するような大改悪に対して、ほとんどまともな抵抗が党内で起こらず、大会の場においてもわずか1票の反対(しかも中身には反対ではないという水準)しかなかったという厳然たる事実です。ほんの数年前までまったく異なったことを言っていた党幹部たちが、手の平を返したように新理論に迎合し、それこそ正しく展望を与えるものだと得々と述べている様は、まさに卑劣のきわみであり、腐敗と堕落の底なしぶりを示すものです。この点をしっかりと直視するべきでしょう。
しかし、たとえ革命政党としては再生不可能でも、もう少しまともな改良主義政党として機能することは可能ですし、そうするべきでしょう。何も、党全体が革命的でなくても、労働者に基盤を持ち相対的に進歩的な役割を果たしうる大政党の中に左派が長期的に基盤を作るという戦略はこれまでもあったものです。ただ決定的な問題は、日本共産党は内部に左派の組織的登場を許さないようなスターリニスト的規約と体質を持っていることです。しかし、この決定的な制約は、インターネットという新しいコミュニケーション手段の登場によって部分的に打破することができるようになりました。
こうした観点に立つなら、長期的に党内で基盤を維持し、それを広げていくことによって、共産党が改良主義政党としても完全に破産した場合に、新しい大衆的左派政党の可能性を党外の左派勢力と共同で探っていくことができるようになるでしょう。