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靖国参拝と小説「逃亡」

2004/1/8 おくびょうもん、60代以上、ペンショニヤ

 知人に真珠湾攻撃の生き残り(参加者)がいて、靖国には毎年参拝し、戦争はすべきでないというのだが、小泉はこれを支持し、死んだら棺おけに「旭日日章旗」をかぶせてくれと遺言している人がいる。彼から、キスかをめぐり粛々と真珠湾に向けて出撃したしたお話を聞くとこちらの「えり」も正される。軍部が南方占領戦略に転じて、彼の艦隊もヒリッピンに移動し、そこで彼らは、英軍の捕虜になった。英人から、彼の艦隊が撃沈した英国の軍艦には弟が乗っていた、と聞かされ、ともに戦争はすべきものではないと握手をしあった、とのお話は、何回聞いても感動的だ。
 さて、このお正月には、ははきぎ氏の作品である「逃亡」を読んだ。私は、そこで、「広島」や「靖国」に共通する問題点を見つけた。この作品は、珍しくも元憲兵の逃亡譚である。主人公の守田は、ついに捕まるのだが、もちろん戦犯としてである。この戦犯なる裁きが果たして公平であったのか、これが発見した問題点である。公平なものもあったし、不公平なものもあった。不公平とは、冤罪である。「靖国」参拝は、公平であったかを問い直す作業をネグレクトするものなのだ。十派一からげで、味噌もくそも一緒に、過去の業績を封印するものである。このお陰をこうむったのは、もちろん幹部である。言い換えると、とかけの尻尾きりが多かった。
 「広島」についても、祈ることが半面で「非戦闘員の一挙殺戮行為」を不問に付している。
 とかけの尻尾きりは現在も行われるものであり、非戦闘員の殺戮もパレスチナやイラクで現在も行われている。
 戦犯とされたが実は冤罪であった人の名誉は回復されるべきであり、非戦闘員の殺戮には、損害賠償を伴う責任の追及が必要だ。靖国参拝や広島平和の祈りは、これらを故意に失念させている。