417へきるさん、いつも胸のすく投稿ありがとうございます。特に先ほどは、「車椅子議員への野次に対する怒り」、どうもありがとうございました。実は私は昨年まで417へきるさんと同じ都市に住んでおりまして、上記議員は私にとって元上司に当たります。なお、私も民主党は嫌いですが、前回衆院選小選挙区で417へきるさんが投票された候補は、上記議員がコアとして活躍している福祉NPOの活動にも協力して下さっています。(注;以上の記述は417へきるさんの投稿から推測したものですので、もし間違っていたらご容赦下さい。)
また、猪走さん、「全障連と全障研」(全障研は共産党系)についての投稿、どうもありがとうございます。浅学非才は百も承知ですが、これを機会に私の認識について書いてみたいと思います。
(あらかじめ申し上げますが、私は政治的には「みどりの会議」サポーターで、反戦問題についてはともかく、人権問題などに関しては、共産党は自民党よりももっと極右的な政党だと認識しています。また、司法試験合格まで福祉NPOで働いていたこともあり、極論すれば「全障研=差別主義者の団体」と認識しています。
もしかしたら皆さんのお気に触る表現があるかもしれませんが、以下の文章は、このような人間の投稿ということを踏まえたうえでお読み下さい。)
新谷さんも投稿されたように、全障研は「発達保障論」を基本理念としています。
これは一言で言えば、「障害者」には(「健常者」を目指して)発達していく権利があるのだから、その権利を保障していこうというものです。
具体的には、障害者が「発達していく」ための教育を推進しよう、ということで、例えば養護学校の建設を積極的に推進していきます。
働くという場面においても、「障害者を教育する機関」としての「授産施設」をどんどん作ることが中心になります。
しかし、これは、「障害者」の存在を認めず、「健常者」だけの社会を作ろうという発想だと思われます。以下、理由を述べます。
まず、虫歯の治療ならともかく、例えば両足の膝から下を切り落とした人を、二本足で歩けるようにすることが果たして現実的かどうかは、ちょっと考えて頂ければご理解頂けるかと思います。
また、養護学校建設をあまり推進すると、定員確保のため、普通学級に行きたがっている子ども、あるいは普通学級での教育を望む保護者の意向を無視して、無理やり養護学校に行かせる、いわゆる「障害児狩り」といった、憲法26条等に抵触しかねない深刻な人権侵害が生じます。障害児の普通学級へ行く権利、というのは多くの裁判でも争われているところですので、皆さんも聞いたことがあるでしょう。そしてこれは、普通学級から障害児をパージするということでもありますので、障害の有無を問わず、子どもたちから人間には多様性がある、という大事なことを学ぶ機会を奪ってしまいます。
ましてや、全障研系授産施設における、障害を持たない職員を「(障害者を健常者にしてあげる)先生」と呼ぶ、その傲慢な物言いには吐き気がします。
そもそも、発達保障論の論法というのは、「在日朝鮮人への差別をなくすには、朝鮮人を日本人にしてあげればいい」というのと全く同じことです。なぜこのような論法が「革新」の名の下にまかり通ってきたのか、どなたか教えて頂ければ幸いです。
一方、全障連は、(実態はともかくとして一応建前としては)障害があろうがなかろうが、そのような区別をすることなく、誰もが個性を尊重され、安心して暮らせる社会を作っていくことを目標としています。
もちろん、全障連も所詮人間が運営している団体ですから、色々間違いはありますし、特に経済面において、私の元職場のように障害のあるメンバーにも障害のないメンバーにも平等な待遇を保障している団体は少数派だと思いますが、人間のあり方としては、こっちの方が自然ではなかろうか、と思います。
また、全障研と同様の考え方は、全解連(共産党系の「部落解放」団体)にも見ることができます。つまり、「資本主義が健全に発展していけば部落差別はなくなり、部落は部落外と同化されるのだから、あえて部落解放運動をする必要はない」というものです。しかも、「そんなわけないだろ」と部落解放を求めて戦う人々に対し、激しい敵対をしてきたことは周知のとおりです。
もちろん、部落解放同盟の一部に見られる、「同和」の大義名分があれば環境破壊型公共事業を推進してもかまわない、といった発想は批判されるべきです。しかしながら、解同にいかに問題があれど、全解連の差別主義的発想が許されるものではありません。
そして、上記の根底にあるのは、単に共産党というよりは、共産主義そのものの資本主義との類似性ではないか、と思うのです。
共産党議員の方々は、国会論戦においてしばしば「消費拡大」といった言葉を連発しますが、資本論などを読んでも、「生産力発展のためには」といった表現が随所に出てきます。
結局のところ、共産主義も資本主義同様、地球の有限性に考慮することなく、ひたすら生産力発展を追い求めていく、そしてそのために役に立ちそうにない「障害者」は切り捨てていこう、また部落差別解消のためにはとにかく生産力を発展して部落を非部落化して行けばいいんだ、それ以外には何もする必要はないんだ、ということではないのでしょうか。
(余談ですが、イラク戦争の背景が石油利権にあることははっきりしているにも拘らず、いつまでも消費拡大だの、経済拡大だのといった石油資源を求めるようなセリフを吐いていることが、共産党など、旧革新勢力の反戦論が説得を持たない一つの要因だと思います)
むしろ、これからの時代においては、むやみに経済の拡大を求めない、それこそ「障害を持った人でもゆったり生きていける」ような良質の経済社会こそが、人類の生存を永続的にし、また過労死の悲劇も防げるとおもうのですが…
また、被差別部落に伝わる皮革文化は、これからの製造業に必要な「大量生産ではない、個性的なものつくり」
(これがきっちりできれば「中国の脅威」など、恐れるに足りません。時代が変わったにもかかわらず、大量生産という中国と同じ土俵で勝負しようとするから、そして政府も減税など大量生産を後押しするような経済政策ばかり採るから、いつまで経っても失業が無くならないのです。)
とも関連してくるものですから、あえて経済の拡大を望む必要はないと思うのですが…
そして、実はマルクスも、「ゴータ綱領批判」において、「労働はあらゆる富の源泉である、というのは間違っている。自然もまた富の源泉である。」と指摘しているのですが…
もちろん、ここ「さざ波」に投稿されている方の全てがこうした共産党の差別的方針に賛成している訳ではないでしょうし、私の意見はかなり一方的なものでもあろう、とは思いますが、一度「共産主義自体が差別を生むのではないか」という点についても考えて頂ければ幸いです。