「現在の新自由主義と帝国主義的グローバリズムの支配する時代においては、資本主義はもはや本格的な改良主義を許容することができず、それゆえ、資本主義の枠内でのみ本格的な改良主義を追求することは非現実的なものとなります。そのような努力は、改良主義そのものを絶えず後退させるか(右への解決)、資本主義の枠組みとの衝突も辞さない方向へ前向きに発展するか(左への解決)、のどちらかに分化することになります。」
「またこのような時代においては、いわゆる最小限綱領と最大限綱領を厳格に区別して、両者の間に万里の長城を築くことは非現実的であるとともに、反動的なものとなります。」
とありますが、これはつまり、今日では資本主義そのものへのラディカルな批判や、資本主義そのものと衝突し、それを突破しようとする明確な意思なしには、“改良主義的要素すら持ちこたえることができない”ことを意味するのではないでしょうか。
このような資本主義そのものとの対決姿勢がもともと希薄だった日本社会党や欧州の社民勢力が、現在の政治的・経済的危機を前にして、方や劇的な右転落の末崩壊し、方や“第3の道”などという詭弁のもと自らこれまでの改良主義的成果の破壊に手を染めていることは、その証明といえます。
一方、共産党がこれらの勢力と比べてその改良主義的要素を一定保持してこれたのも、資本主義への批判意識を不十分ながらも持っていたからといえるでしょう。
したがって、共産党が資本主義そのものへのラディカルな批判や、資本主義そのものと衝突し、突破しようとする明確な意思を、失えば失うほど、編集部も指摘されるとおり「改良主義そのものを絶えず後退させる」結果を招くでしょう。
ならば、共産党を“左派がその内部において活動するに足る”改良主義政党として保つためにも(そのためにすら)、資本主義とその支配体制そのものへの対決姿勢を共産党全体に持たせる必要があるのではないでしょうか。
党内左派が、せいぜい個々の問題や局面での党の後退是正というびほう策に終始し、資本主義とその支配体制そのものへの対決姿勢の欠落という根本的問題を放置するならば、それは共産党の右傾化をますます確実なものとし、党内で左派が陣地を構築するための時間を限りなく短くしていくことになるでしょう。
実現するかどうかはともかく、共産党が資本主義とその支配体制そのものへの対決姿勢を明確にするよう、とにかく党全体のケツをはたき続けること、それによって、最悪でも、共産党が改良主義政党としても破綻する日を1日でも長く先送りすること、そうして、左派が党内で陣地を構築するための時間を稼ぐこと、これ以外に党内左派がとりうるもっとも有効かつ現実的な対策が果たしてあるのでしょうか。
「レーニンはイギリス労働党をブルジョア政党とみなしつつ、その内部に共産主義者がとどまる戦術を肯定しました。」
とあります。当時のイギリス労働党について私はまったく不勉強なのですが、1年足らずの短命とはいえ、1924年には労働党内閣を成立させていることから、その内容はともかく、組織実態や支持基盤のあり方、広がりにおいては、“労働者階級の代表”といえるだけの大衆的な影響力を持った政党だったのではないでしょうか。
だとすると、日本で当時のイギリス労働党のケースに当てはまるのは、旧社会党、もしくはかなりの無理を承知で言えば、最大労組の連合を支持勢力に持つ民主党であって、決して共産党ではないのではないでしょうか。
共産党はその内容についてはともかく、これまで労働者階級の代表といえるだけの組織・支持基盤の広がりを持たず、現在も持っていません。「毎日、赤旗を早朝に何十万部も配れる力量、何十万、何百万という大衆組織を維持し運営している力量、何十人もの国会議員と何千人もの地方議員、そして何よりも三十数万の党員」(不破政権論 半年目の総括(下))は今後、共産党を労働者階級の代表といえる政党にしていく上で魅力的な足場にはなりえるでしょうが、これをもってして、共産党は労働者階級を(組織・支持基盤の実態から見て)代表している、というのは過大評価です。
現在の共産党をそのまま当時のイギリス労働党に見立てることは、レーニンの戦術が意図するところ(独自の組織を持つよりも、“現に”労働者階級を結集している大衆政党を通じて活動するほうが、労働者階級全体への共産主義者の影響力を大きくできる)とはズレてしまうのではないでしょうか。
現代日本でレーニンの戦術を採用するなら、共産主義者は、宿主である共産党の拡大と、その内部における自らの陣地の拡大を同時に追求しなければならないでしょう。
しかし、当時のイギリス労働党が労働者階級を幅広く結集できていたとすれば、それは、第1次世界大戦以前の、ヨーロッパの長い平和、広大な植民地という安定した貧困の輸出先の存在、政治的安定と経済的繁栄、そのそのもとでの改良主義政党としての成功、戦後はロシア革命に後押しされた左翼運動の世界的高揚、といった要因があったからではないでしょうか。
だとすれば、今後共産党のもとに労働者階級を結集していく上でも、当時のイギリス労働党のケースはほとんど適合しなくなります。
今日の日本で、共産党が労働者階級を代表している、といえるだけの組織・支持基盤の広がりを持つには、世論の右傾化に迎合していくか(一見簡単そうですが、実は行く手には民主党という強力なライバルがいます)、「労働者の種種の既得権を守る頑強な闘争を展開するとともに、それを足場にして真の民主主義的・福祉国家的課題の実現を目指す闘争」をするかのどちらかです。
当然、党内左派としては後者を目指す以外に選択の余地はないわけですが、果たして、共産党全体に資本主義そのものへのラディカルな批判や、資本主義そのものと衝突し、突破しようとする明確な意思を持たせることなしに、それが可能なのでしょうか。
もっとも、左翼運動が社会全体の中できわめて弱小なときは、とにかく“改良主義”を最大公約数にして幅広い現状変革派を結集する、という戦術はありえるでしょう(たとえば戦前の無産政党)。
戦前の無産政党においては、左派がその主張を党全体に押し付けようとするあまり、右派の反発を招いて、せっかくの結集軸を分裂させてしまう、ということになりましたが、現在の共産党においては、左派はあまりに劣勢であるがゆえに、右派をたたき出すことも、自ら飛び出すこともできません。このような状況ではむしろ、左派がその主張を、綱領・規約・指導部の左派的立場からの一新、という形で党全体に強く押し出すことは、左派の立場と党の危機的状況を広く明らかとし、左派の組織的劣勢を補う上でもけしてマイナスとはならないでしょう。
党全体に対するそのような主張の押し出しをためらうことは、かえって明確さを欠く態度と受け取られかねないのではないでしょうか。
戦前、共産党は大量の転向者を出しはしたものの、党の主流は最後まで非転向を貫きました。しかし、今、共産党は戦前の無産政党のように、党全体が転向しかねない危機にあります。そんな中、自ら左派党員をもって任ずる人々が、“党の革命的再生は不可能だ”などとすましていていいものでしょうか。
共産党と現代日本の危機全般を見据えた上で、左派がとるべき戦略・戦術が検討されなければならないのです。また、過去の事例を現在に適用するのであれば、双方の相違点と共通点がそれぞれ比較検討されなければならないでしょう。この2点を私は編集部に強く訴えます。
最後にもう一点。
「(イラク派兵問題については)客観的に不可能でも派兵反対を訴え続けるのだから…(共産党についても同様)革命的再生が客観的に不可能でも目指すべき、との議論を展開しています」
とありますが、それは誤解です。
私はただ、目標を掲げたり取り下げたりするに当たって、目標実現の必要性や、目標に向かって活動すること自体が持つ価値よりも、目標の実現可能性を重視してはならない、といいたかったのです。
例えが不適切だったのかもしれません。
では、個々の企業における労働運動ならどうでしょうか。
企業は「それ自体は自由意志で選択できる人為的な結社に過ぎません」。雇用労働は生計を立てるための手段であり(雇用労働以外で生計を立てる選択もあります)、どの企業に雇用されるか「それ自体は自由意志で選択でき」ます(この“職業選択の自由”がもっぱら“失業の自由”に過ぎないことは承知ています。ただ、「目標を達成する」上で、可能な限り有効な手段をとろうとすれば、おのずと選択の幅は狭まってくる、という点では政治運動でも似たようなものではないでしょうか)。
労働条件の悪い企業に雇用されている場合、さっさと辞めてほかの仕事を探すか、乾いた雑巾を絞るようにさらに働いて経営者・上司の覚えをめでたくして優遇されるか、あるいは労働組合を作って闘うか。
労働条件を改善「するのにどの手段を選択するべきかがここでは問われているのです」。
仮に、労働組合を作って闘うことを選んだとします。
企業側には解雇権や人事異動、人事考課などの名目で、組合員を首にしたり、ばらばらに引き離したり、他の労働者から孤立化させたり、切り崩して寝返らせたりできます。労働委員会や裁判の救済は時間がかかるし、企業側が自分に都合の悪い証拠を出すはずもなく、逆に自分に都合のいい証拠をでっち上げることさえその気になれば容易でしょう。それを労働書側が究明するのは難しいことです。ほかにも困難は山のようにあるでしょう。目標実現の“可能性”を“客観的基準”にもとづいて“証明”することはかなり難しそうです。
と、労働者たちが頭を悩ませているところへ“マルクス主義者”が現れて『自由意志で選択できる人為的な結社の中で、実現可能性が客観的基準に基づいて証明できないような目標を追うよりも、労働法制改悪阻止やイラク派兵中止といった「人々がそこからの離脱を自由に選択できない包括的存在であり、生活と運動の客観的枠組みである」社会全体にかかわる目標を追及したほうが、同じく実現可能性は証明できないにしても、はるかに有意義だ。』
と言ったとしたら。
そんな話をマルクス本人が聞いたら、
『私はマルクス主義者ではない』
と言うことでしょう(たぶん)。
「問題の次元を混同」することを避けなければならない、といって、やたらと特別を設けることから自己欺瞞までの道のりは、わずかな一歩なのではないでしょうか。
<編集部コメント>簡単にコメントします。
1、「実現するかどうかはともかく、共産党が資本主義とその支配体制そのものへの対決姿勢を明確にするよう、とにかく党全体のケツをはたき続けること、それによって、最悪でも、共産党が改良主義政党としても破綻する日を1日でも長く先送りすること、そうして、左派が党内で陣地を構築するための時間を稼ぐこと、これ以外に党内左派がとりうるもっとも有効かつ現実的な対策が果たしてあるのでしょうか」。
このことについてわれわれはただの一度も否定したことはないのですが…。したがってまた、「せいぜい個々の問題や局面での党の後退是正というびほう策に終始し、放置するならば」という仮定も妥当しません。われわれは今までも今後も、この「根本的問題」を放置などしません。この問題を常に取り上げつづけ、徹底して批判しつづけます。どうして、党全体の革命的再生が不可能であるという判断をしたからといって、こうした根本的問題を放置することになるという結論が生じるのでしょうか? 社会党が革新の大義を裏切り、もはやその革命的再生が不可能であると共産党が判断したからといって、社会党への批判が部分的なものに突然限定されたり、びほう策に終始したりしましたか? そんなことはありえないでしょう。多くの新左翼はとっくに共産党を裏切り者と決めつけていますが、彼らがそう判断したからといって、「資本主義とその支配体制そのものへの対決姿勢の欠落という根本的問題を放置」したでしょうか? 逆により批判を強めたのではないですか?
2、企業の例に変えても同じです。問題は変革の道具として何を選ぶのか、ですから、企業は社会変革のための組織ですか? どうせ別の例を出すのならば、労働組合の例を出すべきです。完全に腐敗した組合が存在するとして、そこで左派労働者はどうするべきかを問うべきです。あくまでもその組合にとどまってその組合の再生を目指すのか、別の組合をつくるのか、あるいはその中間の立場を取るのか、です。また、いずれの場合でも、この組合に対する根本的問題での批判をしつづけるでしょう。