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一般投稿欄

障害者と戦争 kさんへ

2004/2/17 天邪鬼、60代以上、画家

 長壁さん 心配していました。またあえてよかったです。災難にあって大変でした ね。だが挨拶は後回しにします。それよりも今から書くこと、Kさんによんでもらっ てください。

 kさんへ
 はじめまして
 私も三級障害者です。「左下肢の機能全廃」が私の障害名です。私は67歳です。物 覚えがつく前にポリオが日本全国に流行し同年輩に小児麻痺が多いのです。数年前ま では一本松葉でしたが四国での個展中に転倒して腰の骨を強打し、2本松葉になって います。今ではポリオは世界からなくなりました。生まれるのが早すぎたのです。
 わたしは戦前生まれですので戦争中障害者の子供がどんなにつらい差別の中にあっ たか、小さな「私ばなし」で恐縮ですが少しお話します。実は障害者という述語を誰 が作ったのか知らないしこの言葉にさえ反感を覚えます。昔は私たちのことをやさし くいうときは、「不自由な」という形容詞を使いました。「目の不自由な人、足の不 自由な人。」そのような言葉にはやさしさを感じます。
 当時わたしはまわりの大人や子供達にチンバと呼ばれていました。産めよ、増やせ の世のなかです。子供達をたくさん生ませて男の子ならば兵隊に育てるのが軍国主義 の国の方針でした。しかし体の不自由な人間はこの国にいらない存在でした。だから、 赤ちゃんであろうと幼い子供であろうと、公然と差別したのです。
 小児麻痺にかかったときは小さかったので左足の不自由は母にもさほどの苦にして なかったかもしれませんが大きくなるにしたがって一方の足が成長し悪いほうの足の 成長がおくれ増す。肩をゆすり片足を引きずって少しずつ歩けるようになると母の心 配は日に日に深まるのでした。
 母はなんとか私の足をよくなってほしいと必死になって思いつめていたのでしょう。 生駒山のとなりに石切神社があります。私の最も古い記憶ですが、母は私を背中にお んぶして神社の長い階段を登り、祈祷師にお払いをしてもらいました。そのときの母 の背中のぬくもりが今も残っているような気がします。それから母は祈祷師に柄杓で 汲んもらった冷水を私の足に振り掛けては撫で回し、手を合わして拝んでいたのでし た。この年になってもそんな母を思い出します。おかしなものですね、母は57歳で 死んでいるから私は10年も年上です。でも[母ちゃん」と時々心で呼ぶときはわた しは子供で母の姿は若いのです。
 学校に入る前のことです。母は私を家の表に立たせ少しはなれたところにしゃがん で「ここまで歩いてみて]と両手を差し出すのでした。私が歩くと[もっとまっすぐに 歩くのや]とまた離れます。何度も繰り返したあとで母は「もういいよ」と悲しそう にいうのでした。それは学校に入って他の子や先生にひどい目にあわされないかとい うことが心配だったからです。
 やっぱりだめですね。ちんば、ちんばと物心がつく頃から後ろ指さされていると劣 等感が骨の髄までしみこむのです。[僕はあかんのや]いつもそう思い込むから、1年 生になって文字を教えられてもイロハニホヘトのカタカナも書けなかったし、算数も まったくわからなかったので先生も同級生も「シュンチャンはチンバだけやない、精 薄や」と馬鹿にしていました。
 昭和18年といえば戦争が激しくなり食糧難でみんなひもじい時代でした。学校では 給食があったのですが私はそれを食べることが出来ませんでした。となりの机の前田 君が給食のパンを放課後に裏門に持って来いというのです。わたしはパンを食べたふ りをしてランドセルに隠すのです。かえりに裏門に行くと前田君が待っています。[ 明日もやぞ]前田君はそういってその場で私のパンを引ったくって頬ばるのでした。
 毎朝登校すると全校生が運動場に並ばされ校長先生の訓示を聞かされます。それは 戦意高揚の話ばかりです。直立不動で聞かねばならないからでしょうか、栄養失調の 生徒の何人かはパタパタとあちこちで倒れるのです。訓示が終わるとみんな東を向き 最敬礼をしたまま「うみゆかば]を聞かされるのです。
 うみゆかば みずうくかばね
 やまゆかば こけむすかばね
 おおきみの
 その後は忘れました。この歌は戦死者の祭られる靖国神社に向かって最敬礼する生 徒達の頭の上を流れていくのです。私たちがなぜ小泉の靖国神社参拝に反対するかの 一つの理由です。イラクに行っている自衛隊員も殺されれば靖国神社に入れられます。

 全校生の行進がよくがあります。これも兵隊になる訓練です。
 その朝も、全校生の行進がありました。1年生から二列縦隊で校門から出て町の中 を行進するのです。私は先頭のほうの縦隊にはいっていました。
 「右向け右」
 「前へすすめ」
 私は懸命になって歩調をあわせて歩こうとします。
 「イッチ、ニー。オイッチ、ニー」
 朝日が路上に私たちの列の影を映していました。その影の中で私の影がひどくゆれ ているのに合わせて他の仲間もそのまねをして後ろからついてくるのが解ります。私 と一緒に足を引きずり、肩を揺らせて「オイッチ、ニー。オイッチ、ニー、」とつい てきて大きな声でみんなで私を馬鹿にするのです。そのうち私は何かにつまずいて倒 れました。すると私の上に後ろの連中は将棋倒しになって何人ものしかかりました。
 そのことがあったのをとなりの子から母が聞いて翌日学校に母が行きました、母は 担任の教師に靴下と柱にかける鯉の陶器の花瓶を持っていって「体操や行進は見学さ せてやってほしい」と頼んだのでした。私の脳裏には教室の柱に懸けられた紅い鯉の 花瓶がまだ残っています。
 しかしある日、担任の森川先生が休み、代わりの先生が授業を受け持ちました。体 操の時間でした。あれからは見学が許されていたので私は教室に一人残っていました。 すると代理のその先生が現れいきなり腕を引きずって校庭のみんなの前に立たせほっ ぺたを殴りました。びんたなのです。戦争中はどんな生徒でもびんたなんかはざらに 食っていました。しかし忘れもしないことはその先生は私を冬だから、水を抜いたプー ルの底に立たせラジオ体操をさせたのです。それは見せしめだったのです。先生はプー ルサイドから見下ろしてわたしを怒鳴り、クラスの生徒たちはおびえながら、ちゃん とできない私の体操をプールサイドで見させられているのです。
 言えばもっともっとつらいことがありました。戦争とは障害者の心をずたずたにす るのです。私が精神薄弱者でなくなったのは戦後、4年生になってからです。しかし コンプレックスは今も心の深くにあり私の人格を築いています。だから天邪鬼(冗談) になりました。
 私よりももっと不自由な人はもっとすごい目にあっていたのでしょう。いまは表面 上障害者に対する差別がなくなったかに見えますが実はそうではありません。
 ドイツのナチスはユダヤ人をアウシュビッツや強制収容所に送り込んだだけでなく、 障害者を見つけると片っ端から強制収容所に送り込みガス室で殺しました。
 石原都知事が重度障害者の施設を視察したとき
 「これでも人間か」
と言い捨てそのあとで障害者施設に対する補助を削減しました。
 この男はヒトラーなのです。
 Kさん、戦争は障害者を抹殺します。戦争準備のために障害福祉を半分以下にし、 半数は介護保険にかからせるようになったが介護保険は税金の一種でもあります。こ の法案に日本共産党は賛成したのでした。支援費支給制度によって各行政から障害福 祉の仕事が民間にうつされてきています。介護保険も支援費支給制度も営利事業にな りつつあります。一体共産党は何をしたのでしょうか。今具体的にそれらの内容を書 きませんが、障害者は抹殺されようとしています。それは戦争準備のためですしもっ と本格的な戦争時代に日本が突入すれば障害者は本当に抹殺されるでしょう。
 あなたが自衛隊のイラク派兵反対、反戦に共産党も、障害者組織も立ち上がるよう に訴えることはわが身のこととして当然と思い、強く強くあなたを支持します。
 あなたの入っている障害者組織に私も入っていました。アフガン戦争の前、全障連 の大会が大阪であったとき、そこで[テロ反対]決議が全体集会で提案され決議されま した。私はあのイスラム世界の人々、アラブから中央アジア、インドネシアにいたる 諸民族の何億の人々が帝国主義に100年も支配され続けた恨みを、アメリカ帝国主義 の象徴であるペンタゴン本部と、貿易センタービルに自爆攻撃をかけた果敢な戦いを 支持していました。この自爆攻撃こそは反植民地闘争の歴史上 画期的なものであっ たと考えます。私は同じ考えに党に立てとは申しません。しかしなんでアメリカ帝国 主義のお先棒を日本共産党が担ぎこの障害者大会まで持ち込み版テロの[かえるの合 唱団」に組み込まねばならないのか。ゆでがえるめ。しかし日本共産党は障害者の全 国大会にまで「テロ反対決議」を持ち込みアフガニスタンに対するアメリカ帝国主義 の攻撃を左翼から呼び込んだのです。わが党はどんな暴力ま反対です。「たとえ日本 人民が戦争に動員されても、たとえ国家がどんな暴力で労働者を弾圧しても黙殺する ことを誓います。」
 ゆで蛙は戦う前に手を合わせているのです。野呂栄太郎は障害者でした。今の党を 見れば多喜二も野呂も山宣も怒り狂うでしょう。
 彼らが導く その侵略戦争のためにまたも多くのアフガンの人々は殺されたし身体 障害者になったのです。またイラクでも同じです。イラクでアフガンでどれだけ多く の母親が足や手を失った子供のために悲しんでいることか。こんな党であるならば絶 対に戦争に反対するわけがないと私はその日を限りに共産党の息のかかった障害者運 動から手を引きました。
 私たちは車椅子を並べてでも自衛隊のイラク派兵に反対しなければなりません。共 産党がやらなくったって自分達でたたかわねばなりません。それは自分が「抹殺され る」からなのです。
 大阪では2月20中ノ島の市役所の近くの女神像で自衛隊派兵反対、イラク戦争反対 の緊急集会があります。1月にもあったのですが私はデモ行進で脱落しました。20 日はどこまでついていけるかわかりませんが絶対行くことにし体調を整えておきたい と思います。数百人のデモなので機動隊にはさまれて歩くのですが「一寸の虫に五分 の魂]です。
 「センソーハーンタイ、NO WAR!NO MORE WAR!私の声よ、雲に 乗ってイラクに届いてくれ」
     あなたの投稿を心待ちにします。     天邪鬼より