理性様 はじめまして。
あなたのお子様も障害者なのですか。きっとご心配なこともたくさんお持ちでしょう。自分の血を分けたお子様が障害者であるよりも自分が代わってやりたいときっと思ったことがおありでしょう。
おっしゃることは過去や未来のことでなく今この時代に障害者の治療ができ、障害者が出ないようにすることのほうが大切なことだということでしょう。
虫歯に対する差別がなくてすぐに治してくれる歯医者のいる社会を作りましょう。これが答えです。
どうしたらいいのでしょう。少なくともポリオがアジアでは絶滅したということは医学の勝利です。しかしポリオがなくなったが、脳性麻痺による障害者の数は増え続けています。胎児のときに血管障害で脳神経が冒されたのが原因です。脳神経に酸素が供給されなかったその時間の長さが重さになり障害の程度になります。出生してから、ことに成人病の脳梗塞などによる障害も本質的に同じなのですが、知的障害や運動機能障害という後遺症をもたらします。
それでは胎児や成人の血管障害をなくせるかといえば今のところなくせません。高血圧を抑える薬があるにはありますが普通いつでも薬を飲んでいるのは危ない人だけです。突然倒れる。ほとんどはそのケースです。おそらくは公害が原因だと思います。
医学は治療にほとんど向けられているが予防とか環境については無関心に近いようです。なぜなら予防や環境は儲からないからです。だが予防医学、あるいは公害問題を追及しなければ循環器を原因とする障害者は増えるしかないのではないかと思います。なぜならば資本は生産を優先しますから。そのように考えるならば歯医者を探すようなわけにいかず、やはりこの資本主義の根源を考えねばなりません。
もうひとつ重要な傷害は精神障害です。去年は異常な少年犯罪が社会を不安にさせたのでしたが、その原因を真剣に解決せず(できない)に少年法を変えたり精神病者の予防拘束などという法律を制定しようとしています。しかし犯罪にいたらなくとも登校拒否や登社拒否、つまり」社会生活に入れないほどに心を病み悶々としている少年や青年が年毎に増加し、躁鬱症や分裂症などの精神病も増え続けているのではないでしょうか。
かって70年代は「怒れる若者の時代」と呼ばれたが、90年代から今日にかけて「心病める若者の時代」と呼んでいいのではないでしょうか。おそらくは4人に1人は心身症にかかっているでしょう。それらの人は精神病の予備軍です。心身症や、その発展の精神病の治療法があるのでしょうか。彼らもまた障害者なのです。それも実に悲劇的な障害者なのです。フロイトやユングによって心理学に光が浴びせられて1世紀になるかもしれません。しかし人の心の奥の深さは解明できないし、もつれた糸のようになった心の病の治療法は現代ありません。精神病理学者がジレンマになるような近代医療の到達点でしょう。医療ではこの分野が最も遅れています。なぜならこの分野や哲学や文化全般の問題が含まれ狭い分業的な医学では解決がないでしょうから。
しかし心身症や精神病と、腐朽した資本主義の最後の発展段階にある帝国主義本国の日本社会を考え合わせて見るならば原因の多くはそこにあることがわかります。要するに腐りきったこの日本のことです。この社会にあって人々は絶えず他人との競争の中にあり、他人を踏み倒さねば自分が生きてゆけないそんな環境で生きています。そこでは人間不信と自己疎外がすべての人の心を支配し、本来集団性を持つ人間という動物の本性と対立します。すべての共同体を資本主義は破壊し、親子や兄弟といった家族の情愛もも破壊されてきました。そして個人の心の中をも破壊していくのが高度に発展した資本主義なのです。心の病の原因がここにあるのであればこれは病気一般ではなく階級問題です。
神仏にすがってでも治ってほしいと障害者の子を持つ親のすべての方が思います。実は宗教にはこのような救いがあるのです。もちろんこの社会の中でも何とか身体障害の治療や、心の病の治療を当人と親は切望するのですが、障害者と認定されるのは障害が固定されたものですから治療はありません。。しかし必ずこのような不幸をなくすためには資本主義をなくさなければならないとするならばそうするよりありません。もしも障害者がそのために不幸であればそんな不幸を後の世の人が味あわないにしなければなりません。私は社会主義革命を誰よりも必要と考えます。
障害の治療法の開発には限度があると思います。私の足の治療は不可能です。しかし二つの考え方があります。
ひとつは今書いたようにいつか世の中を変えて障害者が激減する社会を作るのだということ。
もうひとつは障害をもつために、それを十字架とせず、それを持つたために人の心が理解できるようになれること。ある能力が欠けているからこそ残った能力に磨きがかけられるということ。
もしもベートーヴェンの耳が聞こえるならば私たちは最高の精神性を持つ交響曲「第九」という人類の遺産を持てなかったでしょう。楽聖という彼の名は聞こえない耳がもたらしたものです。
もしもゴッホが癲癇という精神病を持たなかったならば、手の中に自分の命を握りしめるような、「炎の人」の絵に触れることがわたしたちにできなかったでしょう。ゴッホのおかげで今このときの、この命をすばらしく思わせられます。
ゴヤの耳が聞こえなくなったころから彼の絵が真実のみを表現するようになったのでした。
才能とはコンプレックスの昇華したものかもしれません。あなたのお子様がどのような障害をお持ちかは存じません。しかし神は奪ったものと同じ物を与えてくれているかもしれません。奪われたものよりも与えらるたもののほうが大事なものです。私は無神論者なのですが深いところで信仰をもっているのかも知れません。
理性様。治療法の充実した社会とともに、治療する必要のない社会を作りましょう。
それから私は心でっかちに過去の悲惨な差別を書いたのではありません。障害者の多くにとっては私の話など小さなエピソードに過ぎないでしょう。障害者にとって戦争こそは自己を抹殺されるものだということを、最もよく知っている自分の経験を踏まえて訴えたのでした。戦争は何も障害者のみを差別するのではなく人間そのものの抹殺です。しかしまったく知らない人間を殺すためにはその民族に対する差別と自民族の優越感がなければできるものではありません。戦争をけしかける階級は他民族に対する差別を国民に植付け、同時にあらゆる差別を植え付けます。したがって障害者差別は民族差別、部落差別と同じものです。一方において差別があるならばその対極に屈服があります。それが天皇制崇拝なのです。「神聖にして侵すべからず」の天皇を旗印にしか日本人は戦争ができません。 いま綱領のサイトで天皇問題で激論が交わされていますが戦争と天皇制問題がやはり主題になるでしょう。
私たちは差別に敏感だし、差別に対しては気が狂うほどの怒りを持ちます。それは差別される人間を全否定するものだからです。しかし差別する側は差別している自覚さえないのが普通です。差別される側は篠ほどの屈辱を味わうのに。
だが自覚しようと、すまいと差別するものには彼の中に人間性の重要なものを欠落しているのですから、彼は人間として解放されないのです。他民族を差別する民族は決して自らも開放されないのです。また障害者や部落民を差別する人間も欠落した人格者ゆえ解放されないのです。
さいごに、イラク侵略戦争でイラクの人たちがたくさん障害者になりました。またこれからも永久的に劣化ウラン弾による放射能汚染でイラクのまだ生まれていない子までが奇形児という障害者になることを約束されています。この加担者として自衛隊が派兵されました。そして戦火は必ず北朝鮮に広がるでしょう。このことを私たちは深く考え、行動しなければならないと考えます。戦争は膨大な障害者を生産します。
NO WAR!NO MORE WAR!
3月20日、日比谷で会いましょう。
あなたの最愛のお子様によろしく