「障害者問題は論理的対応が適切」という、味もそっけもないようなタイトルに、心がざわつき、中身を読んで、案の定、一言申し上げねば気がおさまらなくなりました。
先に天邪鬼さん、新谷さんの投稿をよみ、深く深く、同意し、感銘を受けたところです。
天邪鬼氏の子ども時代の体験は涙なしではよめませんでしたし、子どもにみせましたら、「すごいね~お母さん、天邪鬼さんと言う人は・・・」と、しばし、絶句。そして、「僕は天邪鬼さんの気持ちがよくわかるよ。僕もいじめにあってたころと同じ気持ちだよ」ともうしました。
私はつい、「あんたね、天邪鬼さんの、どうにもできない障害を差別されていじめをうけたのとは次元がちがうよ。手足をなくしたイラクやパレスチナのこどもたちもそうだけど、自分の努力ではどうにもならないことを差別され、いじめられるんだよ」といってしまったのです。
「お母さん、そうした見方こそが差別ではないか。僕は心を差別されたんだよ、心をいじめられたんだよ、僕にはどうしようもない心を傷つけられたんだよ。天邪鬼さんの気持ちと違うと決め付けるお母さんこそ、差別者だ」といわれてしまいました。
私は私なりに、こうした問題に持論があり、天邪鬼さんにも、新谷さんにも、とても共感したのですが。
私は、障害とは、事実として、「不便なもの」本人にとって不自由なものでしかないと思っていました。障害という冷酷な言葉が表現するように、差しさわりがあるものであって、できれば障害がない方がいいと考えるのでしょうと。
足が手が完全に機能したほうがよいに決まっていますし、口で自由にものが言え、目がいろいろな風景や人の顔が見えたほうが便利に決まっています。
ですが、あくまで、このことは、周りの人間にとってではなく、本人にとってであろうかと思います。本人が障害であると思うのは自由ですが、周りがそう規定するのは本来余計なお世話です。
そして、天邪鬼さん、新谷さんがおっしゃったように、人間はいつかは必ず、障害になるのですし、老いていくに従い、健康は乏しくなっていきます。老いなくても、病気や事故でいつでも、身体のどこかの機能が破損することは珍しくもなんともありません。いつ、介護の身になるとも限らず、今そうした状態だからこそ、介護保険なるものも強制介入されているのでしょう。
ところで、こうした現実があるに関わらず、、今そうした状態になっていない多数の人間は、そうした現実から目をそらし、わが身と一線をひこうとします。戦争と同じです。戦場で人の死や負傷をみても、自分とは無関係な世界のこととして単なる外界の出来事・ニュースの世界としてみることで、不安を逃れるのでしょうか。
さて、少し視点をかえますが、私は人間は完全なエキスパートはいないわけで、障害でない人はいない、つまり全ての人間は何らかの障害があると思っています。身体機能の障害と心の障害があるとしたら、心においてどれだけの人が「人間として健康」なのでしょうか。精神的な機能的障害は別として、「こころの健康」を自認できる人がどれだけいるでしょうか。
家庭内暴力・虐待・個人的犯罪・権力犯罪・国家的犯罪・国家を司る人間がおかす様々な下劣なおどろおどろしい犯罪・・私には、健常を装う人間がことごとく、すべて狂人に近い、治療のほどこしようのない病者以下の存在とうつります。
虫歯と障害とは、似て非なるものだとおもいますが、世間一般でいわれる障害は、足の変わりに松葉づえや義足はあっても、治療してなおるものではなく、義歯程度のものでなく、障害状態の固定したものを差すのではないでしょうか。
一見障害でないわたしたちは「健常者」のなかにある他人事としての「差別意識」「優越意識」こそが障害そのものであるということを自覚する必要があるのではないかと、私はこどもに教わりました。
因みに子どもはクラスで2人のみ、地域センタ-で、お年寄りたちと対話し、お手伝いをしてまいりました。その様子をなんと、いきいきと語ってくれたことか・・・
不便でなくなるような機能の進展は必要であると思いますが、新谷さんのおっしゃる「障害者は、哀れみや同情など求めていません。全国障害者身問題研究会がとなえる発達保障など求めていません。求めているのは、たとえ障害が有っても、差別されることなく、健常者と同様な権利とチャンス、生活水準が保障されることです。人間らしい生活、人間らしく生きられることを、多くの障害者は望んでいるのです。」
こそが、本音であり、正論です。
そうして、こうした「人間らしく生きる権利」を保障した憲法25条が、今、「戦争を拒否」する9条を壊すことによって、根こそぎ、奪われようとしているのです。
理性主義者さんのお子様がどういう障害状態なのかはわかりませんが、治療の側面からのみの言及はあまりに一方的ではないかと思いました。また、治療も云々も、当然、、憲法25条が重視されてこそ、進展するものだと思います。天邪鬼さんがご自分の障害を戦時の状況と併せて検証されているように、技術以前の社会状況が大きく関わってきます。
要は、人が人として生きていくとき、障害か否かは、その人の機能以前に、社会の在り様こそが問題であるといいたいのです。どんな健康な心の持ち主であれ、社会が病んでくれば、人々も次第に精神を冒され、身体も損なわれます。
また、病んだ社会になればなるほど、それまで差別された側の視点こそが、燦然と輝く力を発揮するのではないでしょうか。たとえば、天邪鬼氏の視点は、このさざ波の論客のなかではぴか一です。どんな評論家やマルキストであろうとかなわない、人間的魅力が熱い健康な魂をかんじさせます。
「桃の花 いまにも つぼみ はじけそう」
これは、私が「高一コース」に投稿したものですが、何でも、「著名な方の歌と類似しておるが、自身でつくったものかどうか」と問う葉書が来ました。私はその方の歌など知らなかったし、学校に行く道中の、ある家の垣根にはちきれんばかりの桃のつぼみをみつけ、素直に歌にしたものですが、こうした疑うような葉書に幻滅し、返事も出しませんでした。当然、没になりました。10代の多感な頃の出来事です。
「夜の道 小さな電気は 蛍かな」(これは掲載)のような、のどかな自然豊かな田舎で、子ども時代をすごしました。そんななか、この没になった歌の記憶は、この世の不条理をかいまみたできごととして、私のなかに残っています。
新谷さん、天邪鬼さんの心を感じる投稿こそ、わたしがこのさざ波で出会いたいと願っているものです。また、大樹の陰さんのような、闘いぶりこそ、元気のもとにしたいと思っていますが、私を呼んでくださってから、姿が見えませんが、さて??? 安心してご自分はどっかにお隠れはいやですよ。
ともあれ、別世界のこととして、淡々としてかたられる評論や戦争論・政治論は、私にはまったく興味はありません。
この世の中を、狂いだしたこの日本を、何とか、まともにしたいと願っているからこそ、このさざ波があるのだろうと思います。身近な日本国内で、マイノリティーといわれる人々や不自由な生活や精神的にしんどい思いを強いられる人々、その思いを共有できる視点こそが、他国の抑圧され、殺戮される人々の思いと重なって、理不尽な戦争への怒りの援護射撃となるのだとおもいます。
天邪鬼さん、Kさんからはその日、即、感謝とよろこびの感想がきてました。同時に、障害と戦争に対して、熱い熱いメッセージならぬ論文が送られてきましたが、私の役目はこれ以上でないとおもいましたので、本人の投稿を促すにとどめました。そのきもちが熟したら、きっと、投稿してくれると思います。時間をくださいね、天邪鬼さん。
3月20日、Kさんもきっと日比谷きますよ。私ももちろん行きますが、天邪鬼さん、その他関東近辺の皆さん、お会いしましょう。もしかすると、それらしいパネルを持っていくことになるかもしれません。私らしいのがいたら? 声をかけてくださいな。
終わりに、愚等虫さん、お元気ですか? ほんとは、天皇制について、真っ先に援護射撃をして差し上げたかったのですが、いかんせん、綱領問題は、直感や感性のみの領域をこえてますので、私なりに思うことはあっても、少々、資料を読み、整理しないことには太刀打ちできません。幸い他のみなさんが適切な投稿されていますので、私はまた、違った視点から意見を述べさせていただきたいと思っています。もう少ししてから。愚等虫さんには、こどもにまで指摘されましたが、「こころに休養と水を?」の優しさとあたたかさは十分養分となって、わたしを支えておりました。
川上慎一さん、選挙前でしたか、身に余る援護射撃をしていただいて、その重厚な投稿文への感謝の意もしめさず、勝手に元気をいただいて、外で暴れておりました(笑い)。
先輩とする方の心強い言葉ほど、元気になるものはありません。天邪鬼さん一人が「川上慎一さんの文章をほめられた」との指摘にははっとしましたが、私はもちろんのこと、他の方の言及もあったとおもっていましたが。
「ゆでがえる」は川上さんに指摘されても、ちっとも、「気に食わない」ことはなく、むしろ、他で棘だらけの悪意に満ちた誹謗をされ、言葉狩りに近いいじめを受けましたから、むしろ、愛情さえ感じたくらいです。
ただ、タリバンについては、見解の相違があるとおもわれるので、いつか、議論したいと思っておりました。
それにしても、本当に、情勢は狂気を地でいくごとく、まるで、これが現実なのかと、時として、唖然とするばかりです。戦争と生活が同時進行していくことが、現実なのだと、自らにいくら言い聞かせても、どうにも実感できない自分がおります。違和感の大きな人々とは、まるで離人症のような自分がこころもとなく、時間の闇にうずもれていくままです。
長くなりました。この辺で、失礼いたします。