仮に「共産党が本格的な改良主義を最後まで固持し」たとして、果たして本当に「資本主義の枠組みと衝突する」のでしょうか。
私が“今日においては改良主義ですら反体制的であらざるを得ない”といったのは、『新自由主義』とか『市場原理主義』とか呼ばれる、資本主義の“一形態”が支配的である(あるいはそうなりつつある)という、今日の“限定された状況”の下では(もっとも『修正資本主義』とか『混合経済』(!!)とまで言わしめるほど大幅な改良主義的譲歩がなされていた、ということの方こそ、資本主義にとっては限定された状況だったのかもしれませんが)、改良主義すら反体制的なものに“してしまう”という意味です。
ベースアップや、定期昇給や、年功序列型賃金や、退職金や、年金・医療・福祉といった社会保障や、教育の機会均等や、その他多くの、戦後半世紀にわたって積み上げられてきた改良主義的成果は、資本主義の枠組みと衝突したり、それを突破したりするものだったでしょうか。日本よりもさらに“改良”されていたはずの西ヨーロッパにおいてすら、資本主義は“突破”されなかったのではないでしょうか。
賃上げや労働時間の短縮、その他の労働条件の改善を求めるのは改良主義的ですが、それは、資本主義の賃金制度、資本主義化の労働を前提にしているのであり、何より個々の経営側(を含む支配層)にそのような“改良”を求めている(つまり相手に決定権があることを認めている)点で資本主義そのものと衝突しているとはいえません(もし、そのような前提抜きに、あるいはさらに進んで、資本主義の枠組みとの衝突も辞さない、との前提で、人間らしい生活、人間らしい労働をするために労働時間の短縮や労働条件の改善を図ろうとするのであれば、それはもはや改良主義とはいえないでしょう。すでに“資本主義の”改良からは逸脱しているのですから)。
このような改良主義的要求に、個々の経営側(を含む支配層)が、満額回答とはいかないにしてもある程度までは応じる(応じられる)か、少なくとも応じる方向で協議に臨む(臨める)、という状況であれば、改良主義はなんら反体制的ではありません。
しかし、個々の経営側(を含む支配層)が、賃上げは論外、あらゆる機会を捉えて賃下げを迫る、サービス残業の名のもと働いた分の賃金さえ払わない、リストラの名のもと失業者を増やす競争に血道を上げる、経営安定化のために雇用を限りなく不安定化させる、…、…。このようなことが体制維持の至上命題として大手を振ってまかり通っている状況下では、改良主義は反体制的となります。
どちらも資本主義ではありますが、その“あり方”には大きな違いがあります。そのあり方の”違い”によって、同じ改良主義的要求でも、反体制的で“あったりなかったり”するのです。
改良主義がむしろ「本格的」であればあるほど、それは「資本主義の枠組みと衝突」したり、ましてや「突破」したりすることはないでしょう。それこそが改良主義の改良主義たるゆえんでしょう。したがって「共産党が本格的な改良主義を最後まで固持し」さえすれば「資本主義の枠組みと衝突し」、「場合によっては資本主義の枠組みさえも突破せざるをえ」なくなる、との考えこそ非現実的です。それは「資本主義の衰退期、政治的反動期」という限定された状況に対してのみ「反体制的なものにならざるをえない」だけです。
つまり共産党が今日の「支配体制と本格的に衝突」するだけにとどまらず、「資本主義の枠組みと衝突することも恐れ」ず、「それを突破せざるをえ」ない勢力となるには“革命的再生”抜きにはありえないのです。
もっとも、すでに資本主義そのものとの衝突を恐れ、それを回避するという前科を持つ共産党が、『新自由主義』とか『市場原理主義』とか呼ばれる、資本主義の“一形態”が支配的である(あるいはそうなりつつある)という、“限定された状況”に対してさえ衝突を恐れ、回避しようとすることは(それはもはや改良主義でさえないでしょう)当然ありえるし、この点で編集部の指摘にはまったく同感です。また、このような事態を避けるべく、共産党が「まともな改良主義政党として機能する」よう目指す、という編集部の方針にも(それを最低限の目標とすることには)全面的に賛成です。
さて、「…綱領が今回の大会で前面改悪されました。そしていっそう問題なのは、これまでの共産党のすべての革命的伝統と理論的立場を否定するような大改悪に対して、ほとんどまともな抵抗が党内で起こらず、大会においてもわずか一票の反対(しかも中身には反対ではないという水準)しかなかったという厳然たる事実です。ほんの数年前までまったく異なったことを言っていた党幹部たちが、手のひらを返したように新理論に迎合し、それこそ正しく展望を与えるものだと得々と述べるさまは、まさに卑劣のきわみであり、腐敗と堕落の底なしぶりを示すものです。」とありますが、このような事態が起こった理由を、して、党内の非民主的あり方、指導部絶対団結最優先の習慣、といったこと意外に求めるとすれば、いわゆる「革命的伝統と理論的立場」をほとんどの党員が、結局“血肉かできていなかった”ということではないでしょうか。
もちろん、皮肉やあてつけではありません。
戦後半世紀にわたって積み上げられてきた改良主義的成果によって、私たちの生活が大きく向上したのは、紛れもない事実でした。
しかもそのような改良主義的成果は「資本主義の枠組み」を「突破」することはおろか「衝突」することさえ抜きにして得た、成果でした。
それどころか、資本主義の下で企業が業績を上げればあげるほど、日本が経済成長をすればするほど、言いかえれば資本主義が発達すれば発達するほど、それに比例して改良主義的成果も積み上げられていきました。
このような状況において、「資本主義の枠組みと衝突」しそれを「突破」することを“切実な”課題とすることはこんなんでした。
それどころか、“もはや改良主義的成果を求めて運動する必要すらないのではないか”という意識すら蔓延させました。労働組合組織率の低下傾向はその一例といえます。
当然のことながら、人々のそのような意識は革新陣営にとっても無縁ではありませんでした。そもそも『革命』ではなく『革新』という、なんともお茶を濁したような言葉が、有力でありえた左派勢力(社共)のキャッチフレーズだったということが、資本主義を突破しようという意思がものの見事に改良主義的成果からめとられてしまったことの表れだった、ともいえます。
こうして「労働者階級にとっては…政治的改革ではなく…物質的生活関係…の改革しか利益にならないことを証明して、労働者階級にあらゆる革命的運動を断念させ」、「革命的要素や解体的要素を抜きにした現在社会」(共産党宣言)が出来上がりました。
つまり支配層もまた、改良主義的成果の(もしかしたら最大の)受益者だったのです。
しかし、その調和に満ちた改良主義の時代は終わりました。
今、現に私たちが直面しているのは、これまで積み上げられてきた改良主義的成果の、支配層による取り崩しです。改良主義のベールを脱いだ、むき出しの資本主義が猛威を振るう時代です。しかし、その時代は、人々がとっくの昔に「資本主義と衝突」したり、それを「突破」したりすることを忘れてしまいいわゆる「共産圏」の堕落と崩壊、資本主義世界えの回帰よって、資本主義に変わりうる社会とそれを目指す運動への、疑問と幻滅と不信だけが残る中、やってきたのです。
そのため、資本主義が本来内在する諸矛盾があらわとなりつつあるにもかかわらず、依然として資本主義そのものは問題にもされず、戦いはもっぱらこれまでの改良主義的成果の防衛に限定され、それすら及び腰になりがちで苦戦を強いられています。
こうした中、社会の大勢同様、資本主義へのラディカルな批判意識をとことんまで希薄化させているほとんどの党員たちが、まがりなりにも人々の生活を守り、向上させてきた改良主義的成果の、支配層による猛烈な破壊を目の当たりにして「改良主義とその成果を守り、拡充させるかとが今は何よりも最優先。それ以外はとりあえず後回しだ。」という不破指導部の口車に乗せられてしまった、というのが、今回の綱領改訂をめぐる茶番劇のもうひとつの側面ではないでしょうか。
それはまさに、支配層が長年の大幅な改良主義的譲歩によって手にした勝利でした。
前々回の私の投稿への「編集部コメント」に「もしそれ(共産党の革命的再生)が可能であるというのなら、それを証明していただきたい」とありましたが、今回再び「共産党がどこまで変質したら革命的再生の可能性がないと判断するのか…その客観的基準を教えていただきたい」とありました。
しかし私には、共産党の革命的再生の可能性を証明することも、どの時点でそれが不可能となるかを客観的基準によって示すこともできません。
そもそも私が、共産党の革命的再生を目指す“べき”だと主張するのは、そのことに“価値”があり、また“必要”でもある、と考えるからであって、決して“可能性”が証明できたからではありません(この点については前回の投稿をもう一度読み直していただければ明らかだと思います)。
それにしてもなぜ編集部は、共産党の再生を目指すか、目指さないか、ということに対し、それほどまでに可能性の有無にばかりこだわるのでしょうか。
たとえば、自衛隊のイラク派兵に対し、当然のことながら編集部はその中止を求める立場であると考えますが、それは、イラク派兵を中止させられる“可能性が証明されたから”そのような立場を取る、ということなのでしょうか。もちろん編集部はすでにそのような証明を終え、客観的な基準にもとづいて十分中止させられる可能性があると判断されているのかもしれませんが、少なくともそれがイラク派兵の中止を求める第一義的な理由ではないはずです。
イラク派兵の中止を求めるのは、それがアメリカの帝国主義的侵略策動への明白な加担であること、憲法の理念と世界平和にむけたあらゆる努力に対する重大な挑戦であること、日本が戦争放棄をうたう世界に類を見ない特別な国から“国益”のためには平然と軍事力を行使するありきたりの国に転落する本格的な一歩であること、それらが、イラク国民のため、世界平和のためという名分で行われることが途方もない欺瞞であること、…、…。これらの理由こそ、イラク派兵中止を求める際に何よりもまず先に挙げるべき理由であって、中止の可能性が“証明できたかできないか”など二義的以下の理由のはずです。
あるいは編集部はすでに、どの時点でイラク派兵を中止させられる可能性がなくなるかの「客観的基準」とやらもすでに作成済みで、その基準が満たされ次第いつでもイラク派兵中止の要求を取り下げるとでも言うのでしょうか。イラク派兵中止の必要性、今日の情勢においてイラク派兵中止を要求すること自体が持つ価値よりも、イラク派兵中止の“可能性があるかどうか”のほうが大切だとでも言うのでしょうか。 編集部が不破世道部の右傾化を批判するのは、社会主義や、天皇制・自衛隊の廃止といった要求の実現可能性が、客観的な基準によって証明されているにもかかわらず、それを放棄したからなのでしょうか。
それらの実現が、よりよい社会を築く上で必要であり、そのような目標を掲げることが今日の情勢において価値のあることにもかかわらず、現実主義の名の下に現状に屈服し、既成事実を容認してその目標を棚上げしてしまったことに対しての批判ではなかったのでしょうか。
“可能性があるからやる”“可能性がないからやらない”などという態度は、共産主義者のとるべき態度としてとうていて容認できるものではありません。
この点においては編集部も全面的に同意してくださるものと確信しています。
「共産党がどうなってもその革命的再生を目指し続けるというのが非現実的対応であるのは明らかです。」
とありますが、「革命的再生を目指」すことが「非現実的」となるほど「腐敗と堕落の底なしぶりを示す」共産党に、どのように対応するのか。それについて編集部の方針としてあげられているのは、「まともな改良主義政党として機能」させ「労働者に基盤を持ち相対的に進歩的な役割を果たしうる大政党」たら占めること、「改良主義政党としても完全に破産した場合」に備え左派党員が「長期的に党内で基盤を維持し、それを広げていくこと」、「党機構の民主化」を図ること(ヒゲ-戸田氏への編集部コメント)の3点でしょうか。
これらについては(あくまで最低限目指すべき目標としてですが)私も賛成です。
たとえば、「まともな改良主義政党」にする、という方針に照らせば「天皇制問題、自衛隊問題、労働運動の諸問題、消費税問題、その他多くの問題について次々とこれまでの水準を後退させていっています。これはそれぞせの実践的現場、とりわけ労働現場ではもっとも深刻です。国労問題をはじめとして、共産党系の大衆団体は各地で労働者の利益を裏切る行動をとっています。」といったことは、積極的に是正されなければなりません(それが党内左派の強化にもつながるでしょう)。
しかし考えてみれば、個々の問題・局面における後退は「党の生命」である綱領・規約の「全面改悪」に先行してなされたものでした。いやむしろ、このような個々の問題における裏切りや後退の既成事実の積み上げ、その必然的帰結、それらのいわば総決算(もっともこれで終わりという保障はありませんが)として綱領・規約の「前面改悪」があった、とみるべきではないでしょうか。
つまりこれらは一連、一体のものであり、決して切り離して見るべきではない問題なのです。
ならば、個々の問題・局面における後退を是正し、「本格的な改良主義最後まで固持」することを「目指すあらゆる試み」が、「全面改悪」された綱領・規約の「本格的な改良」にまで向かうのは「必然的」ではないでしょうか。
いくら「物事には常に一定の限度というものがある」からといって、個々の問題・局面における後退は是正(を目指)してそこから先の綱領・規約の是正はし(目指さ)ないなどという限度を設けることに何の意味があるのでしょうか(まさか個々の問題・局面の是正を図るほうがより切実でありその成果もより確実であるが、綱領・規約の是正は大変困難だ。したがって前者に全力を注ぐべきだ、ということではないでしょう。それでは、社会主義や天皇制・自衛隊の配しついて国民の合意を得ることは困難だ。今は資本主義の枠内での民主的改革に全力を傾けるほうがより切実だしより成果も確実だ。だから前者は後回しだ、という不破指導部と大差なくなってしまいます)。
また、どうせ綱領規約の是正にまで向かうのであれば、それをわざわざ「改良」にとどめる必要もなく、不破綱領・規約と「衝突することも恐れ」ずその「突破」を積極的に目指すべきではないでしょうか。
確かにそれは現在の党内の力関係、現在の党内の非民主的あり方の下では不可能でしょう。
しかし、左派党員が「党内で…基盤を広げていくこと」を目指しているのなら、それに、綱領・規約改定ができない程度の広げ方にとどめるなどという「限度」を設ける必要はありません。それに、党の民主化を達成するには、「党の生命」の一方である規約の改定を抜きにすることはできないでしょう。
つまり、共産党をまともな改良主義政党として機能させること、左派党員の基盤を党内で広げること、党を民主化することの延長線上には綱領・規約ひいては指導部の、左派的立場からの一新があるのであり、その実現は共産党の革命的再生にほかなりません。なぜ編集部はそれをかたくなに拒否するのでしょうか。
もっとも「党外に、社会主義的左翼勢力が、議会でも一定の地歩を築けるほど大衆的基盤を有しているなら…あるいはまた、社会全体が急進化し、人民の嵐のような運動が巻き起こ」り「右傾化した共産党が下からの運動によって投げ捨てられ」ようとしているのであれば(不破政権論 半年目の総括(下))なにもわざわざ共産党を革命的に再生させる必要はないでしょう。
あるいは、党内左派が一定の規模で離党し、党外の左派的勢力も結集して新たに強力な革新的政治運動を組織し得る場合も、共産党の革命的再生など考慮する必要はないでしょう。
しかし今日の状況下では、たとえ以前の水準と比べて許しがたく後退したとはいえ、社会的になお一定の相対的進歩性と組織的力量を有している共産党を“革命的に再生させること”“それに向けて活動すること”抜きに、保守・支配層への対抗を可能な限り有効なものとするのはきわめて困難ではないでしょうか。
それとも編集部は、共産党の革命的再生を目指しても、保守・支配層に対抗するうえでプラスにならない、との判断なのでしょうか。
「もう少しまともな改良主義政党として機能する」ことに目標を限定したほうが、保守・支配層への対抗上より有効なのでしょうか。
共産党の革命的再生を目指すか、目指さないかについては、党内情勢だけではなく党外情勢をより重視して判断するべきだと考えます。
<編集部コメント> いくつかの問題に限定してコメントさせていただきます。
1、改良主義の問題……資本主義が相対的に進歩的な性格をまだ失っておらず、また相当程度の改良主義を許容しえた上昇期と異なり(ヨーロッパ福祉国家はそうした時代の成果です)、現在の新自由主義と帝国主義的グローバリズムの支配する時代においては、資本主義はもはや本格的な改良主義を許容することができず、それゆえ、資本主義の枠内でのみ本格的な改良主義を追求することは非現実的なものとなります。そのような努力は、改良主義そのものを絶えず後退させるか(右への解決)、資本主義の枠組みとの衝突も辞さない方向へ前向きに発展するか(左への解決)、のどちらかに分化することになります。日本共産党指導部は明らかに前者への傾向を示しています。
また、このような時代においては、いわゆる最小限綱領と最大限綱領とを厳格に区別して、両者のあいだに万里の長城を築くことは非現実的であるとともに、反動的なものとなります。労働者の種々の既得権を守る頑強な闘争を展開するとともに、それを足場にして真の民主主義的・福祉国家的課題の実現を目指す闘争が必要になりますが、この闘争はその発展過程の中でいずれ資本主義の枠組みそのものと衝突するだろうし、それを突破することなしには成功しえません。いわゆる「新しい福祉国家」派の種々の議論も、このような観点にもとづいて評価されるべきでしょう(すなわち、「新しい福祉国家」なるものが、資本主義の枠内での長期的ないし半永久的な独立した「歴史的段階」とみなされているのか、それともその実現過程で資本主義の枠組みそのものを突破しなければならない過渡的なものとみなされているのかによって、まったく異なった立場がありえます)。
2、社会と政党との区別……丸楠夫氏は、イラク派兵反対運動と共産党の革命的再生運動とを同次元で扱い、前者に関してはたとえ客観的に不可能でも派兵反対を訴えつづけるのだから、後者においても、革命的再生が客観的に不可能でも目指すべき、との議論を展開しています。これは問題の次元を混同するものでしょう。社会は、大多数の人がそこからの離脱を自由に選択できない包括的存在であり、生活と運動そのものの客観的枠組みであるのに対し、政党それ自体は自由意志で選択できる人為的な結社にすぎません。また政党は社会を変革するという目標に向けた手段にすぎません。目標を達成するのにどの手段を選択するべきなのかがここでは問われているのです。
したがって、政党に関しては、その一定の変質と堕落の程度に応じて、党そのものの革命的再生をなお目指すのか、あるいは完全に見捨てて別個の党を目指すのか、あるいはその中間的立場をとるのか(つまりもはや革命的再生は不可能ではあるが、別個の政党を目指しうる客観的基盤がまだないもとで、改良主義的労働者政党の中で長期的に左派的陣地を構築し拡大する戦略を取ること)が選択されなければならないのです。
レーニンは、1914年の8月4日以後に社会民主党と第2インターナショナルは死んだとみなして共産党と第3インターナショナルの道を目指したし、別の左派は、なおしばらくは社会民主党と第2インターナショナルの内部にとどまることを選択しました。また、第3インターナショナルの時代においても、レーニンはイギリス労働党をブルジョア政党とみなしつつ、その内部に共産主義者がとどまる戦術を肯定しました。またトロツキーは、1933年のドイツの敗北まで共産党と第3インターナショナルの革命的再生を目指す戦略をとり、それ以降は新しい共産党と新しいインターナショナルを目指す戦略をとりました。またその場合でも、改良主義政党に加入して革命的左派の陣地を確立する戦術を取った時もありました。
したがって、社民党の革命的再生を目指すことが現実的選択肢に入らないのと同じように、共産党全体の革命的再生が現実的選択肢に入らないという事態も十分ありうるのです。問題は何を基準にしてそのような判断を下すのか、です。
もちろん、われわれがもはや日本共産党の革命的再生は不可能であるとの判断を下したからと言って、指導部に厳しく批判的でありながらそのような判断をまだ下していない人々や、あるいは、可能性があるかどうかにかかわりなく共産党の革命的再生を目指すべきという人々との連帯や共同が不可能になるわけではありません。左派の圧倒的劣勢という今日の状況からして、これらの人々とわれわれとの違いはきわめて小さなものであり、指導部の改良主義的・裏切り的政策に対する断固たる批判を展開し、党員の社会主義的意識と戦闘性を高め、共産党の民主主義的・左翼的改革を目指すという共通の目標と課題の方がはるかに重要な意味を持っているのではないでしょうか。