このところ、本サイトに障害者問題がしばしば論じられま す。私は、障害があろうと無かろうと生活を享受できる世の中を作るのに商売柄貢献したいと考えております。
この間の議論の中で、両極端が称揚されており、医療の現場にある者としては戸惑いと困惑を感じております。一つは、理想主義者様の「障害を直せることができればそれが一番」というものです。これには、医療技術の限界をつくづく感じるとともに、この50年間は、抗生物質・抗精神病薬や抗てんかん薬の開発・ITの普及によりかなり「社会生活の実現に迫ることができているのでは」と感じます。
もう一方の極端は「障害者は社会の歪みで『障害者』となるので、健常者であること自体が差別的。障害を治療や克服をしようなどとはもってのほかで健常者が社会的に介護すべし」のような論調です。猪走様や笠原一浩様からも言及があります。
どちらも一理ありますが・・・。このことと、全障研(ほんとうに共産党系なのですか? かなり学術的にはレベルの高い論文を多数掲載した雑誌を定期刊行しており、医療の分野ではそれなりの評価があるのですが)と全障連のことに及んでいます。
全障連は「障害者の解放」を呼号しておりますが具体的なイメージや実現の方策が私には見えません。更新が3年前のホームページや各地の学会などでの(一部の健常専門職に煽動されたといううわさの高い)車椅子での妨害行為などからすると、少なからぬ医療関係者は「あの人たちににらまれないように」とおどおどと行動せざるを得ない感じです。
理想主義者様の願いを叶えるのに役立つのは、どういう戦略なのでしょうかね。そもそも、日本政府は首相を本部長にして1996ー2002年度で「ノーマライゼーション」プランを取り組んだはずでしたが、達成できませんでした。そして、昨年からの新障害者プランについても、早々に予算がない(イラクへ自衛隊派遣や、長銀の大安値売却からすると、本当?)と言い出してます。セクト間の論争はしばしば新しい思考を開発するのに有益ですが、運動の分裂につながりやすいのでは と思います。