春3月、東京では遅い雪が降り梅に色を添えたとか。
私は寝ぼけて1日を過ごしそうでしたが、ある友人のメールで目が覚めました。
3月1日はビキニ核実験50年であると同時に、1919年3月1日、植民地下朝
鮮の民衆が独立を求めて万歳・万歳と自然発生的にまた組織的に決起したあの輝かし
い「3、1独立運動」の闘いの日でもあります。
1910年の日韓併合から9年,ますます強まる日本からの収奪と搾取、土地の取
り上げ、この頃から追い詰められた朝鮮民衆の日本への底辺労働者としての、しかも
基幹労働者としての流入が増えるて行きます。これは日本の行政や企業の資料でも明
らかになっている事実です。
日本人に土地を奪われ、悪質な金貸しに追われ、官憲に追い立てられ、自分が生ま
れ育つた祖国にすらすめなくなった人々の不安と不満が如何ほどであったか、抑圧民
族の末裔である私には彼らのその苦しみにただ思いを馳せるしかありません。
労働者、農民はもとより貧しいボロを着た女性が、小学生が貰ったばかりの官製の
卒業証書を破り捨て、太極旗を握り締め振って万歳万歳(マンセイ・マンセイ)と声
を振り絞り闘ったといいます。
ところがこの闘いの伏線には明らかに、帝国主義日本の悪辣な植民地支配政策が絡
んでいるのです。
この頃日本は第一次大戦の戦勝景気に酔っていました。
ところがそれは一部金持ち階級のみの浮ついたものでした、民衆には忽ちインフレ
とバブルの波が襲いかかり、そこに「シベリア出兵」の負担がかぶさったのです。米
は買占めと政府の買い上げにより4倍も高騰してしまったのです。
民衆は我慢できず「これでは生きていけない」と北陸・富山・魚津の女性たちが米
騒動に立ち上がり、それは大きなウエーブとなり、全国に波及し、時の寺内内閣を倒
すまでの闘いに広がって行きます。
しかしそれに変わった原敬政党内閣を含め、日本政府が行なった最善策とは、まさ
に朝鮮半島から数十万トンもの米を強制的に供出させる事だったのです。これにより
さしもの米騒動も2ヶ月余りで収斂されます。
しかしこの施策により、朝鮮ではただでさえ民衆の口に入りにくかった米が忽ち高
騰し、3倍か4倍に跳ね上がったのです。
日本の米騒動は1918年8月です、そして3,1独立運動は1919年3月、完
全に連動した時代の、植民地支配、圧制への耐え難い民衆の決起でありダイナニズム
なのです。
戦後池田首相は「貧乏人は麦を食え」と言い放ちました。
しかし寺内・原内閣は「朝鮮人は米を食うな」とのおぞましさで植民地経営に当たっ
たのです。
朝鮮民衆の生き延びんが為の3,1独立運動は過酷な犠性を強いられ収拾されまし
た、しかし朝鮮・韓国民衆の中にはこの忘れても忘れられない民族の誇りとして、深
く滲み込み「恨み(ハン)」として、また誇りの闘いとして心の奥深くに、しまい込
まれているのです。
しかし今、これら植民地時代の悪逆の歴史を知らないかのように、拉致問題を根拠
として北朝鮮への経済制裁(まさに「朝鮮人は米を食うな」と同じだ、飢えて死んで
もいいと言っているのだ)や船舶入港制限とかが目論まれ、そして自衛隊のミサイル
は次のターゲットとしてピョンャンに照準を合わせているのです。
歴史は2度繰り返されると言います、しかしこの国の「何も知らされず育ってきた
坊ちゃん政治家」には歴史は何度でもあるかのようです。
彼らにはやはり、本場の辛いキムチを口にギュウギュウ詰めて、張り裂けるような
朝鮮・韓国民衆の苦しみと怒りを知らすしかないようです。
最後に、やはり春3月、日本人には桜です、今年も暖冬だとか、桜の開花も早いか
もしれません。韓国では1945年解放の年、日本人が退去した後、公園や日本庭園
に植えられていた桜がみんな切り倒されたそうです、植民地支配の象徴としてー、そ
れ程に抑圧された人々の恨みは深いのです。
ソウルで桜が少ないなと思われませんか?