覚えている方も多いでしょうが、9・11後ブッシュアメリカ合衆国大統領は世界中の人々に対し、自分の側につくかテロリスト(9・11の犯人)の側につくか二つに一つだと絶叫しました。
私はどちらにつくのもまっぴらごめんです。人の生命を何とも思っていない人間の仲間に私はなりたくありません。
例えその殺人の理由に正しい主張(パレスチナ人民に対する弾圧に反対するといった)が部分的にふくまれていたとしても。
私はパレスチナ問題に対し、若い頃から一貫してイスラエルの建国は侵略であること、パレスチナ人民の権利が回復されるべきことを主張してきました。しかし私はパレスチナ人民の闘争が一般市民を対象にしたテロに及ぶとき、それを支持することはできないとも思ってきました。
私はユダヤ民族がナチスドイツによるホロコーストという、人類史上もっとも苛酷な運命をになった民族であることに、深刻な同情を覚えざるをえません。しかしそのことはユダヤ民族がパレスチナ住民の土地を奪ってよいことを意味しません。
それと同様に、パレスチナ人民がイスラエル建国によって土地を奪われ同胞を殺されたとしても、そのことがパレスチナ人民がユダヤ民族の一般市民(特に児童)を殺すことを正当化するとは思えません。
私はイスラエルとパレスチナの「暴力の応酬」を同等のものとは思いません。イスラエルに原因があり、イスラエルが殺した人数はパレスチナ人民が殺した人数と桁が違うほど膨大であり、パレスチナの暴力は被弾圧者のそれで同情すべき要素があることなど、まずイスラエルが非難されるべきことは自明と思っています。しかしそのことと無差別テロを容認することはまた別のことです。
私の若い頃の非常に暗い記憶としてテルアビブ空港での日本赤軍無差別乱射事件(1972年5月30日)がありました。私個人としては同年2~3月に明らかになった連合赤軍リンチ殺人事件より衝撃的な事件でした。テルアビブ空港ではイスラエル人だけでなくプエルトリコ人多数も死んでいます。そういったプエルトリコ人(出稼ぎに来ていた?)ひとりひとりにも彼らないし彼女の独自の人生があったはずです。私は泣きたくなりました。
また私はこんなことをしてパレスチナ人民の権利回復にいったい何の役に立つのか、倫理的に許されないだけでなく、味方にすべき世界の人間を敵にまわすだけの愚行ではないかと思いました。(このテルアビブ空港事件の背後にいた重信房子氏は現在日本の警察に拘留されています。重信氏は9・11を批判していますが、テルアビブ事件に対しては肯定的なようです。)
その後PLOは軍事的だけでなく政治的にも敗北し、オスロ合意で西岸ガザ地区のパレスチナ人民をイスラエルに替わって管理する牢番人になりさがりました(アラファト政権の腐敗は今では誰でも知っている事実です)。
ところで私は最近、パレスチナ出身の文学者エドワード・サイード氏やパキスタンの政治学者イクバール・アフマド氏が、1960年代末からPLOの軍事偏重を批判し、イスラエルがホロコーストを体験した民族でありながら、パレスチナ人に同様のことをしている「倫理的矛盾」のキャンペーンに抵抗の根幹をおくべきだとPLO首脳に進言し続けていた事実を知り、大きく嘆息せざるをえませんでした(『帝国との対決 イクバール・アフマド発言集』大橋洋一他訳、太田出版)。
歴史にIFは禁物だと言いますが、そのようなキャンペーンが組織的に行われていたとしたら、パレスチナ問題はずいぶん変わった様相を現在では呈していたいたように思われてなりません。
パレスチナ人民の闘いは苛酷な状況の中で未だ継続されています。イスラエル内部の平和運動も頑強に続けられています。また世界の反戦。民主勢力はパレスチナ人民の闘いを原則的に支持し、今回の3・20国際反戦共同行動でも、多くの国のそれはイラク占領だけでなくパレスチナ占領への反対も同時にかかげられています(日本でのパレスチナ問題の認識はまだまだ不十分です)。
私もイスラエルの蛮行を強く非難します。パレスチナ人民の闘いを原則的に支持します。パレスチナ人民の尊厳が護られたパレスチナ問題の解決を要求します。
しかし(そのように追い込まれた事情に同情を感じつつも)パレスチナ人民の無差別テロを認めることはできないことも明言します。パレスチナ人民の中でイスラエル人民と連帯しながら、パレスチナ問題の人間的解決を目指そうとする潮流(ウェブサイト・インタイナショナルソリダリティームーブメントなど参照)を支持します。
パレスチナ人民の苛酷な状況を思うとき、そこと比べればまだまだ安穏な場所で、パレスチナ人民の無差別テロを批判することに人間的ためらいを覚えることも事実です。
しかし9・11以来、世界のどこでもパレスチナと同じ無差別テロが起こりうる場所となりました。日本でも同じです。今回のマドリードのテロなどを見ても、今年中に東京などで無差別テロが起こる可能性は大いにあると私は思います。
だからそれに対する確固とした考えが私たちにも要求されると思い、ここにパレスチナ問題を事例としつつ、無差別テロに対する私見を開陳させてもらいました。
私のここで言いたかったことは、次のような人類の先達の理想に合致しているように思われるので、最後に引用をさせてもらいます。
いっさいの生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ(釈迦)。
生きとし生けるものに対し哀れみのない人、彼らを卑しい人と知れ(同)。
人を殺すことを楽しむものは、以て志を天下に得るべからず(老子)。