投稿する トップページ ヘルプ

一般投稿欄

頑張れ!天邪鬼殿

2004/3/15 クオリア、60代以上、労働者

天邪鬼 殿
「お母さん」の店に行かれましたか?
 機会があれば、是非一度ご一緒したいものですね。
 それにしても、当サイト、ご指摘のウスバカゲロウ(薄馬鹿下郎)が蔓延りだしてウンザリしますね。石川五右衛門がいたら、「浜の真砂と世に阿呆の種は尽きまじ」と嘆くでしょう。
 「私は57歳、朝鮮人たちなどに罪を犯した経験はございません」とか、57にもなって、よく云うで。たちなどにってか、おのれ何様ぶってんのか。完全に人を見下げた云い方だ。
 ったく頭にくる。言葉は思想からと云う。わけの判らない支離滅裂なごたく並べて、云うだけ云ったら、「お答えできなくて結構です」とは、呆れかえる。だったら、はなから投稿するな。もっと真面目にやれ。人に意見したり、批判したら、相手にも反論権があるのは当然ではないか。

 天邪鬼 殿、瞬間湯沸し器で済みません。
 こんな不真面目でふざけた輩は、「落ちかかった天井で、棟が悪い」(棟=胸くそが悪い)やがて「燃え杭の身投げで、消えてしもた」(燃え杭を川に投げたら、しゅっと何時の間にか消えてしまった)そんなところです。
 「やもめの行水で、勝手に湯取れ」(勝手に言うとれ)です。
 一読して、不真面目な輩は放っておけばいいのです。

天邪鬼 殿
 「山伏の夕立で、貝被る」(買いかぶる)ないで下さい。
 「昭和啖呵全集」立派なものが存在します。小生など足もとにも及びません。殺風景な町のどこが懐かしいかって。
 此花区から大正区の職場へ、甚兵衛渡しに乗って、10年も通いました。安冶川には、強烈なノスタルジアがあります。
 宮本輝の「泥の河」戦争の傷跡が残る、昭和30年代初めの安治川河口付近を舞台にした名作。大阪を舞台にした作品は数多くありますが、「泥の河」は小生にとって、最も好きな作品です。酒飲みの癖に、「きんつば」が好きになったのも、この「泥の河」のお陰です。
 大阪・梅田の西端、ニ層の阪神高速道路が中空で交差する下に、石橋がある。名前は出入り橋。その橋の近くに、屋号も「出入り橋きんつば屋」という店があります。ちょっと小ぶりで、上品な甘さで、後味がすこぶるいい。ここのきんつばは、知る人ぞ知る。大阪のきんつば通の店です。
 「泥の河」の主人公、信雄の父親(田村高広)が、うどんや丼物が主の食堂の店先で、きんつばを一人焼いているのだ
 それが唯一の趣味なのだ。戦争で辛酸をなめ、生き残った事に複雑な思いを抱きながら、今を淡々と生きる男。静かにきんつばを焼く姿に人生が滲む。田村の味わい深い演技に、きんつばが見事に寄り添い。言葉に尽くせぬ感動を覚えます。
 それから、小生はきんつばが好きになりました。

 「泥の河」と云えば、マルセ太郎さん。
 社会派芸人、笑いを哲学・思想のレベルまで高めた反骨のボードビリアンとして、マルセ太郎さんは、「マルセ中毒患者」と呼ばれる熱烈なフアンを生んだ。その笑いは、鋭い人間洞察と社会風刺に貫かれている。在日朝鮮人二世として、大阪に生まれ育った環境が異才を生んだのか?映画を再現する「スクリーンのない映画館」で独創的な一人芝居を開拓し、演劇の脚本・演出でも豊かな才能を発揮、「弱者の視点だけは大切にしたい、上から見下ろすような笑いはやりたくない」と云うところに批判精神旺盛な彼らしい気骨が垣間見られます。
 そんなマルセ太郎さんも、1995年以来、肝臓ガンを患い入退院を繰り返しながら、舞台を続け来たが、平成13年1月22日逝去、享年67歳

 マルセ太郎さんが、生前語った話には、感銘を受けた話が多くありますが、こんな話もあります。
 「評判悪い神奈川県警に、日本人が誇るべき警察署長がいたという話がある。大川常吉という人、関東大震災で朝鮮人が6000人虐殺されましたね。その連中が自警団や何かに追われて、300人も鶴見警察署に逃げ込んで来た。近くのお寺にみんなを集めていたところへ、日本人が襲ってきた。その時、署長の大川さんは「自分は警察の署長だから、悪い事をした奴は捕らえる、こいつらは何をやったんだ」と聞いたら、井戸水に毒を入れて廻ったという。その井戸の水を汲んで来い云って、みんなの前で飲んで見せるパフォーマンスまでやって、断固300人を守った。彼等は無事にそこから船に乗って脱出する事が出来たのですが、それから何十年もたって、日本が戦争に負けた時に、当時の朝鮮人連盟の有志が大川常吉さんを称えた碑を建てた。情けないのは、日本人は誰もその行為を英雄的行為だとか、犠牲的行為だとか、勇気あるとかほめない。
 朝鮮人が大川さん有難うと云った時には、既に大川さんは故人です。」

 まだあります。マルセ太郎さんの「記憶は弱者にあり」と云う本の中に、印象的な場面があります。
 ある有名な大学に講演に行った時、講演の後の集まりで、一人の女子学生が、彼にこんな質問をぶっけた。
 「あなたは勝手な戦争だったといいますが、日本はそんなに悪いことばかりやったのですか?マルセさんみたいになんでもかんでも悪い悪いというのはどうでしょう」
 「じゃいいことを教えて下さい」
 「私は知らないけどあるんじゃないですか」
 「じゃ朝鮮に鉄道が出来た事は日本軍のおかげとかそういうこと?」
 「はいそうです」ここでマルセ太郎さんは猛烈に怒った。
 「お前さんは無知だ知識がないなどと云われるのは我慢が出来る。想像力がないと云われるのは、どういうことか知っている?アホということ。どっかの外国の軍隊が攻めてきて、新幹線を作ってくれた。それが有り難いことか!」
 マルセ太郎さんの「想像力」まさにこれこそが、彼が「スクリーンのない映画館」でやっていた事ではないか。」
 彼は私たちに「想像力を持ちなさい。そのことで弱者の立場を知りなさい。そうすれば、世の中は変わりますよ」そんな事が云いたかったのではないでしょうか。
 彼は去ってしまったが、彼の舞台、彼の生き様は、小生の瞼に焼き付いて離れない。
 彼こそは、真の芸人、芸術家だった。「思考する芸人」否、云いかえれば、私たちに思考させる芸人、マルセ太郎さんの冥福を心からお祈りし、きんつばをほうばる度に彼を思い出します。こんな話をすると、またゾロ、「宇治の夕暮れで、茶々入れる」輩が煩いので、早々に退散します。
 HP開設楽しみにしています。