3/20,世界統一行動が近づいてきました。
党関連団体が芝公園で集会を単独で行うことについて、昨年、組合・団体旗を持っ
た人たちが入場を断られたこと、デモ出発に最後まで待たされたことなど、大会分裂
を憂える方々の投稿で知ることができました。
党の推奨する平和集会では、たくさんの旗やのぼりが林立します。ひょっとして、
党から出欠を確認されてるのですか?
それは憶測として、組織・団体の旗にこだわる姿が私にはどうしても理解出来ない
んです。私が集会の場にいて感じるのぼりの存在意義は、単なる待ち合わせの目印に
過ぎないのではないか、ということです。そして次に、売名行為。
一方、のぼりをたてるデメリットはたくさんあると思います。あくまでも私見です
が、2月の投稿でも書きましたように、個人参加者を威圧する雰囲気。勤め帰りに集
会の趣旨に賛同してふらり立ち寄ろうとしても、あれじゃあ「私が参加してもいいの
かしら」とまず疑念を抱いてしまいます。新しい人への拡がりの観点からも、大きな
マイナスとなるでしょう。
また、それぞれの縄張りのような、見えない線のような壁を感じます。別の団体の
人と世間話をしている方は、あまりみかけません。党と各団体とを結ぶタテのつなが
りは感じられますが、ヨコのつながりはあまり発達してないのでは?と参加者ウオッ
チングをしていて思います。(実際のところ、ご存じの方は投稿してほしいです)私
はこんな光景を見ていて、鵜飼いをいつも連想してしまいます。党の代々木の職員が
鵜匠で、のぼりをたてている集団が鵜で…
個人参加者は無視されるか片隅に追いやられていて、デモ出発まで人の観察くらい
しかやることがないんですね。他の方も押し黙った様子で、声をかけづらいし。たい
がい、会場について10分もすれば、やむにやまれぬ気持ちで駆けつけた熱い想いは
冷え切っています。演説を聴こうとしてものぼりが邪魔で誰が演台にいるかも見えな
いし、ことばも参加者の私語で聞き取れず、拡声器からの演説はすでに騒音としか感
じられません。
去年の港湾労組主催の集会に参加したのですが(日比谷夜音)集会が始まってしば
らくして司会のかたが、後ろの人たちが見えないからと旗・のぼりを下ろすようアナ
ウンスすることがありました。そんなことを言われなくては分からない人たちが形成
する集会ってなんだかな~とがくっときます。通路にたくさん立っている人に想いが
及ばず、旗やらなんやらを平気で座席においていたりするのも…それが教職員の団体
だったりすると、悲しくなります。
かなり横道に膨れあがってしまいましたが、本題に入ります。
結論から言って、旗・のぼりは立てない方が、イラク撤退へと政策の変更を求める、
集会の目的を達するためには得策です。
自民党は利権集団であるために、握っている利権を離さないために、意外と世論の
風に気を使っています。参院選を前に、落選したくない候補者たちはキリキリしてい
ます。一方で強権的な手を使いつつも、世論の変化にも敏感です。
3/20という節目に、統一行動の成り行きに注視しているはず。でものぼりを上
げるデモの常連さんは恐れるに足りぬ、とすでに結論を出していることでしょう。社
会の少数派の域を出る恐れはありませんから。(すでにみなさんご指摘のとおり)
しかし、組織化されていない人々の参加こそ、もっとも恐れているはず。デモなん
て興味がなかった、初参加のひと、デモ慣れしていない平和運動初心者。一般個人参
加が増えるほど、政権への打撃は強まるものと確信しております。
連合と共産系の対立、縄張り争い、政権側を喜ばせるだけです。
過去のいきさつは色々あったでしょう。さざ波にも平和運動、労働運動で辛苦を舐
めた方々のためいき、虚無感があふれています。
でも、過去よりも何よりも、現在が大事。これからが大事。一度、組織・団体の帰
属意識や肩書きを脱ぎ捨てて、一人の人間に立ち返ってみませんか?一日だけでも人
間を取り巻く様々なしがらみから離れて、平和を純粋に求めてみませんか?