一般に、時代の転換期においては一つの問題に対する見方も多様化し、伝統的見解に 対して様々な異論が提起されるのが普通です。時代の転換期とは、社会の物質的土台 の変化があるレベルを超えたところで人々に意識されるものです。「存在が意識を規 定する」のであれば、「存在」の変動期に「意識」が変革されるのはごく自然なこと であり、様々な異論の提起もその帰結に過ぎません。
そのような転換期における知的営為には幾つかの問題があります。
1) 伝統的見解からの逸脱を逸脱であるがゆえをもって「修正主義」として排撃する。
2)時代が変わりつつあるという理由で過去の知的遺産を機械的に否定し、断絶を志
向する。
3) あらゆる見解を相対化し、真実を求める営為を無意味化する。
このように抽出するとそれぞれが誤りであることは見易いことですが、人は多かれ少
なかれ誰もがこのような誤りを無自覚の内に抱え込んでいるのではないでしょうか?
人間の意識が存在に規定される以上、時代の転換期=存在の過渡期にそれは不可避的
に我々を捉えてしまうのだと思います。
どうしたら誤りを最低限のものに抑えることができるでしょうか? と問われて「しっ かり勉強もし、冷静に時代や物事の本質把握に努めましょう」などという模範回答を しても意味がありません。なぜなら、「勉強」や「本質把握」を支える基幹イデオロ ギーすら時代の波に洗われざるを得ないからです。王道はありません。ただ一つの事 実「時代の転換期に人は誤りを犯しやすい存在なのだ」という事実を常に念頭に置い て思索するよりありません。この認識、あるいは懐疑精神さえあれば異論を排除する こともありませんし、自分だけが正しいとして聞く耳持たぬという傲慢な態度も避け ることができるのではないでしょうか?
なお、「時代の転換期に人は誤りを犯しやすい存在なのだ」という事実にはもう一つ の側面があります。それは、時代の転換期こそ人間の知的営為の底力を発揮できる時 代なのだということです。なぜなら、時代の転換期は既成の利害関係や秩序がその存 在基盤において大きく変動しつつある時代であり、そこに付着した権威や護教的、保 守的なイデオロギーが人々の精神に対する支配力を薄めつつある時代だからです。そ れは人々が自らの思想をあれこれの呪縛から解き放ち、知的冒険に赴く意思と勇気を 持てる時代です。過去の知的遺産の多くはそんな時代における人間の伸びやかな知性 と勇気が産み出したものに他なりません。それが今、我々にも求められているのだと 確信します。現代は、小林多喜二から党派性だけを引き継いでもモノの役には立ちま せん。無力であるどころか時代の転換期において知性なき党派性は有害でしかありま せん。
「誤りを犯しやすい存在」であることを自覚しつつも尚「誤りを恐れぬ勇気」を持つ。 時代の転換期にありがちな独善的自閉や原理主義に落ち込む道を回避できるかどうか、 生産性ある知的営為によって時代に相応しい世界認識を獲得できるか否か、それは異 論にどう向き合うかという姿勢にかかっていると言っても過言ではないと思います。 (2004/3/16 PM5:20記)