「問題はもはや社会主義か資本主義か、ではありません。人間の顔をした資本主義 か、競争万能の資本主義か、なのです。」
と山田氏は述べられています。
私が疑問に思うのは、競争万能ではない「人間の顔をした」社会を求めるにあたっ
て、なぜ「人間の顔をした“資本主義”」などという限定を設けなければならないの
か、という点です。
真に「人間の顔をした」社会を追求した結果、その社会が資本主義であろうと社会
主義であろうと、それこそ“問題ではない”のではないでしょうか。
資本主義の存在が、「人間の顔をした」社会を実現する上で障害となるならば、資
本主義そのものと衝突したり、その突破を図ったりを、回避する理由はないでしょう。
最初から資本主義の突破を前提とはしないにしても、資本主義はあくまでも「人間の
顔をした」社会実現の上で、障害とならない範囲内でのみ、認められるべきものです。
限定を設けるべきは「人間の顔をした」社会のほうではなく、資本主義のほうです。
山田氏が「何よりも…事実を恐れずに把握し、楽観的にも悲観的にも考えないし、
原理によって目を曇らせないという職業倫理を持ってい」(3月11日付「事実を見
るということ」)らっしゃるというのであれば、「問題はもはや社会主義か資本主義
か、ではありません。」の後に続くべき言葉は、資本主義という限定抜きの“人間の
顔をした社会か否か、なのです”ではないのでしょうか。
それとも山田氏は、これまでの投稿ではなんら示されてはいないようですが、「人
間の顔をした」社会が資本主義そのものとの衝突やその突破を抜きにして、永続的に
実現可能である、いやむしろ、資本主義の枠内でこそ初めて真に人間の顔をした社会
の実現が可能となる、という研究成果をすでに挙げられていらっしゃるのでしょうか。
そのような検討抜きに、ただ、既成事実であるから、多数派に認知されているから、
というだけで資本主義を自明の、犯すべからざる「原理」であるかのようにみなして
いるとしたら、それが果たして、山田氏の批判される「原理主義」的あり方よりも、
説得力のあるものなのでしょうか。