拙文に対して過大な評価をいただいているようでありがとうございます。これから
もいろいろご批判・ご教示をいただければありがたいと思っています。
拙文「あの先に修羅は転がれ雲の峰」(露伴の句は「あの先に」ではなく「あの先
で」でした。この機会に自分の杜撰をおわびするとともに修正させていただきます)
における私の司馬遼太郎評を、愚等虫様はきびしすぎるとおっしゃられています。
私も(自分で言うのは無責任のようですが)そのきらいはあったと思うので、司馬
氏の肯定的な部分(私には異論もありますが)を書いてくださった愚等虫様の投稿に
感謝いたします。
私は若い頃はけっこうな司馬遼太郎ファンであったと思います。中学3年のときに
新聞に連載されていた「功名が辻」を親の目を隠れて読んで以来、『龍馬がいく』
『燃えよ剣』『新撰組血風禄』『北斗の人』『義経』『関ヶ原』『城塞』エトセトラ
エトセトラ司馬氏の小説の3分の2ぐらいは読みました。
中で愛読をやめたのは、司馬氏から真実の歴史を学ぶことはできないと悟ったから
です。そのきっかけは『坂の上の雲』ではなくて『箱根の坂』だったと思います。
ただし司馬氏がその語り口や人間把握において独自の才能を持った小説家であるこ
とを私は否定するものではありません。またその人間感にまったく共感を覚えないわ
けでもありません。私は先日の投稿「無差別テロを考える」の最後に老子の「人を殺
すものは以て志を天下に得るべからず」という言葉を引用させてもらいましたが、こ
の文章は『竜馬がいく』にも引用されていたような気もします。
ところで私は司馬氏の天皇観を、天皇制イデオロギーにとりこまれたもっとも典型
的でもっとも劣悪なものと思っています(なぜそう思うかは機会があったら述べさせ
てもらうつもりです)。その点では愚等虫様とは「温度差」があるようです。
現代世界でレーニンや毛沢東やさらにはマルクス・エンゲルスさえ自発的に読む人
が少なくなった中で、グラムシが(あまりわかりやすい文章とも思われないのに)多
数の人に読み続けられている状況は偉観です。私もグラムシを勉強しなければならな
いと思っているこのごろです。愚等虫様がグラムシを現代でどのように読まれるのか、
機会があれば教えていただきたいと思います。
とりあえず御礼まで。