天邪鬼さん、先日はレス(3月2日付)ありがとうございます。
ただ、恥ずかしながら、この日の投稿で指摘された「正木弁護士」というのがどういう方かよく存じ上げないので、できれば教えていただければ幸いです。
さて、間もなく3・20です。
私自身はこの日は「春の集会」という修習生有志による勉強会のため、デモには参加できないのですが、石油のためなら殺人も厭わない、この醜悪な経済社会を変えるために、微力ながら少しでも努力していきたいと思います。
なお、私が修習でお世話になっている事務所の先生はこの日、地元で反戦の街頭演説をされるようです。
で、これに関連してですが、最近ここのサイトで憲法「改正」が議論されているようですので、ちょっと私の意見を述べてみたいと思います。 以下の文章は私の所属政党(みどりの会議)のMLで流したもので、党内的(というか、ML的)にはそれなりの評価を頂いたのですが、「さざ波」の皆さんのご意見も頂けたら幸いです。
=========ここより==============
はじめに
先の民主党大会において、菅代表は、党の方針として「論憲」を打ち出しました。
しかし、私も何も未来永劫にわたって、一言一句たりとも変えてはならない、とは思わないのですが、今、このタイミングで「論憲」を打ち出すのは、あまりにもこの国にとって害が多く、もし党内政治としてそのような事を言い出すのであれば、政治家としての資質を根本的に欠いていると思います。 かえって自民党→新進党出身の岡田幹事長の方が見識ある発言をされており(文芸春秋社、「日本の論点」参照)、失礼ながら感心させられました。
そこで、今憲法論議を打ち出すのはなぜまずいか、雑文をしたためることにしました。
1. 今、議論が本当に必要なのは憲法なのか?
菅代表はおおむね、以下のような趣旨の発言をされています。
>憲法もまた人間の作ったものであり、不磨の大典ではありません。民主主 義の産物であるべきものです。そして、試行錯誤を通じて、より良いものを 作る可能性を秘めているのが、民主主義の長所ではないのでしょうか?
確かに、現実の政治的、経済的、社会的諸条件を一切無視した抽象的観念論としては、菅代表の言うことも事実でしょう。
しかし、私たちは、
「資源や地球環境が無限に存在し、また一旦人命が失われてもすぐまた生き返ることができる」
そんなおとぎ話の世界、ネバーランドに住んでいるわけではありません。
私たちが実際に住んでいる世界は、
「限られた資源を有し、汚染物質が発生したら確実に地球環境が悪化し、また一旦人命が失われたら取り返しがつかない」
そんな世界です。
政治は、現実を離れた、メルヘンや議論ごっこの世界ではありません。
人の命がかかった、真剣な営みなのです。
今の日本の課題とは何でしょうか。
政治腐敗、止まらない税金の無駄遣い、環境破壊…
どれを取っても、日本国憲法が必要な改革の妨げになっている、ということはありません。
憲法に関しては、変えることよりも、むしろ実現することが課題なのです。
また、一般市民が憲法について議論するのはかまいませんが、国会で議論するとなれば、国会職員の人件費を始め、納税者の貴重な血税が費されるのです。国の財源は無限にあるわけではありません。
さらに、時間も人材も、そして人間の関心も有限である以上、あるテーマが主要なテーマとなれば、他のテーマに掛けるべきエネルギーがそちらに割かれることになります。
ですから、国会での議論は、当然、この国にとって最も必要なテーマに絞ってなされるべきです。
にもかかわらず、憲法問題が中心課題となれば、政・官・業、鉄の三角形の解体など、本来なすべき改革に注がれるべきエネルギーがそちらに費やされることになります。
また、政治力学として、こうした政治改革が主要テーマになれば自民党を支持する人は極めて限られることになりますが、憲法問題が焦点となれば、自民党にも一定の支持が集まります。
憲法問題を議論の焦点にすえることを許して、せっかく自民党を打倒するチャンスなのに、ほっとけば自然消滅するはずの自民党を敢えて生き返らせるのであれば、主観的には改革派のつもりであっても、客観的には最悪の守旧派として歴史に悪名をとどめることでしょう。
2.「論憲」主張の何が問題か
-確かに社・共が時代に対応しているとは言えない。しかし民主党はあんまりだ!-
私も、何も「改憲=絶対悪」とまで言うつもりはありません。
(少なくとも自民党崩壊前における)改憲には絶対反対ですが、憲法改正を考えている人も、それなりにこの国の行く末を真剣に考えている、ということは認めます。
しかし、異なる意見に敬意を表すことが大事だからといって、自分自身が改憲派に屈するようなことがあっては、それこそ相手に対して非礼だと思っています。
例えば、刑事弁護人は、別に検察官を悪者だと思っているわけではありません。
検察官も法律のプロとして、犯罪から人々の安全を守るため職務に励んでいるわけですから。
しかし、だからといって、被告人が無罪を主張しているのに、検察官に付和雷同して「被告人は犯人です」等と言っては、被告人はもちろんのこと、検察官からも馬鹿にされるでしょう。被告人はもちろんのこと、検察官に対しても、あまりにも礼を失する行為でしょう。
憲法という被告人が、「この国の惨状、旧来のシステムの現状への不対応」という被害について、あたかも犯人であるかのようなあらぬ疑いを掛けられているのに、自民党検事と意見を同じくするようなことは、弁護人としてあってはならないことです。
確かに、旧来の「弁護人」である社民党や共産党には、
「無罪主張一点張りで、被告人以外が犯人である証拠をまともに示さない」
(護憲を唱えるだけで、「この国のシステムがおかしくなっているのではないか。国の根元から変えるべきではないか。」という人々の疑問に答えるための努力をしてこなかった。そのため、「護憲」の主張があたかも守旧的主張であるかのような印象を与えた。)
あるいは
「被害者を中傷する(真に無罪であれば「被害者の落ち度」を云々する必要は全くないというのに!)」
(例えば、拉致被害者への心無い仕打ち)
といった問題ある振る舞いがあり、それにより、先の衆院選では
「刑事弁護人としての資質」(護憲を唱える資格)
が厳しく問われました。
これはやむをえない事であったと思います。
しかしながら、旧革新勢力がどうであれ、無辜の処罰を防ぐ、という刑事弁護人の役割が否定されるものではありません。
今度の「弁護人」たる民主党の対応を見ると、被告人の無罪を主張すべき立場にあるにもかかわらず、「タブーなき議論」といった言葉の魔術に踊らされて、
「被告人の情状についてのタブーなき議論、被告人の量刑についてのタブーなき議論(被告人が有罪ということを自明の前提としたものです!)」などと、
「被告人の非を認めないと世間の理解は得られない」かのごとき自信を喪失した態度をとっています。
なぜ、「論憲」などと、そこまで腰砕けになる必要が、妥協する必要が、屈服する必要があるのですか?
なぜ、「被告人が有罪であることを認めますから、せめて死刑でなく無期懲役で勘弁してくれませんか?」、
「被告人が死刑になるのは構いませんから、鋸引き・さらし首というルール違反の刑罰ではなく、ルールにのっとって絞首刑にしてください!」
などと言わなければならないのですか?
刑事弁護人は、被告人が無罪を主張しているのなら、正々堂々と、証拠に基づいて論陣を張って、「被告人は無罪です!」と言わなければなりません。
3.憲法改正より民法改正を!
もっとも、憲法改正というと、一見華やかで、あたかもこの国の行く末を真剣に考えているかのような印象を与えます。
これに対抗するには、かなりインパクトのある対案が必要でしょう。
私は、そもそも「憲法を論じる」という枠組み自体を問い直すべき、「憲法改正」に対しては「民法改正」を対峙すべきだと思います。
というのも、今日においては、時代を切り開く、新しい社会を作る、新しい経済を作るにおいて主に議論すべき、大改造すべきは憲法というよりむしろ民法ではないのか、と思うからです。
確かに、フランス革命のときも、ロシア革命のときも、ワイマール憲法においても、大変革においては常に憲法は主要ターゲットとなってきました。
しかし、それは憲法が国家を規制する規範だからです。そして、先人たちが追い求めたのは言論の自由、思想・良心の自由といった国家からの自由、国家によって妨げられることない自由であり、あるいは生存権、労働基本権といった国家によって実現されるべき自由(権利)、国家による自由であったからです。確かに今日においても、こうした自由が、平等が十分に達成されているとはいえませんが、今日の憲法には既に個人の尊厳(13条)、法の下の平等(14条)、生存権(25条)は規定されています。あとは、いかに実現するかでしょう。
むしろ、今日問題となっているのは、個人の権利の果てしない拡大が欲望の拡大となり、私たちの基盤である地球の存立を脅かしていることです。確かに国家による環境保全への努力も重要ですが、それ以上に大事なのは市民一人一人が身を律すること、他の生き物への、未来の子供たちへの友愛を見につけることです。つまり、国家というよりは市民一人一人の行為が今日の問題を解決する主役となっているのです。
そして、憲法が最高法規なのはなぜかといえば、憲法とはあくまでも国家の行為を制限する法規範だからです。そうである以上、今日見直すべき規範は国家権力を規律する法たる憲法ではありません。むしろ、市民相互の関係を規律する法である民法なのです。
古代、日本は中国から律令を取り入れて中央集権の国づくりに進んでいきました。
そして近代、日本は西欧の人権思想の果実を憲法に取り入れてこようと努力してきました。
現在私たちが生存してこられるのはこれらの日本、そして世界の先人たちの努力の結晶といえます。
しかし、祖先から受けた恩は、少しでも未来の方が安心して過ごせる社会を作ることで返すもの。そして、いま、日本にいる私たちの重大なる責務は、この世界史上最大の転換期において、いかに市民が抑圧でなしに自制するルールを構築していくか、そしてそれをいかに世界に発信していくことかということです。すなわち、日本から新民法を発信することが、先人たち、中国、あるいは西欧の方から律令、憲法を頂いたことへの一つの大きな恩返しなのです。
憲法改正か否か、という議論自体、憲法を論じることが国政の唯一にして最高の課題だと思い込むこと自体、「政治とは、国家が国民に対してサービスするもの」という古い政治の概念を前提とするものです。
今、この時代、21世紀においてなすべきことは、「憲法という被告人はこの国の惨状につき有罪である」という主張に対し、「平和憲法はすばらしい」、つまり「被告人はいい奴である(これ自体はなんら無罪を意味するものではなく、どうかすると、「被告人は有罪である」事を前提とした、単なる情状立証と取られる恐れがあります)」という問いに答えない主張を繰り返すことではなく、ましてや「有罪は認めるから、死刑は勘弁してくれ」などという、迫力を欠く泣き言を垂れることでもありません。
正々堂々と、「被告人は有罪か」を争うべきなのです。
4.旧革新勢力から何を学ぶべきか
(旧革新勢力の負の遺産に学ぶとは)
これはメディア・知識人のレベルに限られ、一般市民の意見ではないと思うのですが、あたかも前回衆院選における社民党の敗因が「頑固に護憲を唱えたこと」であるかのような意見をしばしば散見します。
しかし、幾らなんでも、「護憲を唱えたこと」が社民党の敗因、人々の生命を大事にしたことが社民党の敗因、というほど世の中は右傾化していないでしょう。
圧倒的多数の人々にとって大事なのは、護憲だ改憲だ、という観念論的議論を繰り返すことではなく、実際に起こっている問題にどう対処するか、です。
世論調査すればはっきりすると思いますが、社民党の敗因は、決して「護憲を唱えたこと」「生命を大事にしたこと」ではなく、拉致問題(あるいは辻元問題)に象徴されるように、「あんたらは本当に生命を大事にしているのか」「あんたらに護憲を唱える資格はあるのか」ということだと思います。
仮に護憲を唱えたことが敗因だったとしても、それは護憲それ自体ではなく、
「護憲を唱えるだけで、その他の具体的問題への現実的対応が見えなかった」
「護憲を唱えるだけで、世の中の変化にどう対応しているのが見えなかった」
ということでしょう。
私たちが社民党の失敗から学ぶとすれば、戦争に反対するあまり、「戦争反対」だけを声高に叫んで、他の諸問題に対する対処能力(これこそが「政権担当能力」なのです)を疑われ、自ら政権から遠ざかることがない様にしよう、ということだと思います。
民法改正(選択的夫婦別姓といった問題に矮小化されがちですが、実は日本の経済社会を抜本的に変えていくことです)、あるいは真の経済構造改革、といった「必要な改革」をきっちり議論していくこと、それが結果的に政権を獲得し、戦争を止めていくことになるのです。
何しろ、イラク制圧後、米軍が真っ先に石油施設の防御に走ったことに象徴されるように、戦争を語る際にも結局、経済的要因への議論が不可欠なのですから。
(旧革新勢力の正の遺産に学ぶとは)
一方、いかに社民党や共産党に問題があるにせよ、新しい時代において改革を唱える者は、前の時代に変革を求めた先人たちから謙虚に学ぶ必要があります。
先人の成果に学ばなければどうなるか、というのは、旧ソ連などの指導者が、ブルジョワ自由主義を非難するあまり、かつてブルジョワ自由主義が獲得した成果たる専制からの解放、といった課題に無頓着になり、というか敵対して、その結果自由はもちろん平等すら確保できなくなった…
こうした歴史の苦い教訓が教えるところです。
いかに旧革新勢力に問題があったとしても、平和憲法を必死に守ってきたことによって戦後この方、この国が大きくは道を誤らないで来た、というのはれっきとした事実です。
確かに、解釈改憲を許してきた、政権を交代させられなかった、というのは平和勢力の力不足かもしれませんが、同時に明文改憲までは許さなかった、海外派兵はなかなかできなかった、というのは過去の平和勢力の大事な遺産です。
また、確かに憲法も人間の作るものである以上、完璧なものではありませんが、同時に憲法を変える者が憲法を制定した者より優れた存在である、という保証はどこにもありません。
この事実を忘れた改革論は、決して地に足の付いたものとはならないでしょう。
前回の総選挙において、社民党は護憲を唱える資格を厳しく問われ、前々回の600万票を300万票に減らしました。
しかし、だからといって、改憲を容認しては、「論憲」を受け入れるようになっては、その300万票は「30万票」にまで激減することでしょう。
最も大事な味方を裏切り、踏みにじるような輩は、いかなる人の信頼も決して得られるはずがありません。
5.仮に改憲の議論があるとしたら
もっとも、今後100年間にわたって憲法が一切いじられない、というのも想定しづらいでしょう。
しかるべきときが来れば、憲法問題の議論が俎上に上ることもありうると思います。
しかし、仮に本当に被告人が罪を犯したとしても、違法捜査をしてきた捜査機関に、「有罪判決」という栄誉を与えてはなりません。最判昭53.9.7は「証拠物の押収などの手続きに憲法35条などの所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが将来における違法な捜査の抑制の見地から相当でないと認められる場合には、その証拠能力は否定される」と述べています。
これまで散々憲法を無視してきた自民党に、憲法改正を唱える資格はありません。憲法の精神を没却するような重大な違法を繰り返してきた自民党に、憲法改正という栄誉を与えてはなりません。そのようなことを許容しては、ルール(憲法)を踏みにじって人々の権利を侵害してもルールさえ改正してしまえばよい、という風潮を将来にわたって招いてしまうことになります。
仮に憲法についての議論がなされるとしても、それは自民党の解体後になされなければなりません。
自民党が、民主党はおろか、「新革新勢力」すら下回る第三党になってはじめて、軍国主義復活につながらない、自由な立場での憲法論議が可能になるのではないかと思います。
仮に「民主主義をより強化する方向での」憲法の見直しがありうるとしても、議論においては時と所と優先順位を弁えるべきであり、死に掛けた自民党をよみがえらせるだけの、日本を危険な方向に導くだけの、現時点での検討は論外でしょう。
===========ここまで=============