3月21日の新聞やニュースは3・20世界反戦共同行動をそれなりに伝えています。(朝日新聞に桃色ゲリラの写真がのっていましたが、私はピンクの傘に隠され頭髪が写っているだけでした。)
そして世界でも日本でも共通していることは、市民運動と労働運動の共同行動がその基調となっていることです。レーバーネット日本のサイトに乗っていた一参加者氏の感想も、そのことに好感を持ってふれていました。私も同感です。
市民運動だけでは反戦運動における組織性や安定性が確保されません。一方、労働運動だけでは反戦運動におけるその多様性や新規性が確保されません。性格の違う二つの運動が連携することによって反戦運動の活力がえられているのです。
私は若いときから「国際民主主義」という言葉が好きでした。この言葉は1948年の国会で、日本の国家公務員から団体交渉権と争議権を奪った公務員法改定に反対する羽仁五郎氏の演説で使われたものです。羽仁氏は「私はこのような恥ずべき法案に反対する光栄を、国際民主主義の前に告げるものであります」と叫ばれました。
私は羽仁氏の演説から「国際民主主義」という言葉を拝借し、30年ほどの間おりにふれて使い続けました。しかしよく友人たちから、「国際共産主義」という言葉は聞いたことがあるが「国際民主主義」という言葉は聞いたことがないとひやかされたものです。それでも私は「国際民主主義」を「国際共産主義」よりさらに基本的で重要な理念と考え、その言葉を使い続けました。
しかしこのごろあちこちで「国際民主主義」という言葉を見かけるようになりました。これらの使用者は別に羽仁演説を典拠にしているわけではなく、世界社会フォーラムや国際反戦運動の現実が、彼らに自然に「国際民主主義」という言葉を使わせているのだと思います。少し自慢させてもらえれば、私の夢が現実に追いつかれたようにも思われるのです。
そしてその現実をうながしているのは、先に述べたように、市民運動と労働運動の共闘だと思います。国際反戦運動の前にも、シアトルの反グローバリズム運動を当地の労働組合ILWUが支援したといった事実があります。
これからの運動のリーダーシップをとられる方々にこの点に関する歴史的自覚を求め、よりいっそうの共闘を進められることを希望してやみません。