旭川の自衛隊基地で派兵抗議行動を行っていた学生や、立川自衛隊監視テント村の
活動家の逮捕を知るとき(社会主義者さんカンパを入れておきます)、イラク反戦運
動は(北朝鮮批判などとちがって)日本の国家意志に反する活動であり、したがって
警察や裁判所などの国家の支配機構と、本質的に敵対せざるをえないことが再認識さ
れます。
桃色ゲリラのように楽しく反戦運動をしようとする人たちも私は高く評価するので
すが、まったくの遊びごとというわけにもいかないのです。
戦前の日本共産党は大日本帝国の侵略戦争に反対し、多くの活動家が投獄され拷問
に死んでいきました。そういった人々に私は深い敬意を抱かざるをえませんが、私た
ちの誰もが小林多喜二や野呂栄太郎になれるわけではありません(少なくとも私のよ
うな凡人は拷問に耐える自信はありません。)
しかし事態が極限的にならないかぎりその必要もありません。多くの凡人が声をあ
げられる状況がある限り反戦運動の拷問死は非現実的な想定です。
けれども権力と反戦運動の力関係がどうなるかで、弾圧の範囲と残酷さが現在のま
までとどまる保証はありません。そのときは多くの(私もふくむ)凡人は沈黙を強い
られ、(小林多喜二や野呂栄太郎のような)特別な人々の犠牲が続くことになるで
しょう。そして被侵略地域はまったくの地獄と化しているでしょう。
だからこそ、凡人が多少の勇気を持てば声をあげられる時期こそが勝負どころなの
です。
私はロベルト・ロッセリーニが第二次大戦後につくった映画の1シーンを思い出し
ます。パルチザンに仲間を殺されたナチが、その報復に市民から無作為に処刑する人
数を選び出します。そのとき選ばれた市民Aが「ファシズムに何もしなかった自分が
なぜ殺されなければならないのだ」と泣き叫びます。そのとき横の市民Bが「何もし
なかったからこそあんたは殺されるはめになったのだ」とつぶやきます。聞きとがめ
たAは「それじゃああんたは何をやったのだ」と反発します。Bは「もちろん特別な
能力のない私には自分のできる範囲でのささやかな抵抗しかできなかった。しかしみ
んなが各自の義務をはたしていればこんなことにはならなかったはずなのだ」と答え
たのです。
このサイトはけっこうアクセスされている方が多いと思います。その多くの方は私
より意識が高く、私ができる以上のことをなされていると思います。しかしそうでな
い方もおられるように感じます。そういう方たちに私は、自分たちでできるささやか
な義務をはたそうじゃないかと呼びかけたいと思います。
さしあたり3月20日の国際反戦共同行動に、日比谷であれ芝であれあるいは日本
各地のどこであれ、参加する人が一人でも多くなるように、知人・友人に呼びかけよ
うではありませんか。