「さざ波通信」につまらない文章を投稿させてもらうようになってから、私は昔読
んだマルクス主義関係の本をだいぶ読み直してみました。
それでつくづく再確認したのは、マルクスという人の人間性の狭さです。(マルク
スは歴史上の人物ですから、こういうことを書いても本サイトの個人攻撃禁止規定に
は抵触しないと考えます。)
E・H・カーのマルクス伝にあるラサールを「黒ん坊ユダヤ人」呼ばわりしたこと
や、『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』での農民蔑視など、いくらでもそう
いった例はあげられます。
マルクスは罵詈雑言の大家で、『哲学の貧困』序文でのプルードン攻撃など天才的
なものだと思いました(そういった「天才性」に今の私は軽蔑しか感じませんが)。
マルクス主義者の多くの人が(グラムシなどの例外もいますが)、マルクスの罵詈
雑言癖を(マルクスの博識と論理性と文学的天才を欠きながら)踏襲しています。私
はそういった姿に「犬の習性が飼い主に似る」事実を想起し、人間の尊厳をまったく
感じませんでした。
そういった個人的性向だけでなく、マルクスがとった政治的排他主義(「農民」
「小市民」「ルンペンプロレタリアート」などに対する)は、これからの民主主義や
労働運動が絶対に踏襲してはならない態度だと思います。
このようにマルクスの人間性はこれからの人類にとって規範とならないものですが、
それはマルクスの言ったことの全否定を意味しません。
私は本サイトへの最初の投稿で『賃金・価格・利潤』を引用し、そこで描かれた資
本が労働を搾取する姿が、現在の日本の状況そのままであることを指摘しました。私
はマルクスの資本主義批判(社会的に生産された富が生産した多数者に還元されず少
数者への集中を繰り返すことの不整合性)は正しいと思っています。マルクスが『資
本論』で行った労働価値説によるその定式化に問題があるにしてもです(森嶋・カテ
フォレス『価値・搾取・成長』によれば一応そういう理解も可能なようですが)。
思うにある人物の言ったことが正しいか否かは、言った人物の人間性とは何の関係
もないことです。
例えば、人類に対する知的貢献度から言えばマルクスより格が上のニュートンも、
その人格はマルクス以上に芳ばしくない人であったようです。
しかし現代科学文明の基礎として微積分学(ニュートンとライプニッツが創始した)
やニュートン力学を学ぶとき、ニュートンの人格を問題にする人は誰もいません。そ
れはニュートンにとってむしろ光栄のことでしょう。
これからわれわれがマルクスの遺産を踏襲しようとするときも、それと同様にマル
クスの排他的人格と無関係な理解がなされるべきだと考えるのです。