関西百万人署名と関西合同労組の仕立てた夜行バスが東京,六本木に着いたのは午前8時頃だったと思います。もうそのころは春の雨が本降りになって辛い集会になるナーと覚悟するより他ありません。私はビニールのかっぱを売店で買って朝食を駅前の豚どん屋で仲間と食べてから百万人の人たちとともに代々木公園へとぞろぞろ歩きました。私は両松葉なので傘がもてません。薄いかっぱを通して雨が体を冷やし靴下が次第に湿っていきます。
公会堂の前の楡の木広場と噴水を私たちの一団が通りぬけて噴水の向こうに場所がえになったというので私は困りました。長壁さんやその他のさざ波の方々に楡の木とかいてあるのに急な変更です。私はみんなから離れて公会堂のひさしの下で待ったり時には楡の木広場の真ん中の立ったりして目立つようにしていたのですがはたせるかな貫太郎さんと会えませんでした。本当に残念です。
合労の人が事情を聞いていたので顔も見たこともない長壁さんを探しに手分けしてさがしてくれたり自分たちの集合場所に行ったりしてくれました。そして約束の時間に彼女が私を見つけてくれました。私は関西の人と別れを告げ長壁さんの仲間の中に入って行動をともにすることになったのです。彼女は大樹の陰さんと貫太郎さんに会いたいたいといってあちこちを見回していたのですが全国から集まったたくさんの人々から顔を知らない人を探すのは不可能でした。また大樹の陰さんは病気療養中らしいのでこんなにひどい雨の中はこられないほうがよいと私は彼女にいいました。
舞台ではフオークシンガーが歌っていましたがじっとしていると寒くてたまらないのでデモの出発をいまや遅しと待ちかねていました。ともかく動いて大声を張り上げねば体が温まりません。そしてデモがやっと出発しそれはそれは長い長い色とりどりの行列になりビルのニ延々とルづくのでした。お天気が悪いので足元が水浸し。私はもし一人ならば決してこれだけの距離を歩けるとは思えないのですがみんながいるから脱落せずに最後まで歩きとうせたのでした。今。夜行で帰ったばかりなので筋道を立てて文章が打てないのですが私の網膜の底にデモの光景がまだ焼きついており耳の底にも怒涛のようなシュプレヒコールの声が残っています。もしも雨がなければもっともっと多くの人が参加したでしょうがこの雨の中でもこれだけのデモができたということに感動がありました。そして3月20日は70年ベトナム反戦運動の高揚期以来雌伏していた平和の戦士たちがこれだけの人々を結集させた到達点であり、更なる反戦の戦いの出発点であったことをこの体が確信しました。また日本共産党の分裂主義をものともしないような反戦の戦いが前進したことを報告します。・・・(文字化け)・・・。
長壁さま、お世話になりました。そしてあなたの仲間たちにお伝えください。私はあなたたちから両の手に抱えきれないほどの勇気と連帯というお土産をいただきました。これほどに充実した1日は生涯にそれほど経験できるものではなかったと思います。貫太郎様、大樹の陰様、クオリアさまそして全部の名前をかけませんが他のさざなみの仲間たち、今度はみんな集まれるようにしましょうね。結党はできませんがサークルができたらと思います。